「マタイの福音書」連続講解説教

求めなさい。探しなさい。叩きなさい

マタイによる福音書7章7節から12節
岩本遠億牧師
2007年3月11日

7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

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皆さんは、初めて教会に行ったとき、あるいは来た時のことを覚えていますか?中には今日が初めてという方もいらっしゃるかもしれません。もし、無理やり連れて行かれたのでなければ、きっと何かを求めて教会の門をくぐられたに違いないと思います。そして、それは、大金持ちになるためでも、有名人になるためでも、名誉を得るためでもなかったのではないかと思いますが、どうだったでしょうか。

人生の意味、生きる意味、自分の存在の理由を求めてこられた方もおられるでしょう。魂の平安を求めてこられた方も、あるいは、病気や人生の苦しみからの解放を求めてこられた方もおられることでしょう。皆さん、お金が解決しないものの解決を求め、また、もし神が存在するなら、その神に出会いたいと思って来られたのではないでしょうか。

イエス様は、そのような私たち、神様を求め、神様の解決を求めてやってきた私たちに向かって仰っています。「求めよ、さらば与えられん。捜せ、さらば見出さん。叩け、さらば開かれん」と。あなたに与えられる祝福がある。あなたに出会おうとしている神様がいる。あなたのために開かれる天の門があるのだというのです。

今日の箇所に先立つ山上の説教の中でイエス様は、物質的な欲望の奴隷になってはいけないこと。食べ物や着物のことで思い煩わないようにと教えておられます。ですから、ここで「求めよ。捜せ。叩け」と仰っているのは、何か自分の欲望を満たすためのものを求めよ、と仰っているのではありません。むしろ、それは捨てて行くべきものです。ヤコブの手紙の中に次のような言葉があります。「4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」

イエス様は、何のためにこの地にやって来られたのでしょうか。それは、罪によって卑しめられた私たちの実存を回復するためです。神の子の尊厳を回復するためです。イエス様は、「あなたを神の子とする方がいる。あなたの尊厳を回復する神様がいる。その人生を祝福に満たす実在の神様がいて、求める者にご自身を現して下さる」と仰っているのです。

なぜ、イエス様は、こんなに強く仰ったのでしょうか。それは、私たちがすぐ諦めてしまうからです。私たちは、人生においていろいろな失敗を通ってきました。罪を犯しました。表面上は何も問題がないように見せることはできても、決して自分の心の中を人様に見せることはできないと思うような部分を、私たち全員が持っているのです。だから、そんな自分を神様は受け入れてくれないのではないか。求めて教会に来て見たけれども、やっぱり自分は無理なんじゃないかと思うのです。そういう私たちに向かって、イエス様は、仰っている。「求めよ。捜せ。叩け」と。「あなたのために備えられた祝福がある。あなたに出会う神様がいる。あなたのために開かれる天の門がある」と。

エレミヤ書に次のようの言葉があります。「29:11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。29:12 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。29:13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、29:14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。」

偶像礼拝と不道徳のために国力が低下したイスラエルは、紀元前598年、バビロニアによって滅ぼされ、多くの人々が捕囚として異教の地に連れて行かれました。イスラエルの地にしか神様はいない、異教のバビロニアには神様はいないと思っていた彼らに、神様の声があったのです。「あなたがたのために立てた計画がある。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。あなた方に将来と希望を与える計画だ」と言うのです。「その時、あなた方はわたしを呼び、来てわたしに祈り求める。わたしは聞く」と。「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、29:14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。」と言うのです。罪によって隔てられているように見える神様との関係。人が諦め、もう駄目だと思うところに切り込んできてご自身を現し、わたしたちを救う神様がおられるのです。「あなたが、神はいないと思うようなところに、わたしはいて、あなたと出会い、あなたの神となる。あなたを祝福する」と言われるのです。

私は、キリスト教伝道者の息子として育ち、生まれた時からキリスト者として育てられました。小学生の時、自覚的に信仰を持つようになり、いずれ、キリスト伝道者になりたいという夢を持っていました。しかし、私は、大学3年生の時、自分の持っている信仰が分からなくなりました。小さい時から、自分の生まれ育った教団こそ、日本の、そして、世界のキリスト教会に新しい時代を切り拓くものだと教えられ、信じていましたが、先生亡き後の教団は、ぐらつきました。私は、教団をとおして神様を信じていたので、教団がぐらついた時、信仰そのものが分からなくなったということがありました。自分は何故信仰を持っているのか。それは、父が伝道者だったからであって、自分で神様を求めてクリスチャンになったのではない。そもそも信仰というのは、人生の苦難に直面してもがき苦しんで、神様を求め、そして出会った神様こそ本物なのであって、親から自動的に与えられた信仰など偽物だという思いに縛られてしまいました。

