「ヨハネの福音書」 連続講解説教

疑いを超えさせるもの

ヨハネの福音書1章43節から51節
岩本遠億牧師
2009年2月15日

1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

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聖書の中で疑い深い者として登場する人物に12弟子の一人トマスがいます。彼は、仲間の弟子たちが復活なさったイエス様に出会ったと言った言葉を信じようとせず、イエス様が十字架に付けられた手の釘の後に自分の指を突っ込み、槍で刺された脇の傷跡に手を差し入れてみなければ信じないと断言した人でした。ところが、そんな彼のところにも復活したイエス様が現れ、彼を信じる者としてくださった。イエス様はトマスに、「あなたは見たから信じるのか。見ないで信じる者は幸いである」と言われました。

しかし、イエス様は「見る」ということを否定しておられるのはありません。疑うトマス、信じることができないトマスにご自分を現わして、見せておられるのです。見なければ信じることができない弱い者たちにご自分を現わして、信じることができるようにお導きになる。

ただし、この「見る」と訳されている言葉は、単に肉眼で見るということだけを意味しません。心の目で見ることも意味するものです。今主のお姿を直接肉の目で見ることができない者たちにも、個人的な経験として心の目で主を見ることができるようにしてくださる。目に見える状況に縛られず、さらに強く、主を心の目で見ることができる個人的な内的関係を結んで下さるのです。

今、「疑い深いトマス」ということを言いましたが、今日私たちが耳を傾けた聖書の箇所に、もう一人疑い深い人が登場します。ピリポの兄弟ナタナエルです。

イエス様は、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受け、御霊に満ちてガリラヤへ行こうとされ、そこでアンデレ、ペテロ、ピリピ、ナタナエルという4人の人を弟子となさいますが、今日特に目を止めたいのがこのナタナエルです。ナタナエルという人は、ピリポの兄弟として登場しますが、ピリポは、イエス様に「ついて来なさい」と言われ、そのご人格の輝きに引きつけられるようにしてすぐに弟子となります。そして、兄弟のナタナエルを探し、見つけて言うのです。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方を見つけたぞ。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と。

「モーセが律法の中で書いている方、預言者たちも預言した方」と言いました。ピリポもナタナエルも聖書の言葉に耳を傾け、聖書の約束しているイスラエルの救い主を待ち望んでいたのです。救い主を待ち望む、そのような生活をしていたのがこの兄弟でした。また、聖書の言葉に慣れ親しんでいたからでもありますが、ピリポからそれがナザレの人、ヨセフの子イエスだと言われたとき、ナタナエルは、「そんなことはあり得ない」とそれを否定します。なぜなら、救い主がナザレから出るとは聖書に書いてないからです。ミカ書には、ベツレヘムからユダの君主が出ると書いてある。ナザレの大工ヨセフと言えば、彼も知っていたのかもしれません。そんな田舎の聖書にも預言されていないナザレからイスラエルの救い主が現れるわけがない。ナタナエルはピリポの言葉を信ぜず、否定しました。しかし、彼は「来て、そして見ろ」というピリポの熱心さに引き摺られるようにしてイエス様のところにやって来ました。

イエス様は、ナタナエルがご自分のほうにやってくるのをご覧になって言われます。

「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」

ヨハネの福音書は、ユダヤ人という言葉とイスラエル人という言葉を明確に使い分けています。ユダヤ人というのは民族としてのユダヤ人、古い律法主義によって性格づけられる者のことです。一方、イスラエル人というのは、イエス様による新しい契約の中に生かされる者、神の民のことで、ヨハネの福音書では両者は明確に区別されています。

ここでイエス様は、ナタナエルのことを「真のイスラエル人だ」と仰った。「彼こそ、本当の神の子だ。彼のうちには偽りがない」と。

皆さん、どうでしょうか。彼は罪を犯したことがなかったのでしょうか。先ほどご一緒に詩篇32篇をお読みしました。その中に次のような一節があります。

32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ

32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

32:6 それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ

主に罪を赦された者、罪を覆って頂いた者、心に欺きがないと認められた者は幸いであると言っています。イエス様は、まさにこのことを仰っているのです。「あなたは本当に神の子ですよ。あなたは神様の前に完全な者なのですよ」と。

それを聞いて驚いたのがナタナエルです。「主よ、あなたは私をご存じなのですか。」イエス様はお答えになります。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、イチジクの木の下にいるのを見ましたよ」と。勿論、これは肉眼で見たということではなく、霊の目で見たということです。「イチジクの木の下にいる」というのは、これはイチジクの木の下で祈っていたということです。単に、あそこにいたでしょうということではありません。

イスラエルでは、古来イチジクの木というのは、繁栄や平安を表すものでありますが、その下に集まり、聖書の言葉に耳を傾けたり、瞑想したり、祈ったりする場所であったのです。ナタナエルは、祈っていた。何を祈っていたのか、それは分かりません。しかし、もしイエス様が詩篇32篇をもとにナタナエルに声をお掛けになったのなら、ナタナエルは神様に自分の罪を告白していたのかもしれません。それをイエス様は霊の目で見、霊の耳で聞いておられたのです。そして、言われました。「わたしは、あなたの祈りの声、あなたの告白、あなたの真実な言葉を確かに聞きました」と。だから、ナタナエルは叫ぶのです。「先生、あなたは神の子です。イスラエルの王です」と。

