「マタイの福音書」連続講解説教

永遠の記念

マタイの福音書26章1節から13節
岩本遠億牧師
2008年10月5日

26:1 イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。 26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」 26:3 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、 26:4 イエスをだまして捕え、殺そうと相談した。 26:5 しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。 26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、 26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。 26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。 26:9 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」 26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。 26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。 26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

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マタイの福音書は、26章からまったく新しい局面に入ります。1節に「これらの話を全て語り終えられると」とありますが、これは、イエス様の宣教活動が終わったことを意味します。語るべきことを全部語り終えて、十字架にかけられるために進まれるのです。しかも、ただ単に民の指導者たちに捕えられ、ローマ人によって処刑されるだけではない。まさに、全人類の罪を贖う過ぎ越しの小羊として、自ら過ぎ越しの祭りに十字架にかけられるようにことを進めておられるのです。そして、そのことをあからさまに仰っている。

過ぎ越しの祭りには、エルサレムに200万人とも言われるユダヤ人たちが全世界から集まっていました。その中にはイエス様を王として担ぎあげようとする人々もいました。過ぎ越しの祭りの最中にイエス様を捕えたら、暴動が起きかねない。そして、それがローマ軍の介入を引き起こしたら、今行っている神殿礼拝さえも潰されてしまう。それで、過ぎ越しの祭りを避けて、イエス様を捕え、殺そうとしていたのが民の指導者たちだったのです。しかし、結局イエス様を担ぎあげようとしていた人々、イエス様に向かって「ホサナ。主の御名によって来る方に」と叫んでいた人々は、「その男を十字架に付けろ」と騒ぎ立てる群衆となり、まさに、イエス様の味方と思われていた人々が、イエス様を殺す側に立つ。そのような、人の思いが一気にイエス様に敵対する、全ての人がイエス様を裏切り、全ての人がイエス様を見捨てる、そのような状況の中でイエス様は黙って十字架に向かわれるのです。

イエス様に対する悪意と反対、離反が進んで行こうとしていた時、一つの美しいエピソードがここに語られます。そして、それは、イエス様の十字架と復活の福音が語られるところで、この女の人のための記念としていつまでも語り継がれるというほどの美しいエピソードだったのです。

イエス様は、エルサレムにやって来られたときから、エルサレム城外のベタニヤにあるハンセン病の病人だったシモンの家に滞在しておられました。これは、マルタとマリヤの家で、シモンというのはマルタの夫だったとも、姉妹の父だったとも言われます。裕福な家庭だったようです。

しかし、癒されたとは言え、ハンセン病の病人だった人は、社会からは蔑まれていたでしょう。十字架にかかられる前のイエス様は、彼らの愛を大切にし、彼らの愛を喜ばれた。ある意味、彼らの愛を必要となさったのです。そこでの出来事です。

ある女の人が、食事をしておられるイエス様の後ろに立って、非常に高価な香油の入った石膏の壺を割り、イエス様の頭の上から注ぎかけた。家中にその香りが充満したことでしょう。しかし、弟子たちは言うのです。「なぜそんな無駄なことをするのか。なぜ、それを売って貧しい人たちに施さないのか」と。皆さん、この言葉をどのように思われるでしょうか。

私は、ある違和感を覚えました。彼らはイスラエル人ではなかったでしょうか。彼らは、イエス様がイスラエルの王となることを願っていたのではなかったでしょうか。

サウル、ダビデ、彼らに続いた王たち、また北イスラエル王国の王たちも、預言者や民の司たちに油を注がれて王となったのです。また、祭司も油を注がれて祭司となりました。この女性は、自分が何をしているのか、自分の行為の意味は知らなかったでしょう。ただ、自分が持っているものの中で最も価値あるものをイエス様に捧げたいと思った。いや、この香油は、この女性にとって、自分の命そのものを意味していたのです。それがイエス様をイスラエルの王として任職するための預言者的な働きとなったのです。

