「マタイの福音書」連続講解説教

沈まない舟

マタイによる福音書8章23節から27節
岩本遠億牧師
2007年4月22日

8:23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。8:24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。8:25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

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先週私たちは、イエス様とはいったい誰なのか、いったい何をなさった方なのかということを知ることによってイエス様に従う生涯が始まるということを学びました。ただ一人死の力を打ち砕いて天の門を開かれた方であること、そして、何ものにも優先して従うべき王の王、主の主であることを知る時、私たちは、人に強制されたりすることなく、イエス様に従う人生を歩き始めるのだと申し上げました。今日私たちが開く箇所には、そのイエス様に従う人生とはどのようなものかということが書かれています。

イエス様はガリラヤ湖畔のカファルナウムで多くの病人を癒されましたが、群集が押し迫って身動きができなくなったため、弟子たちに舟を用意させ、対岸に行こうとされました。弟子たちはガリラヤ湖の漁師たちでしたから、ペテロなどが自分の舟を出したのでしょう。そのような状況を思い浮かべると、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」という表現は興味深いものです。弟子たちが所有し、弟子たちが操る舟にイエス様が乗り込まれたのに、「弟子たちも従った」と書いてある。ここにイエス様とイエス様に従う者の関係を見ることができます。イエス様は、私たちの人生という舟に乗り込んでくださる。私たちは自分で人生の舟を漕ぎ出し、操縦するわけですが、それはイエス様に従う人生だと言うのです。イエス様が導いて下さる人生が始まるのです。

しかし、その時、湖に激しい嵐が起こりました。ここで「嵐」と訳されている言葉は、本来は「地震」という意味です。湖が揺れ動く、騒ぎ立つ波によって舟が転覆するのではないかというような状況が起こりました。夜湖で漁をすることに慣れていた弟子たちが「主よ、助けて下さい。溺れそうです。沈んでしまいます」と言うほどの揺れだったのです。これは、存在の基盤が揺れ動くほどの揺れだったことを意味します。

皆さんは、これをどのようにお感じになるでしょうか。イエス様は、私たちに「ついてきなさい」と言われる。この方のところには平安がある、喜びがある、私たちの存在を輝かせる光がある。しかし、この方と一緒に舟に乗ったら大荒れとなって舟が沈みそうになった。誰もそんなことを予期していなかったし、期待してもいなかったはずです。イエス様と一緒なら人生を安寧に災いもなく歩めるはずではなかったのか。

ローマ時代の教会の指導者たちは、この舟は教会を象徴的に指し示していると言いました。迫害の厳しかった当時、教会は波に弄ばれる小舟のように弱い存在でした。クリスチャンになることによって攻撃されたり、苦しい目にあったりする。しかし、そこにイエス様が乗って下さっていることに彼らは希望を見出し、波と嵐を鎮めるイエス様の力に彼らは信頼して信仰を守り抜きました。

私たちは、今この日本の中で、社会全体が教会を迫害するというような状況には置かれていませんが、クリスチャンになったばかりに家族や周囲から苛められるということは決して少なくありません。また、クリスチャンになったら人生順風満帆かというと決してそうではありません。私たちは、人生の荒波に揉まれるということがある。事業に失敗する人も、病気になる人もいます。自分の人生の舟に波が押し寄せ、水が入り込むことを私たちは経験します。ですから、もし私たちが「イエス様を信じること=自分の思い通りの人生が歩めるようになること」と思うなら、それは違うと聖書ははっきり言っているのです。

むしろ、聖書は何と言っているのか?海や湖は悪魔の住むところと考えられていました。その中をイエス様と一緒に舟で進むことこそがクリスチャンの人生なのだというのです。この世は罪が蔓延り、悪が幅を利かせるところです。やがて悪でこの世を汚す悪魔の力はイエス様によって完全に撃ち滅ぼされますが、それまでの間、悪と罪がこの世をコントロールしようとしているのです。ここにそのまま留まること、この世に属する者として生きるところに救いはない。むしろ、私たちはイエス様と一緒に舟に乗り込むことが救いだと言うのです。旧約の時代に箱舟にのったノアたちは洪水から守られましたが、荒波にもまれる舟こそ、私たちにとっての唯一の救いであるイエス様を象徴しているのです。

しかし、湖が大荒れになったとき、イエス様はどうしておられたか?聖書は、「イエスは眠っておられた」と書いています。余程疲れておられたのか。いや、どんなに疲れていても、舟が転覆しそうな波の中では疲れのために寝ていることはできないでしょう。疲れていたから寝ていたのではなく、イエス様は天の平安の中に眠っておられたのです。弟子たちと一緒に水を掻き出したり、舟が転覆しないように頑張ったりしないところにイエス様の意図がありました。

