「マタイの福音書」連続講解説教

無条件の癒し

マタイによる福音書9章27節から34節
岩本遠億牧師
2007年6月10日

9:27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。 9:28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。 9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、 9:30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。 9:31 しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。 9:32 二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。 9:33 悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。 9:34 しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

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マタイの福音書を連続で学んでいます。今日私たちに与えられている箇所は、前回、イエス様が会堂の責任者の娘を甦らせなさった直後の出来事です。ここには、イエス様の癒しの働きと、それに対する人々の反応が対比させられています。その対比の最も鮮明なものは、イエス様の癒しを見て、それを悪霊の頭の力によって悪霊を追い出したと主張したパリサイ主義律法学者たちの言葉でありますが、それだけでなく、イエス様に癒され、誰にも知らせるなと命じられたにも拘わらず、その言葉に従わず、イエス様のことを言い広めた二人の人の不従順もそれに当たります。私たちは、ここに対比されているイエス様の恵みの業と人の不従順、イエス様の善意と人の悪意のうち、どちらにより大きな焦点を当てるかということで、イエス様に対する理解もイエス様との関係も大きく違ってくるだろうと思います。私たちは、聖書のどの箇所からでも、イエス様の絶大な恵みを告白するものでありたい。いや、聖書はどの箇所もイエス様の圧倒的な恵みを告白しているのです。それを前提に聖書を読んでいく時、私たちの頑張りではないイエス様との関係が強められていきます。これを恵みによる聖書理解と言います。

イエス様は、会堂の指導者の娘を甦らせられた後、活動の拠点としていたペテロの家に戻っていかれました。しかし、そこに目の不自由な人二人が叫びながらついて来ました。「ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい」と。ダビデの子という称号は、ここで始めて出てくるものですが、イスラエルの運命を回復する救い主として、イエス様に呼びかけています。「あなたこそ、私たちの運命を回復する方です」という告白の言葉です。

しかし、イエス様は、すぐにお答えにならず、どんどん道を進んで、ついにペテロの家に着かれた。すると彼らは目が見えないままついて来た。諦めずに、「ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい」と叫びながらついて来た。イエス様は、彼らを家の中で癒されますが、それについて詳しく見る前に、当時、盲人がどのような社会的な扱いを受けていたか、確認しておきたいと思います。

中近東は乾燥地帯で、砂埃が多く、それによって眼病を患い、視力を失う人が多かったようです。彼らは、生産活動に従事できませんから、文字通り乞食をし、人から施しを受けなければ生きていけませんでした。しかし、それだけでなく、彼らは、神様から祝福を受けることができない者として社会的に差別され、礼拝から排除されていたのです。

紀元前約1千年、イスラエルの王となったダビデは、エルサレムを攻略しようとしていました。エルサレムは難攻不落の町で、当時そこに住んでいたエブス人は、ダビデを侮辱して言いました。「お前は、絶対にここに入ってくることはできない。たとい、足の不自由な者、目の不自由な者でも、お前を倒すことができる」と。その言葉に激怒したダビデは、精鋭部隊を地下の水道からエルサレムに侵入させ、先ず目の見えない人、足の不自由な人を虐殺させるという暴挙に出ました。戦うことのできない彼らを殺害したのはダビデの大きな罪です。しかし、その時以来、目の見えない者、足の不自由な者は神殿に入ってはいけない、つまり、礼拝してはいけないという決まりがイスラエルの中にできてしまったのです。そのような決まりは神様がお与えになった律法の中にはありません。ダビデの一時的な怒りによって、その後実に一千年にわたって、イエス様がその呪いを打ち砕くまで、神様の祝福を受けるべき人々が差別され、呪われた者として生きなければならなかった。イエス様は、彼らを癒し、彼らの運命を回復するために来られたのです。

二人の目の不自由な人たちは、イエス様が死人を甦らせたという話を聞いて、叫びました。この方こそ、自分たちの運命を回復なさる方だと信じたからです。しかし、イエス様は、何故かその場で彼らを癒すことをせず、家の中で彼らを癒されるのです。それは、イエス様の癒しの業が隠れているためでしたが、単に体を癒す祈祷師や、霊能者として人々が自分を担ぎ上げ、騒ぎ立てることをイエス様はお嫌いになりました。また、ダビデ王家を復興する者として、政治的な運動が自分の周りで巻き起こることに対しても、明確なNOを貫かれたのがイエス様だったのです。