この理屈は、筋が通っているように聞こえるかもしれませんが、聖書の教えからは完全にずれています。親から受け継いだ信仰も本物なのです。何故か。それは、信じる対象が本物だからです。どんなに自分で苦しみ探し当てたものでも、信じる対象が本物の神様でなければ救いはやってきません。しかし、私は、神様中心に生きることより、自分を中心に、自分の判断で、自分の好きなように生きる道を選択することが、人間として正しい生き方だと考えるようになっていきました。

当時、私には、当時信仰を通して付き合っていた女性がいました。彼女は、キリスト教を知らずに育ちましたが、大学生の時、私と同じゼミでした。合宿のコンパの時、彼女が「私は、お金や、名誉はいらない。ただ、心の平安がほしい」と言った言葉を聞き、私は、イエス様の愛を伝えました。「神は愛だ」という簡単なメッセージを伝えただけでした。しかし、その時、彼女は聖霊に包まれ、その言葉だけで、イエス様を信じ、クリスチャンになったのです。そして、キリスト教の礼拝に誘い、大学では一緒に聖書を読んだり、一緒に二人で祈ったりしているうちに、互いに惹かれ、付き合うようになりました。しかし、信仰を捨てようと思ったとき、彼女との関係が重荷になったのです。信仰を捨てるのなら、彼女と付き合うことはできないと思いました。そして、彼女を傷つけ、否定しました。ある意味、彼女との関係を切らなければ、神様との関係を切れないと思うところもあったのです。

そして、私は、信仰を捨て、自分の欲望を追求する生き方を始めました。私は、「自由」を手に入れました。他の女の子とデートしたりもしました。しかし、暫くして、私は非常に具合が悪くなっていきました。毎晩のように悪夢を見る。巨大な暗黒と虚無の中に自分自身が吸い込まれていって、なくなってしまうという夢です。当時東京で下宿していましたが、布団を敷いて寝ようとすると、悪夢の予感がやってきます。そしてその時は、必ず悪夢を見るのです。何故そのような悪夢を見るようになったかは、よく分かりません。自分を愛してくれている人を否定したという良心の呵責によるものだったかもしれません。あるいは、霊的なことだったかもしれないし、ある種の睡眠障害にかかったのかもしれません。何れにせよ、この悪夢は、間違いなく、私の存在を蝕んでいきました。

私は眠れなくなりました。仕方がないので、酒屋に行って、酒を買ってくる。そして、酒を飲みながら、夜の時間を潰し、明け方近くになって寝るというような生活を続けていくうちに、私は心も体も病んでいきました。

大学から徒歩5分というところに住んでいましたが、大学に行かなくなりました。道を歩いていると失神しそうになり、自分から車に吸い込まれていくような感覚がありました。また、自分が何のために存在しているのか分からない。一生懸命勉強していた言語学も勉強しなくなり、師事していた先生には「岩本君、もう言語学なんか止めちゃったら良いんじゃない」と言われる有様でした。希望も夢も、生きている意味も分からない。私は、自分は神様なしに自立しなければならないと思いました。しかし、そこにあったのは、虚しさと罪と、絶望だけだったのです。

体も病気になり、1980年から81年にかけての冬は、ずっと床についたままでした。40度ほどの熱が出る。お医者さんに行って薬をもらってくる。1週間ぐらいで熱が少し下がる。コインランドリーに洗濯しにいくと、また熱が上がって、お医者さんに行くということを何度も繰り返しました。高校受験をする中学生の家庭教師をしていましたが、受験前の一番大切なときに、自分が動けなくなり、彼を見捨てました。彼は、数ヶ月前の夏にお父さんを急に亡くし、失意の中にありました。何とか少しでも良い高校に入れて上げたかったですが、それもできず、情けない限りです。大学の春の健康診断で胸に二つの影があるということで呼び出されました。

自分の心と生活のすべてが破綻していました。毎晩のように悪夢を見る。酒を飲んで夜の時間を潰す。外を歩くのが怖い。体の具合も悪い。誰とも口をきかない。そこにあるのは、虚しさと絶望でした。聖書に「罪の支払う報酬は死だ」という言葉がありますが、私は、罪の力に縛られ、滅んでいこうとしていました。

そんなある日、私は、大学の図書館の前で、以前自分のわがままのために別れた彼女にばったり出会いました。私は、また彼女を傷つけるようなことを言いながら、自分の状態について話をしたようです。何を自分で言ったのか良く覚えていませんが、彼女は、すぐに手紙をくれました。それには、次のように書いてありました。

「あなたには、人の持っていない能力があるかもしれない。あなたには、多くの知識があるかもしれない。でも、何故、あなたは自分の力で生きようとするのですか。もし、神様が愛なのなら、何故、その神様の愛に信頼して生きようとしないのですか。あなたのために祈っています。」