皆さん、イエス様はあなたに何と声をお掛けになっているでしょうか。皆さんは、イエス様のところに行った時に、何を感じたでしょうか。イエス様の温かさに触れた時、私たちは神の子とされている自分、全てを赦された輝いている自分を知ったのではなかったでしょうか。

「元気の出る聖書の言葉」の読者にNさんという方がいらっしゃいます。Nさんは、私がまだ「元気の出る聖書の言葉」を発行するようになる前、まだ個人的に「今日の聖書」というメールを送り始めたころ、ホームページをご覧になって、ご連絡くださいました。子育てで悩んでいると。いろいろ詳しくご相談下さるようになりましたが、イエス様を求めて教会の門を叩いた。ところが、お子さんがやはり教会に来ておられた方のお子さんに怪我をさせてしまった。お医者さんは後遺症が残ることはないと仰って下さっているが、その方が赦して下さらない。そんなことで、教会には行けなくなってしまったということでした。

私は、Nさんにイエス様がNさんを絶大な愛で愛し、全ての罪と失敗を赦して下さっていることを伝えました。そして、祈りの言葉のサンプルを書いて、声に出して祈って下さいとの言葉を添えてお送りしました。そうすると、Nさんはそのようにして下さり、イエス様を信じて救いを受け取られたのでした。

私は、Nさんに「Nさんはイエス様の子供になったのですよ」と書き送りましたが、それがなかなかお分かりにならなかったようで、その後、次のように書いてこられました。「私は、イエス様に向かって、あなたの子供にしてくださいと祈っています」と。信じてはいるけれども、なかなか確信を得られず苦しんでおられる様子が伝わって来ました。そういうことが数回ありました。それで、私はNさんに書き送りました。

「Nさん、Nさんはもう既にイエス様の子供です。Nさんにもお子さんがいらっしゃいますね。お子さんがNさんに向かって、『僕はお母さんの子どもになりたい』と言ったら変ではありませんか。むしろ、お子さんが『お母さん、僕はお母さんの子供で良かった』と言ったら、どんなに嬉しいでしょう。ギュッと抱きしめたくなるのではないですか。Nさん、イエス様に向かって『イエス様、私はあなたの子供で良かったです』と告白なさったらどうでしょう。イエス様は、溢れる愛で包み喜びを満たして下さるに違いありません。イエス様の子供である確信に満たして下さるに違いありません。」

Nさんは、私のような者がメールで書き送ったことを、そのまま実行して下さり、「イエス様、私はあなたの子供で良かったです」と祈ったそうです。すると、その途端、イエス様の溢れる愛と平安にすっかり満たされ、イエス様の子供とされている自分を発見したということでした。

私たちは、イエス様に出会った時、状況は違うでしょうが、皆イエス様の子供にされている自分、神の子とされている自分を発見したのではないでしょうか。イエス様は、私たちに何の条件もお付けにならなかった。祈ったら赦してやるとも、罪を告白したら神の子にしてやるとも仰らなかった。ただ、「わたしはあなたの思いを知っているよ。わたしはあなたの魂の叫びを聞いたよ。あなたはわたしの子供だ」と仰って下さっているのであります。

もし、皆さんの中にまだこのようなイエス様を経験したことがない方がいらっしゃるなら、このイエス様を知って頂きたい、このイエス様に出会って頂きたいと、心から願います。心からあなたのために祈ります。イエス様は、あなたに仰っているのです。「わたしはあなたの心の叫びを聞いている。全部知っているよ。あなたはわたしの子供だ。わたしがあなたのためにわたし自身を捨てて、あなたを守り、あなたを支え、あなたを生かす。わたしはあなたのために命を捨てたのだ。わたしの中にいなさい」と。

ナタナエルは、真のイスラエル、神の子とされている自分を発見し、イエス様に「あなたは神の子、イスラエルの王です」と告白しました。すると、イエス様はさらに言われるのです。

「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

これはどういうことかというと、創世記のヤコブの記事をもとにして言われたことです。天が開ける。そこから天の御使いが地に上り下りする。これは、天の絶大な祝福がこの地に注がれるようになる。人の子、すなわちイエス様が天と地の接触点となり、イエス様をとおしてこの地上に天国そのものがやって来るような、圧倒的な神様の恵みが満ち溢れるのだ。信ぜずにおられないような圧倒的な恵みが地に満たされるようになる。人の子イエス・キリストをとおしてそれが行われるのを見ることになるぞ、と。

疑い深かったナタナエルを信じる者、神の子、イエス様の弟子にしたものは一体何だったのでしょうか。イエス様は、ナタナエルに「疑い深かったら神の国に入ることはできないぞ」とは仰らなかった。「わたしは、あなたの魂の叫びを聞いた。あなたは神の子だ。あなたは、さらに圧倒的な天国の祝福と恵みが人の子イエス・キリストをとおしてこの地に満たされていくのを見るようになる」と仰ったのです。

イエス様は、ナタナエルに仰ったことを私たち一人一人にも仰って下さっているのです。私たちの魂の叫びを聞いて下さっている方がいるのです。そして、この叫びに応え、「あなたはわたしの子供だ」と仰って下さる。そして、さらに絶大な恵みを知るようになる。この地が神の国によって満たされるようになるのを、あなた自身が見るようになるのだと仰って下さっているのです。

この方が私たちの神です。私たちの王なのです。祈りましょう。

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