それを見た弟子たちは、なぜ、「そうだ。これこそ王任職のための神様からの油注ぎなのだ」と思わなかったのでしょうか。王たるべき方に油が注がれたと言って喜ぶことができなかったのは何故なのだろうか。かえって、何故そんな無駄をするのかと言って、この女の人を責めている。間接的には、イエス様の価値を認めていないのです。弟子たちの間でもイエス様は低められているのです。それが十字架に向かうイエス様だったのです。

イエス様は、この油注ぎが何を意味するのか、はっきりと意識しておられたに違いありません。それが王任職の証であり、神様の御霊がこの女の人を導いて、この人の思いを超えてこのような行為をさせられたということを、イエス様は知っておられたはずです。しかし、イエス様は、「この人は、わたしに王任職の油を注いでくれたのだ」とは言われなかった。何故でしょうか。

ただ、イエス様は「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。 26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」と仰り、この人を守られるのです。

当時、立派な行為と呼ばれることが二つありました。一つは、貧しい人たちに施しをすること。もう一つは死者を手厚く葬ることです。そして、死者を手厚く葬ることのほうが、より重要だと考えられていたのです。ですから、イエス様は、この女性の行為を、死者を葬るための備えを前もってしてくれたのだ、私はもうすぐ死ぬが、その葬りの備えなのだ、今貧しい人たちに施すことより立派なんことなのだと言って、この人をお守りになったのです。

一方で、この女の人が行った油注ぎの王任職、祭司任職としての意味についてはお語りにならなかった。むしろそれをお隠しになったのです。イエス様は、人々がご自分を「王よ、祭司よ」と言って崇め、奉るような状況をもうお許しにならなかったからです。イエス様は、十字架にかけれられるという、最も低められ、卑しめられ、苦しめられること自体が真の王としての証、祭司としての証なのであって、人に賞賛されることを徹底的に拒否なさったからです。

だから、この女の人も油注ぎの意味を知りませんでした。弟子たちの目もさえぎられ、その意味を理解することができなかったのです。しかし、油注ぎそれ自体によって永遠の王、永遠の大祭司としての任職が行われたのです。イエス様はそのことを良しとされ、喜ばれました。

そして、言われたのです。「26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と。自分が何をしているのかも知らない。ただ、その名前も知られていない女性の愛の行為が、王任職の油注ぎとなった。自分の持っている最高のもの、自分自身、自分の命を捧げたいと思ったその思いが、イエス様の栄光を捧げることとなったのです。

そして、イエス様は、この人のしたことは、私の受難の記念の一部として語り伝えられると仰ったのではなく、この人の記念となると仰ったのです。イエス様ご自身が、このことを永遠に覚える。あなた方も覚えなさいと仰った。

この女の人、その後どんな信仰生活を送ったのでしょうか。いつもいつも喜び、感謝、祈りに満ち満ちた毎日だけだったのでしょうか。この人も、私たちと同じ人間だったのです。調子の良い時も悪い時もある。喜べる時も喜べない時もある。感謝できるときも、できない時も、祈れる時も、祈れない時もあったに違いないのです。しかし、イエス様は、この時のイエス様に対する愛の行為を永遠に覚えると仰った。あなたがたも、聖書を読むすべての人も、この人を覚えなさいと仰った。

イエス様のこの人に対する御思いは、私たちにも同様に向けられているのではないでしょうか。私たちもイエス様に出会った時、イエス様のために生きたいと思った。何も持ってなくても、自分の持っているもの、自分自身をイエス様に捧げていきたいと思ったことがあったに違いないと思います。そこに、自分の王であるイエス様のお姿を見ていたのです。自分より偉大な方、いや、天地の王であるイエス様に自分自身を捧げたいと思う思い、イエス様を信じた方々は、必ず一度は、そのように思ったはずです。しかし、その後いろいろなことを経験し、喜んでいた信仰が分からなくなる時がある。祈れなくなる時がある。礼拝にも来られなくなる時がある。しかし、イエス様は、イエス様に自分の最も良いものを捧げたいと思った思い、イエス様を自分の王として生きようとしたその思いを大切に握りしめて下さっているのです。そして、仰って下さる。「これをあなたの永遠の記念とする。あなたがたもお互いの、そのもっとも輝いた時を記念とせよ。わたしが大切にするものを、あなたがたも大切にせよ」と。

祈りましょう。

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