人の持っていない霊的な力を持っている人は、それを誇示して、自分の勢力範囲を広めようとします。しかし、イエス様は、病に苦しむ者たちや、神の呪いの下にあると言われている人々を癒し、その運命と存在を回復していかれましたが、そのことで自分の勢力範囲を広げようとすることを徹底的に否定されたのです。何故か、イエス様の最終的な目標は、自分が十字架にかかって全人類の罪の贖いを成し遂げることにあるのであって、自分の思いが実現するこの世の国を作り上げることではなかったからです。

イエス様は、この二人の盲人に、誰にも言うなと「厳しく」お命じになりましたが、そこにイエス様の十字架に向かう並々ならぬご決意が表されているのです。

では、イエス様は、どのようにして、この二人を癒されたか。イエス様は、二人にお尋ねになりました。「わたしにできると信じるのか」と。彼らは答えます。「はい、主よ」と。イエス様が彼らに求められたのは、「はい、主よ」という応答だけだったのです。彼らは、ここでイエス様の十字架の贖いの教理を信じたのでしょうか。あるいは、イエス様のお言いつけに従うという約束をしたのでしょうか。そうではありませんでした。彼らは、イエス様に向かって、「はい、主よ」と答えただけだったのです。

皆さん、どのように思われるでしょうか。もし、ここで彼らが、「さあ、どうでしょう。あなたにできるかどうか、分かりませんが、ためしに手を置いてみてください」と言ったとしたら、イエス様は、彼らを癒さなかった。そう思いますか?どうだったのでしょうか。

イエス様の「信じるか」という言葉は、私たちに信じることを得しめる力です。皆さん、イエス様が私たち一人一人に「信じるか」と言われている状況を思い浮かべてみたいと思うのです。イエス様が「信じるか」と言われるとき、イエス様は、私たちにご自身の全てで語りかけて下さる。ご自分の全てを与えようとしているイエス様を私たちは経験します。ただ、「はい、主よ」と頷くことしかできない私たち。難しいことは何も分からなくても良い。「はい、主よ」と応答させて下さる主がいるのです。

先ほども言いましたが、彼らは、イエス様が死人を甦らせたという人の話を聞いた。この方は、視力を失い、生産の手段を失い、人としての尊厳を失い、神様との関係を失ってしまっていた者たちの運命を回復する方なのではないかと彼らは思った。そして、叫びながらついて来た。目が見えないながらイエス様について行ったのです。すると、イエス様は、他の人に邪魔されないところで、低められ卑しめられていた自分たちに、ご自分の全てで関わってくださり、「信じるか」と語り掛けて下さった。「はい、主よ」と答えるしかないような命、温かさで包んで下さった方がいたのです。「はい、主よ」という告白の言葉を引き出してくださったイエス様がいました。

イエス様は、「あなたがたが信じているように」と言って、弱くなった目に手を置き、癒してくださった。イエス様との関係は難しいことではありません。私たちを満たしてくださる方が、「信じるか」と言って下さる。それに「はい」と答えるだけなのです。

しかし、癒しの後、イエス様は彼らを厳しく戒めて、誰にも語るなと言われる。その理由は、先ほど述べたとおりですが、彼らはイエス様の言いつけを守らず、イエス様のことを言い広めます。彼らはイエス様の命令に従いませんでした。

私は、ここで立ち止まって考えるのです。イエス様は、彼らがご自分の命令に従わないことを予測できなかったのだろうかと。折角癒してやったのに、彼らは言うことを聞かなかった、癒してやらなければよかったとイエス様は思われたのだろうか。私は、そうではないと思います。イエス様は、全てを知っておられたのです。彼らが、従わないことを前もって知った上で、彼らを癒されたのがイエス様だった。これが私たちの主です。

私は、これまでの自分の歩みを振り返って思います。私は、イエス様に癒されました。しかし、その後、どれだけ、イエス様に従わなかっただろうかと。数えることができません。イエス様は、私が高慢になって、イエス様に従わないことを知った上で、私を癒してくださったのです。イエス様は、私たちを癒されるとき、その後従うかという条件をお付けにならなかった。ただ、弱っている者を憐れみ、ご自分の全てで関わって、希望を与え、「信じるか」と語りかけて下さった。何も約束できない者、何も知らない者が、ただ、「はい、主よ」と言っただけで、癒し、運命を回復し、存在の尊厳を回復して下さる方、それがイエス様なのです。