この時、弟子たちはどう思ったでしょうか。みんな舟が転覆しないように必死で舟を操ったり、舟底から水を掻き出したりしていた。イエス様も当然そうするべきだと思ったでしょう。しかし、イエス様は眠っている。弟子たちの心にはイエス様に対する不信感が起こったに違いありません。他の福音書では、「私たちが溺れ死んでも何とも思わないのですか」とイエス様に対する不信感と怒りをぶつけています。

するとイエス様は目を醒まし、弟子たちに言われます。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と。弟子たちはイエス様にお叱りを受けたわけですが、弟子たちはどうすれば良かったのでしょうか。早く対岸に着くように、必死で漕ぎ続ければよかったのか。あるいは、もっと早くイエス様を起こせば良かったのか。その何れでもありません。彼らに必要だったことは、「イエス様の乗っておられる舟は決して沈まない」ということを知ることだったのです。波や風を創造なさった方が共におられる。この方が乗っておられる舟は決して沈まないということを知ること、これこそ、イエス様が私たちに教えようとしておられることなのです。

イエス様は、起き上がって波と風を叱りつけられました。「黙れ。鎮まれ」と。すると海は大凪になったと言います。人々は、これを見て、イエス様こそ万物の創造者であり支配者であるただ一人の主であることを知りました。しかし、イエス様の「黙れ。鎮まれ」という言葉は、波風だけでなく、弟子たちの心の波風を鎮める力があったのです。

弟子たちが本当に直面していた問題は、目に見える波や風ではありませんでした。彼らの最大の問題は、目に見える波や風に心を奪われて、心の中に波や風が騒ぎ立ったと言うことだったのです。熟練の漁師たちがそれまでに経験したこともないような大波に飲まれそうな経験をした。その時、彼らの心には、疑いの声が大声を上げたに違いありません。「何故、こんな人について来てしまったのだろう。この人に従わなければ、こんな湖の中で大波に呑まれるような経験をしなくてもすんだ筈だ。しかもこの人はこんな大変な時に、私のことをわすれて眠ってしまっている。私はここで波に呑まれ、悪魔のいる湖に沈んでしまうのか。」荒れ狂う大波よりも、さらに大きく騒ぎ立っていたのは、彼らの心の中だったのです。そんな彼らの真ん中に立って騒ぎ立てるものを叱りつけ、「黙れ。鎮まれ」との言葉で波と風を鎮め、彼らの心の波を鎮められた方がいました。

Amazing Graceという賛美の詩を書いたJohn Newtonは、奴隷船の船乗りとしてアフリカ、アメリカ、イギリスを結ぶ航路で船に乗っていました。その時、彼の乗っていた船は嵐に遭い、破船寸前になりました。その恐怖の中で彼はそれまでの罪を悔い祈ります。信仰と愛情をもって育ててくれた母の愛を無にして、無法者たちの世界に入りました。海軍に入って正しい生き方をしようとしても、欲望を抑えることができず、脱走してしまいます。奴隷船の船乗りとなりますが、そこで繰り広げられる地獄のような現実の中で、彼は人間としての自分を完全に失ってしまった。彼は破船寸前の船の中から必死で主の御名を呼んで祈ります。「助けて下さい」と。嵐の中で沈みそうになる舟の中で、彼は、本当に破船していたのは自分の人生であり、自分の心、自分の存在そのものであったということに気づくのです。「主よ、助けて下さい」という彼の必死の叫びは主に届き、彼は不思議な平安を経験しました。そして奇跡的に彼の船は沈まず、イギリスの港に帰り着きました。彼は、すぐに奴隷船を降りたわけではありませんでしたが、このことを契機に、無法者の世界から身を引くようになり、神学校に行って、牧師となりました。彼はAmazing Graceという賛美の中で、破船し、失われていたのは自分自身だったと告白しています。

「主よ、助けて下さい」という私たちの声に身を起こして「黙れ。鎮まれ」と叱りつけ、波も風も、そして私たちの存在の中で騒ぎ立つ疑いと恐れという大波を鎮められる方がおられるのです。

