「マタイの福音書」連続講解説教

相応しい者

マタイによる福音書10章34節~39節
岩本遠億牧師
2007年7月15日

10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

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キリストの平和教会の説教では、毎週連続で聖書を読み進めています。一般に、このような説教スタイルを連続講解説教と言いますが、受難節、復活祭、ペンテコステ、クリスマスなど、教会の中で重要な意味をもつ礼拝の時意外は、基本的に聖書を読み進めていくことがバランスの良い信仰成長のためには重要です。それは、自分で自分の都合に合わせて聖書を利用しないためです。聖書の中には、読みやすいところも、とても読みにくいところもあります。受け入れやすいところも、とても受け入れられないと思うところもあります。それは、聖書がイエス様を指し示す真理の書であって、人間の罪の現実をごまかさず、それに解決と救いを与えようとする書だからです。

今日の箇所は、そのような意味で非常に読みにくい箇所です。もっと言うなら、読みたくない箇所と言うべきところかも知れません。「良薬は口に苦し」と言いますが、苦いならまだしも、私たちは、このような聖書の言葉を聞くと動揺してしまうのではないでしょうか。新しく教会に来て下さっている方々もいる。そのような方々が今日のような聖書の言葉を聞いたら、躓いてしまうのではないか。キリスト教会などには近づかないほうが良いと思われるのではないかと心配する方もいらっしゃるかもしれない。ここに書かれていることを、ただ表面的に読むならば、世の中の全てに捨てられ、殉教の覚悟をする者でなければ、イエス様の弟子となることはできないと言っているように読めるでしょう。確かにキリスト教の歴史は殉教の歴史と言って良いほどです。そのようにしてイエス様の教えは受け継がれてきました。しかし、聖書は殉教の決心をする者が救われるとは言っていないのです。

説教をする私自身が、このイエス様の言葉にどのように向かい、これをどのように聞いたら良いのか、まごついてしまう。それほど、強烈な言葉が今日の言葉です。聖書には、イエス様は平和の君と呼ばれ、「キリストは、私たちの平和である」と宣言されています。私たちは、キリストの平和教会と名乗っています。それなのに、この箇所では、「私が来たのは、平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためだ」と言われている。また、聖書の中には、「わたしは、決してあなたを見放さず、見捨てない」という約束の言葉があり、人生に失敗し、人に無価値な者と言われる者を神様は捨て置かず、これを新たにして神の国のために用いて下さるという言葉がある。それなのに、ここでは、「わたしに相応しくない」という非常に厳しい言葉が語られている。

また私は、「10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」という言葉に困惑します。私は、自分の父と母を神様が命じられるほど愛しているだろうか、本当に尊んで生きてきただろうか。自分の子供たちに対する私の愛は完全であっただろうか。いや、不完全な自己愛の延長のような愛でしか子供たちも父母も自分の妻もまた周囲の方々も愛せていないという自分を強く意識し、「彼らのために自分を捨てることができる者となれますように。イエス様、彼らを本当に愛せる者と私を変えてください。あなたの愛を注ぎ満たしてください」と祈ってきました。そのことを必死で求めています。不完全な愛しか持っていない者、そんな私には、「10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」というイエス様の言葉は、あまりにも遠く、自分のちっぽけな祈りによっては、決して到達することのできないもののように感じます。

しかし、イエス様は、ここで私たちが絶望するためにこの言葉を語られたのでしょうか。あるいは、ここに言われていることを無視して良いと仰っているのでしょうか。勿論、そうではありません。イエス様のご真意はどこにあったのでしょうか。私だけでなく、牧師、伝道者、あるいは、神学校に行って将来イエス様の働きをしたいと願っている者たちの中で、自分がイエス様に相応しいと思っている者は一人もいないのです。皆、私は相応しくありませんと、毎日イエス様の前で告白しながら生きています。それは、牧師、伝道者でなくても、イエス様を信じる全ての者たちが同じように思っているのではないでしょうか。イエス様、そのように「私はあなたに相応しいものではありません」とうつむく者たちに、「お前はわたしに相応しくない」と断言なさる方ではない。私たちは、そのことを聖書を通して学んできているのです。では、この聖書の言葉を聞く全ての者たちに対して、イエス様が今もこの言葉を語り続けておられるとは一体どのようなことなのでしょうか。

今週一週間、私は、この聖書の言葉をどのように語るべきか、イエス様は、この箇所で何を教えようとしていらっしゃるのか、考えながら過ごしましたが、まさに、今日与えられている言葉は、私たちの存在を貫く言葉、イエス様がその全存在をかけて私たちに関わろうとして下さる真実の言葉なのです。

