「マタイの福音書」連続講解説教

王の業を継承する

マタイの福音書第25章31節〜46節
岩本遠億牧師
2021年6月20日

「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。

 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』

 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」マタイの福音書 25章31~46節

マタイの福音書に記録されているイエス・キリストの最後の説教

・終わりの時、再び私は来る。それは完成の時。
・全ての人は眠る(死ぬ)が、私が来る時、灯火のための油を用意していた者たちをエクレシアの婚宴に集める。
・油を用意している=タラントを生かす
・タラントの喩えの解説が、その後に語られる。

「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人(のため)にしたことは、わたし(のため)にしたのです。』 」
          ↓
 タラントとは卑しめられている最も小さい人=キリストの兄弟!

能力に応じて、5人を託される人、2人を託される人、1人を託される人
・そこに不公平はない。

クリスチャンが聖書を読むときに陥りやすい誤り
×救いの基準が書かれている
×救われるためのマニュアルとして読む

→究極の自己愛であり、神様に対する愛、隣人に対する愛はない。
死んだ後天国に行くためにイエスの十字架を信じる=究極の自己愛

自己愛
×自分が救われるために人を助ける
→マニュアル的聖書の読み方
  ・全ての人を助けることは無理
  ・すでに誰か一人を助けた→自分はOK
  ・目は自分の行為に向いている。
   →自己義認

良きサマリヤ人の譬え
律法学者の質問=どうしたら救われるか?=自己愛による質問
イエスの答え=行って、あなたも同じようにせよ

真実の愛

○自分の業がキリストに評価されるなどと考えることもない

すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

イエス・キリストを信じる
=イエス・キリストとの愛の関係(愛の一体)の中に生きる。イエス・キリストと一つであることを求める
→イエス・キリストの愛の業を継承する者となる
×救われるために十字架の教理を受け入れる

マザー・テレサの祈り 「自分より他人を」

 主よ、わたしが空腹を覚えるとき、パンを分ける相手に出会わせてください。喉が渇く時、飲み物を分ける相手に出会えますように。寒さを感じるとき、温めてあげる相手に出会わせてください。不愉快になるとき、喜ばせる相手に出会えますように。
 わたしの十字架が重く感じられるとき、だれかの十字架を背負ってあげることができますように。乏しくなるとき、乏しい人に出会わせてください。暇がなくなるとき、時間を割いてあげる相手に出会えますように。
 わたしが屈辱を味わうとき、だれかを褒めてあげられますように。気が滅入るとき、だれかを力づけてあげられますように。理解してもらいたいとき、理解してあげる相手に出会えますように。かまってもらいたいとき、かまってあげる相手に出会わせてください。
 わたしが自分のことしか頭にないとき、わたしの関心が他の人にも向きますように。空腹と貧困の中に生き、そして死んでいく世の兄弟姉妹に奉仕するに値する者となれますように。主よ、わたしをお助け下さい。
 主よ、わたしたちの手をとおして日ごとのパンを、今日彼らにお与え下さい。わたしたちの思いやりをとおして、主よ、彼らに平和と喜びをお与え下さい。
 『こころの輝き―マザー・テレサの祈り』「自分より他人を」(ドン・ボスコ社)より。

マザー・テレサの祈り「自己からの解放」

主よ。私は信じきっていました。
私の心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく、
他人の中に自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ。私は思い込んでいました。
私は与えるべきものは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、真実が分かったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ。私は信じきっていました。
自分が貧しい者であることを。
でも、胸に手を当ててみて本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみの心に
私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ。お願いいたします。
私の中で天の国と、この世の国々とが
まぜこぜになってしまうとき、
あなたの中にのみ
真の幸福と力添えを見出しますように。

『こころの輝き〜マザー・テレサの祈り』ドン・ボスコ社

何もできない時
→自分が最も小さな者として助けられる時

子どもが学校で虐められていたり、苦しい状況に陥っている時、庇ってくれた先生、助けてくれた先生のことを、親は忘れるでしょうか。その先生にいつまでも感謝の心を持ち続けるのではないでしょうか。

イエス様の子どもとされた私たち、自分で自分をどうすることもできない苦しみに陥ることがあります。そんなとき、私たちに助けの手を差し伸ばしてくれた人、共に泣いてくれた人のことをイエス様は忘れるでしょうか。

イエス様は、十字架にかけられる前の最後の説教で、このように言われました。

「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」

あなたが苦しみの中にあった時、イエス様の救いの御業は確実に行われていたのです。

・キリストの弟子、子供とされていることの絶大な力。
・キリストの弟子、子供を助けてくれた人にまでキリストの救いは及ぶ。

1.主を仰ぎ見れば 古き我は
  移し世と共に 疾(と)く去り行き
  我ならぬ我の 現れ来て
  見ずや、天地ぞ あらたまれる

2.美しの都 エルサレムは
  今こそ天降(あも)りて 我に来つれ
  主共にいませば 尽きぬ幸は
  きよき河のごと 湧きて流る

3.あな麗しやな 永遠(とこよ)の国
  うららに恵みの 日影(ひかげ)照れば
  いのちの木の実は 稔(みの)り繁(しげ)く
  永遠(とわ)に死の影も 悩みもなし

4.露だに功(いさお)の 有らぬ身をも
  聖めて御国の 世継ぎとなし
  黄金(こがね)の御殿(みとの)に 住ませ給う
  我が主の愛こそ 限りなけれ

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