旧約聖書のイスラエルの歩みを見てもそうです。出エジプト記に、「わたしは主、あなたを癒すものである」という言葉があります。神様は、イスラエルを癒されました。何度も何度も癒されました。しかし、その後、彼らは何度も神様を裏切るのです。裏切ることを知っていて、なお癒し続ける主、これが私たちの神様です。

勿論、私たちは、自分の高慢と罪のために倒れることがあるでしょう。しかし、神様は私たちを癒される時、条件をお付けにならなかった。だから、私たちは癒されたのです。だから、私たちは癒され、これからも癒され続けていくのです。倒れた者を引き上げ、立ち上がらせてくださる方がおられるのです。

イエス様は、この後、口の聞けない人を癒されますが、イエス様の癒しの業の全てを見て、パリサイ主義の律法学者たちは、言いました。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と。パリサイ主義者とは、熱心な人たちでした。神様のためと思って頑張っていた人たちでした。しかし、彼らの熱心さは人の差別に繋がっていたのです。清い者と汚れた者、祝福を受けるべき者と呪われるべき者。それによって人間の価値を決めようとしました。自分たちは清くなるために頑張っているけれども、頑張らない他の人たちは汚れている。その頑張りの故に自分たちは祝福されているが、頑張らない他の人たちは呪われていると言う者、それがパリサイ主義者です。しかし、誰が自ら望んで汚れた者になりたいと思うでしょうか。自ら望んで呪いを受けたいと思うでしょうか。みんな清い者として、祝福を受ける者として、神の子、尊厳ある者として生きて行きたいのです。イエス様は、パリサイ主義者たちが差別していた人たちの味方になり、彼らと共に歩み、彼らを癒し、彼らの尊厳を回復し、神の子となさったのです。彼らの中に喜びを満たされました。イエス様は、人を大切になさいました。そのために最も低くなられました。彼らの痛みを背負われました。しかし、パリサイ主義者たちはこの弱った人よりも自分たちの考えを大切にしました。そして、イエス様に自分たちの生き方が否定されたと思い、イエス様に対する憎しみを募らせ、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とまで言うようになった。

パリサイ主義とは、自分の主義主張によって神とは何か、神様の御心とは何かを決定しようとすることです。善悪の決定権を自分のものとし、自分を義とすることです。助けを必要とする弱った人たちを助けることよりも、自分の義を大切にする者、それをパリサイ主義者と言うのです。彼らはイエス様を理解しませんでした。そして、イエス様の愛の業を悪霊の頭によるものと中傷するのです。その悪意によってイエス様は十字架にかけられるのです。

しかし、イエス様は、彼らのためにも十字架にかけられました。イエス様の十字架の血は、パリサイ主義者のためにも流されました。ご自分を十字架にかけた者たちのためにイエス様は祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか分からないのです」と。

マタイが、イエス様の癒しの業をまとめた、その最後の言葉は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という言葉でした。しかし、この言葉は、イエス様の癒しの業を止めることはできませんでした。また、イエス様に従うことのなかった人たちの不従順は、彼らを癒し続けるイエス様の愛を止めることはできなかったのです。

私たちは、今日の箇所にどのようなイエス様のお姿を見たでしょうか。今、私たちはどのようなイエス様のお姿を見ているでしょうか。差別され、のけ者にされ、汚れ呪われていると言われる病んだ者たちを圧倒的な命と愛で癒し、その運命と人生を回復しながら、全ての罪を赦すために十字架にまっすぐに突き進んで行かれる、救い主の姿がここにあります。全ての罪を覆い尽くし、全てを包み込むイエス様の圧倒的な愛があるのです。

私たちは、イエス様に何と申し上げるでしょうか。何と答えるでしょうか。難しいことは分からなくて良いのです。何かを約束しなくても良いのです。ここで、「はい」と言ったら、何か後でやりたくないことをさせられるということもないのです。ただ、「信じるか」というイエス様の言葉に、「はい、主よ」と答えるものでありたい。いや、イエス様は、信じることができない私たちを助け、ご自身の愛を示し、私たちを包み、「はい、主よ」と答えることができるようにしてくださるでしょう。

祈りましょう。

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