イエス様が、「わたしが来たのは平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためだ」と言われた言葉、これは、戦争を引き起こすという意味ではありません。また、イエス様や、イエス様に従う者たちが剣をもって戦うということでもありません。十字架を前にしたイエス様は、言われました。「剣を鞘に収めよ。剣を取るものは剣によって滅びる」と。ここでイエス様が言っておられる剣という言葉には二つの意味があります。

一つは、ご自分に向けられた剣です。イエス様を十字架に釘付け、イエス様の脇を突き刺した剣のことです。わたしは、十字架に刺し貫かれるために来たと仰っている。イエス様の福音が争いを引き起こすのではない。クリスチャンが剣を振りかざすのでもない。むしろイエス様の福音は、この世の剣を自分に向けさせ、自分を殺すものなのだということをイエス様は仰っている。

何故か?それは「剣」という言葉が持つもう一つの意味からやってきます。それは、真理と虚偽を分断するという意味での剣です。イエス様の言葉は、聖霊の剣とも呼ばれます。イエス様の真理の言葉によって、人の心の中の罪が明らかにされる。イエス様の言葉を聞いて、罪を示され、悔い改めに導かれる人は、イエス様の十字架を信じ、赦され、清められ、新たな存在とされます。しかし、一方で、罪を認めようとしない場合もある。その場合には、神の言葉を語る者たちが理解されない状況が現れる。ことによっては、そのことの故に憎まれ、苛められるということが起こり得ると言うのです。イエス様を信じる者と、信じない者との間に明確な境界線が引かれるということです。

ここでイエス様は、父母、息子娘と言っていらっしゃいますが、人間関係の最も基本的なところです。 言うならば、人間存在の最も基本的なところに切り込み、私たちを救う真理の言葉、御霊の剣があるというのです。注意しなければならないのは、イエス様を信じたら、親子関係が悪くなるということを言っているわけではありません。いや、むしろもっと親子関係が良くなる場合だってあります。親を本当に尊び、尊敬することを学ぶからです。子供を本当に愛することを学ぶからです。

ここでイエス様が教えようとしているのは、ある意味、人間存在の最も基本となるところに切り込んで、人間の本質を救うのがイエス様だということなのです。イエス様の言葉は、それに耳を傾ける者を神の子とするのです。肉の親が与えることができない神の子の本質を創造し、それを与える天の父を知るようになると言うのです。神様に向かって、「天のお父様」と呼ぶことを得させる立場、それを可能にする命が与えられる。それまでとは違った存在とする。これまでとは違った世界観、違った価値観の中に生きるようにさせる。永遠の命という、これまでに知らなかった命の中に生かすのがイエス様の言葉、イエス様の剣なのです。

イエス様が、「10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」と仰る時、イエス様に従うとは、私たちを天の父の子とすることなのだということを意味しているのです。人間関係の上での敵対関係を作ることが目的ということではありません。

ですから、この聖書の言葉を使って、どんなに反対されても礼拝に来なければならないとか、教会で奉仕しなければならないと教える人がいるならば、それは違います。礼拝に来られない人について、イエス様は「相応しくない」と仰っているわけではない。また、奉仕したり、周囲の反対を押し切って宣教活動に従事しない者が相応しくないと仰っているわけでもありません。夫や親に従わなければならない場合もあります。家を出られない時は出られません。伝道したくても伝道できないときもあります。戦国の武将細川忠興の妻細川ガラシャ夫人は、教会に行って宣教師から直接話しを聞いたのは只の一回だけです。しかし、屋敷の中に幽閉されるような生活の中で、侍女をとおして聖書の教えを受け、夫に従いつつも、信仰を守り通す、ここに神の子とされたガラシャ夫人の輝きがあったのです。

イエス様が仰っているのは、そのような中にあっても、自分がイエス様にあって神の子とされていることに頷きながら、それを納得しながら生きていくことなのです。自分の親も、自分の子供も、また妻も夫も自分に与えることができない永遠の命を、この方が自分に与えてくださるということを信じ、この方の前にひれ伏して生きること、この方の前に謙遜になること、そのことが求められているのです。

だから、イエス様は言われるのです。「10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

十字架とは古代ローマ帝国の死刑の道具です。死刑囚は、自分の十字架を背負って、処刑場まで歩きました。イエス様に従う者は、この世では苦しい思いをすると仰っているのです。イエス様を信じて生きる者は、この世で損をするようなことになる。ことによっては、信仰を持ったことが自分の肉の命との引き換えになることだってあり得る。それは、この世の王たち、この世の君たちが、神様に敵対して生きているからです。

この世の王は、自分を高めるために、人を抑圧し、利用し、搾取し、あるいは殺します。そのようにして、自分の高慢な思いを満たすのがこの世の王、この世の君です。今も、この世には自分の高慢な思いを満たすために他の人を踏みつける者が溢れています。また、自分自身の中にも、高慢な思いがあります。