自分の思いと欲望を貫くために捨てた彼女は、私のために祈ってくれていたのです。私は、その手紙を憶えるまで読みました。そして、「もし、神様が愛なのなら、何故、その神様の愛に信頼して生きようとしないのですか」という言葉が心を貫きました。「私は、神様のところに帰らなければならない。」

私は、以前集っていた礼拝に帰りました。しかし、いつまで経っても、中高生の時に持っていた純粋な信仰の喜びは帰ってきませんでした。相変わらず悪夢を見る。虚しさと絶望は消えない。私は思いました。「聖書の中に、あなたの冠(栄光)をしっかりと保てという言葉があるけれども自分から信仰の冠を捨ててしまった。もうこれは戻ってこない」と。

自分が悪いから、自分が神様の御心に反することをしたから、神様は私を救わないと思ったのです。このまま、一生悪夢を見ながら、虚しさの中で生きていくことになるのだと、自嘲していたのが私でした。

1981年の夏、2泊3日の特別集会が群馬県の水上温泉で行われ、私は、参加を申し込みました。小さい時からそういう特別集会には行っていましたし、礼拝に戻ったため、行かない理由がなかったのです。それに、勉強もアルバイトもしない大学生活で、暇を持て余していたということもあります。出発の前日、また熱が出ました。ほとんど徹夜に近い状況で、解熱剤を飲みながら、電車に乗って水上に行きました。しかし、この水上の特別集会こそ、生ける実在の神、イエス・キリストと出会うときとなったのです。

その中で、当時東京で伝道の働きをしておられたT先生が、今から百数十年前にハワイのモロカイ島に世界中から集められ、隔離されていたハンセン病の方々ために生涯を捧げたカトリックのダミエン神父の生涯についてお話をなさいました。ベルギーで生まれ、若い時からカトリックの将来を背負って立つと言われるほど将来を嘱望されたジョゼフ・ダミエンは、ハワイにおける伝道のために遣わされることになりましたが、教区を視察したとき、モロカイ島のハンセン病患者の隔離地帯を訪れました、三方を絶壁で囲まれ海に隔てられたところは、さながら生ける地獄のような状態だったといいます。そこは、病気に対する偏見のため、人に捨てられ、家族に捨てられ、世界の全てから捨てられ絶望し、心荒れた人々が住み、無法地帯となり、ありとあらゆる犯罪と不道徳が蔓延る地となっていたのです。

ダミエンは、彼らのために一生を捧げる決心をし、モロカイ島に住み始めます。そして、毎日、膿でただれた体を洗ってやり、包帯を巻き、亡くなった方の棺桶を造ります。33歳でモロカイ島に入り、49歳で亡くなるまでの16年間に、実に1600の棺桶を作ったといいます。そして、生まれてくる子供たちは感染していませんから、彼らを隔離して、育て、教育します。しかし、ダミエンがどんなに「神は愛だ」と言っても、彼らは、「それは、お前にとっては、神は愛だろう。健康な者には神は愛かもしれない。しかし、我々ハンセン病の人間にとっては、神は鬼だ、悪魔だ」と言って、膿を擦り付けてくる。そのような中で、彼は、自らハンセン病に感染することを願うようになり、祈ったといいます。彼は、ある日発病し、自らハンセン病者として、彼らに仕えるようになりました。「世に捨てられた私たちを神様は愛して下さっている。」ダミエンの言葉は、彼らの心に届きました。そして、彼らは神様を信じるようになり、モロカイ島は神の国となっていくのです。ダミエンの碑文には次のように書いてあるそうです。「彼は、けだものを人間に、人間を神の子にした」と。

この話は、私は中学生の時から知っていました。しかし、水上の集会でT先生がこの話をなさり、そして、「キリストの歴史は、このような人々によって綴られ、受け継がれてきたのです。私たちも、イエス様の十字架の血を注がれ、新たにされ、清められて、私たち自身が他の人のために自分を投げ出すような者となって行こうではありませんか」と叫ばれた時、私は、自分も本当にそのような人生を歩む者でありたいと願いました。そして、祈りました。「神様、私は、今言語学を勉強しています。いつか、この言語学を用いて南の島に伝道に遣わしてください。」私は、自分の内側に何か新しいことが始まりつつあるのを感じました。

引き続き、男性だけの集会がありましたが、T先生が私の上に手を置いて一言祈ってくださいました。「天のお父様。どうぞ、この兄弟をその名前のように・・・。」その時、圧倒的なイエス様の御霊が私に注がれました。私は、聖霊に満たされました。分裂していた私の存在が、イエス様の御霊によって一つにされ、全身全霊に喜びが湧き上がりました。私は、祈りました。「天のお父様。私はエノクです。旧約のエノクがどんな時にもあなたと共に歩んだように、私も、あなたと共に歩むものでありたい。苦難の人生かもしれない。しかし、どんな時にもあなたと共に、あなたの十字架まで、あなたのおられるところにおらせて下さい。」