聖書の中にも難船を経験した人が出てきます。使徒パウロです。使徒パウロは、イエス様を伝えるための伝道旅行で3度難船します。その最後は、ローマで皇帝の裁判を受けるために、カイザリアからローマに護送されている時でした。使徒言行録の27章にその時のことが詳しく記録されています。カイザリアを出帆して、今のトルコの南の沿岸を進み、クレタ島の「良い港」というところに到着します。パウロは季節的にそれ以上の航海は危険であるので、そこで冬を越すことを提案しますが、その場所が冬を過ごすのに適していないと言うことで、百人隊長はクレタ島の南西のフェニクスまで船を進めたいと考えました。しかし、船を出すとユーラクロンと呼ばれる暴風のために船は難船してしまいます。人々は船を軽くするために、荷物を捨て始め、3日目には船具までも捨ててしまいました。幾日も太陽も星も見えない状況の中で、ついに助かる望みは消え、皆が絶望していた時、パウロのところに主の御使いが遣わされました。御使いは言います。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」

パウロは、絶望する人々の真ん中に立って言います。「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」そして、不安と恐れのため2週間も何も食べていなかかった人々に食事を勧め、自分自身もパンをとって感謝をささげて食べ始めました。そして、彼らはマルタ島に打ち上げられ、助かったのです。

パウロに「恐れるな」と語りかけた御使いの声、神の声がありました。「お前はローマ皇帝の前でキリストについて証することになっている。今、ここで、お前自身が、恐れるこれらの人々の助けとなるのだ。これらの人々はあなたに委ねられている」と言われました。

パウロの舟は沈みませんでした。パウロの人生という舟に乗り込んだイエス様がいたのです。パウロの人生、パウロの存在の中に乗り込み、ここにご自身を表そうとしているイエス様がいました。荒れ狂う海の中でパウロに平安と希望を与えたのは何だったのか。13日間、パウロも主の声を聴くことができず、パウロのイエス様はあたかも眠ったかのようでした。しかし、パウロは、他の人たちのように絶望しませんでした。パウロに希望を与え続ける主がいたからです。パウロは、かつてイエス様を信じる人々を迫害し苦しめていました。主の弟子ステファノの殺害にも関わりました。苛立ちと怒りに振り回され、まさに沈もうとしていたのがパウロの舟だったのです。しかし、そんなパウロに出会い、沈みかけたパウロの舟の中に乗り込んできてくださったイエス様がいました。この方が何度も危機の中からパウロを助け出し、何度も語りかけ、いつも平安を与えて下さったからです。何故パウロの舟は沈まなかったのか。イエス様がそこに乗っておられたからです。

イエス様に従うパウロの生涯は、どのような生涯だったでしょうか。神様に従っているのに、迫害を受けるなど苦しい目に遭う、伝道に出かけているのに、盗賊に遭う、災害に出会う、舟は破船する。自分は病気の人のために祈って癒すのに、自分の病気は癒されない。決して安寧な生涯ではありませんでした。荒波の海に乗り出すような生涯でした。しかし、イエス様がパウロに、「さあ行こう」と言われる時、これ以外の道はなかったのです。イエス様が共にいてくださる生涯、それは、決して他の何かが代われるようなものではありません。苦しみの中にあるパウロに、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われたイエス様がおられました。イエス様だけが満たすことができた存在の輝きがあった。パウロに神の子の尊厳を満たす方がおられたのです。

イエス様は、私たちの舟にも乗ってくださる。いや、乗ってくださった。そして、「さあ、行こう。漕ぎ出しなさい」と言われる。私たちは嵐を経験するでしょう。大きく舟が揺り動かされるようなことも経験するに違いない。悪魔の攻撃もあるでしょう。しかし、イエス様が私たちの舟に乗ってくださり、「さあ、行こう」と言われる時、私たちには他の人生はないのです。悪と罪が蔓延るこの世の人生を誰も避けることはできない。イエス様が乗ってくださる舟でイエス様に従って進むしか、他に救いの道は残されていないのです。イエス様が共にいてくださることが、私たちにとっての救いだからです。この舟でイエス様と一緒に行くしか、他に救いはないのです。

私たちの人生も、何度も大きな嵐を経験します。イエス様を信じて生きているのに、何故こんな問題が起こるのかと思うようなことさえあるでしょう。しかし、忘れないようにしましょう。イエス様があなたの舟に乗ってくださっていることを。心が揺れることもあるでしょう。不安になることもある。しかし、あなたの舟は沈みません。イエス様が乗っているからです。そこに私たちの唯一の希望があります。イエス様は立ち上がり、叱り付けてくださるでしょう。「黙れ。鎮まれ」と。私たちを取り巻く状況の荒波を鎮めて下さる王の王、主の主が共にいてくださる。私たちの内面の荒波も鎮めるイエス様が私たちの中におられるのです。

祈りましょう。

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