イエス様の戦いは、このような高慢をこの世から排除する戦いであり、そのために、最も低められた十字架の謙遜の道をお選びになったのです。十字架を背負ってイエス様について行くとは、十字架の謙遜の道を行くということです。十字架こそ、この世を支配する悪の力を打ち砕く力、高慢に対する勝利です。イエス様は、十字架の死、地獄の門を打ち破り、復活して天の御座にお着きになりました。

しかし、謙遜になって人に踏みつけられるようにして生きる道、イエス様がお示しになった謙遜の道を、弟子たちは誰も、歩くことはできませんでした。弟子たちは、ずっとイエス様が十字架におつきになる直前まで、誰が一番偉いか、誰が上か下かという議論をしていたのです。それほど彼は高慢な思いに満たされていました。誰も、自分の十字架を背負ってイエス様について行こうなどとしていなかった。イエス様は、それを知った上で、弟子たちをご自分のそばに置き、これを愛し抜かれたのです。

先週もお話しましたが、今週ももう一度、ペテロとイエス様の関係についてお話したいと思います。イエス様は、この世を支配する高慢の罪を裁くため、これを打ち砕くために、最も低められた十字架の屈辱、十字架の苦しみという謙遜の道を歩こうとしておられました。そんな時、イエス様はペテロに言われました。「あなたは、わたしの行くところに今は来ることはできない」と。するとペテロは答えるのです。「あなたのいらっしゃるところになら、どんなところにも参ります。あなたとご一緒に死ぬ覚悟はできております。」イエス様は、お答えになります。「ペテロよ。わたしのために死ぬというのか。あなたは、今日、鶏が鳴く前に、3度わたしを知らないと言うだろう」と。

ペテロは、自分の十字架を背負ってイエス様について行くつもりだった。しかし、イエス様は、彼にはっきりと、「今の君には、それはできない」と仰ったのです。ペテロは、イエス様に「お前はわたしに相応しくない」と言われたと思い、プライドも傷ついたことでしょう。

しかし、いよいよ、イエス様が捕らえられ、大祭司カヤパの官邸に引かれていった時、ペテロもついて行きました。しかし、焚き火に当たってことの成り行きを見ていたペテロは、「あなたもナザレ人イエスの仲間でしょう」という少女の一言で恐怖に包まれ、イエス様を否定したのです。3度も、徹底的に、神かけて呪いをかけ、イエス様を否定してしまったのがペテロだったのです。ペテロは、全てを失いました。希望も自尊心も、そして、最も大切だと思っていたイエス様との関係を失ったのがペテロでした。

イエス様は、十字架にかけられ、殺されました。全ての人の高慢の罪を打ち砕くためです。しかし、低められ、地獄にまで落とされたイエス様を神様は死人の中から甦らせられました。イエス様は、復活してペテロにご自身を現されました。ペテロは、復活のイエス様に出会ったのです。しかし、彼は、もうイエス様についていくことが出来ませんでした。出身地のガリラヤに戻って、漁師の生活に逆戻りしました。

そんな中、イエス様は、ガリラヤの出会いの場所でペテロを待っておられました。出会いの時と同じ大漁の奇跡を与え、神の御子としてのご自身を現し、ペテロに語りかけられます。

「ヨハネの子シモン。わたしを愛しているか」と。この言葉は、「ペテロ、わたしは、あなたに相応しいか」とお聞きになっているのと同じです。「ペテロ、わたしは、あなたの愛を受けるに相応しい者だろうか」と、イエス様が、ご自分を否定したペテロにお聞きになっている。しかも、3度も、徹底的にお聞きになっている。「わたしを愛してくれるか」と。

相応しくなかったのはどちらだったのでしょう。イエス様を見捨てて逃げ、自分の全存在でイエス様を否定したペテロではなかったでしょうか。それなのに、イエス様は、「わたしを愛してくれるか。わたしは、あなたにふさわしい者だろうか」とお聞きになった。

ペテロは答えます。「主よ、あなたは全てをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と。イエス様は、ペテロに新しい任務をお与えになります。「わたしの羊を養いなさい。わたしの教会を養いなさい」と。

私たちも、皆、同じではないでしょうか。誰も、自分の意志、自分の思いでイエス様の十字架の道についていくことは出来ない。誰も自分が相応しいなどとは言えない。むしろ、イエス様との関係よりも、自分の思いを第一にしてしまうような自己中心の相応しくないもの、それは、私ではないでしょうか。私たち一人一人ではないでしょうか。そんな高慢な者に、イエス様は低くなってお聞きになっている。全ての人の高慢、全ての人の罪、全ての人の汚れ、全ての人の悪を全て背負って十字架に死んだ私たちの王、私たちの主、王の王、主の主が私たち一人一人にお聞きになっているのです。「わたしを愛してくれるか。わたしは、あなたに相応しくないか」と。私は、何と答えるでしょうか。あなたは何と答えるでしょうか。

祈りましょう。

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