私の全てに、イエス様の十字架の血、イエス様の命が注がれるのを感じました。「神の子イエスの血は全ての罪から我らを清める」という聖書の言葉が大鐘の響きのように私の内に鳴り響き、完全な平安の中に入れられました。それと同時に、弱り、死んだような細胞の一つ一つにイエス様の十字架の命が注がれ、それが蘇っていき、胸にあった二つの影が消えてなくなったのが分かったのです。

私は、全く新たにされました。私を新たにするイエス様の十字架の血潮があったのです。私はもう駄目だと思って諦めようとした。しかし、私を諦めない神様がいたのです。

私たちは、求めることを恐れます。自分は神様に相応しくないのではないかと思うからです。罪を犯した。神様の喜ばないことをしてしまった。あるいは今もしている。そのような思いの中で、私たちは、「神様は愛かもしれないけれど、神様と自分との間には大きな壁がある。神様の愛は、私には届かない。」と感じ、諦めの思いがやってくることがある。

しかし、イエス様は、私たちを諦めない。だから仰るのです。「あなたのための祝福がある。あなたに出会おうとする神がいる。あなたのために開かれる天の門がある。だから求めよ。探せ。叩けよ」と。これらは、人が考えたものではない。実在の神様がいるのだ、あなたに出会おうとしている神様がいるのだ、あなたの状況をはるかに超えて、あなたの人生に、あなたの存在に切り込んでくる、そのような実在の神様、実在の祝福の世界があると言うのです。

「求めよ。捜せ。叩け」とイエス様は仰っていますが、聖書を読むと、神様のほうこそ人を求め、探し、心の門を叩いておられるということが書いてあります。

人類の始祖アダムとエバは、神様が食べてはいけないと禁じられた善悪の知識の木の実を食べ、罪を犯しました。彼らは、神様の目を避け、隠れました。しかし、神様はそんな彼らとの関係を求め、探されるのです。「人よ、あなたはどこにいるのか」と。彼らを罰するためではなく、彼らの罪が赦される道を示すため、彼らの罪の恥を覆う皮の衣を与えるためです。

また、イエス様は言われました。群れから離れて迷子になった一匹の羊を見つけるために、99匹を野に残して、探しに行かれる神様がいると。そして、見つかるまで探し、見つかったら、それを抱きかかえて、担いで帰ってきて、皆に「喜んでくれ。いなくなった羊が見つかった」と言わないだろうかと。

さらに、黙示録でイエス様は、次のように言っておられます。「3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」イエス様が私たちの心の戸の外に立って、ドアを叩いておられる。「わたしだ。あけてくれ。わたしと食事の喜びを共にしなさい。わたしと共に生きなさい。祝福を受けなさい」と。

私たちを求め、探し、叩いておられるイエス様がおられます。イエス様ご自身が求め、探し、叩いておられる。だから、私たちにも言われるのです。「求めよ。探せ。叩けよ」と。

そして、イエス様に出会い、神の子としての実存と尊厳を回復していただいた者たちは、卑しめられ苦しんでいる方々、愛を知らずに悲しみと孤独の中に倒れている方々の必要を満たし、生かし、命と喜びに満たされるようになるため、具体的な援助をして行こうではありませんか。そのためには、私たち自身が、探し、門を叩く必要があるのです。私たちがイエス様の愛に満たされ、イエス様の命に満たされる必要があるのです。彼らが神様の愛を知るようになるため、彼らがイエス様と出会うことができるようになるため、彼らのために祈る必要があるのです。私のために天の門が開かれるようにと祈り、天の門を叩いてくれた女性がいた。私の救いのために祈り続け、求め続けてくれた両親がいました。そして、T先生が、私のために求めて下さった。探して下さった。叩いて下さった。だから、私はイエス様と出会うことができたのです。

イエス様は言われます。「7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」「律法と預言者」とは旧約聖書全体を指します。聖書の主張はまさにここにあるのだと。

皆さん、どうぞ、「求めよ、探せ、叩け」と仰る方に出会って頂きたい。この方を求めて下さい。探して下さい。叩いて下さい。あなたに出会う方がおられるからです。あなたの必要を満たし、あなたに神の子の実存を与え、尊厳で満たす方がおられるからです。あなたが諦めようとしても、あなたを諦めない方がいる。あなたとの関係を求め、あなたの全てを赦し、生かすためにあなたを探し、あなたを永遠の絆の中にしっかりと握り締めるためにあなたの心のドアを叩いておられる方がおられるのです。

イエス様は言われます。「人の子(すなわちイエス様)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10

祈りましょう。

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