「ルカの福音書」 連続講解説教

祝福を受けるのに理由は要らない

ルカの福音書講解(85)第18章15節〜17節
岩本遠億牧師
2013年6月30日

18:15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。 18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

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私は、小さなお子さんとお母さん、あるいはお父さんが手をつないで歩いている姿や、幼稚園のバスを待っている姿を見て、いつも本当に不思議だなあと思います。小さなお子さんと親が二人で手をつないでいる。大勢で輪になって手をつなぐというのとは違います。二人だけで手をつなぐ。そこには特別な関係があります。何者もそこに入り込むことができない強い関係があります。私は、その様子があまりにも美しくて、感動することもしばしばです。

私は、日本に帰ってきてから、1度だけ、仕事以外の理由で日曜日の礼拝を休んだことがあります。手術入院していた時以外は、具合が悪くても礼拝を休んだことのない私が礼拝を休むということは、私個人にとっては大事件でありました。それは、下の息子の幼稚園で父親参観日が日曜日に計画されたからです。他のお子さんのお父さんたちが全員やってきて、子供たちとお遊戯をしたり、一緒に遊んだりする。それなのに自分の息子だけは、父親がクリスチャンでしかも、日曜日の礼拝を休まない人間だからというので寂しく悲しい思いをするかと思うと、その日だけは礼拝を休もうと思いました。

そして、手をつないでお遊戯をしたり遊んだりし、息子が本当に喜び、大声で笑っている姿を見ました。私も大声で笑い、楽しみ、本当に喜びに満たされました。子供と一つであるということはこんなに大きな喜びなのか。私は、その間、ずっと、今日のイエス様の言葉を心の中で繰り返していました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

イエス様は、この小さな子供たちを喜び、愛しておられる。この小さい子供たちと楽しむことをどんなに喜んでおられることだろう。そして、私自身がイエス様にとっては小さい子供なのだ。イエス様と手をつなぎ、お遊戯をし、大声で笑い、楽しむことを、どんなに喜んでくださっていることだろう。イエス様は、私がイエス様と一つであることをどんなに願っておられることだろう。

私たちは全員、子供の頃、親に手をつないでもらって歩いたことがある筈です。皆さんは、それを覚えていらっしゃるでしょうか。残念ながら、私は覚えていません。きっと両親は覚えている筈です。しかし、私は忘れてしまいました。

10年近く前に私の父は軽い脳梗塞を患い、仕事を引退しました。足が弱くなったため、外に出る時にはいつも母が付き添っているのですが、3年前に私が家を新築し、両親を車で佐倉の家まで連れてきたとき、高速道路のパーキングでは私が父の手を取り、トイレに連れて行ったりしました。父と手をつないで歩いたのは何十年ぶりのことだったのでしょう。

しかし、私は、その時、戸惑いました。年老いた父が自分の手を必要としていることに戸惑ったのではありません。自分が父から遠く離れていることを実感したことに戸惑ったのです。父が年老いて、自分の手を必要としている。そういう状況がなければ、自分は父と手をつないで歩くことができない。自分が父と手をつないで歩くための理由が必要となっていた。しかも、その理由は、父が年老い、自分一人の足では歩くことができなくなっていたということだったのです。

自分が幼い時、手をつないで歩いてくれた父親、疲れて歩けなくなった時には背負ってくれた父親。私は、幼かった時、父に手をつないでもらって歩くことを楽しみにしていた筈です。しかし、今、私は父と手をつなぐことに戸惑いを感じ、手をつなぐための理由を探し求めている。何と言うことでしょうか。私は幼いときの尊い心、真実の心を失ってしまっているのです。皆さんはどうでしょうか。

イエス様は言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

イエス様は、神の民イスラエルという社会の中でこの言葉を語っておられます。そこで子供というのは、天地の創造者である神様を信じている親の子供のことです。今の日本で言うならばクリスチャン家庭の子供のことです。私もクリスチャン家庭で育ちましたが、幼かった頃、神様を信じることについて理由は必要ありませんでした。いつの間にか讃美歌を歌うようになり、いつの間にか聖書の言葉を覚えるようになる。礼拝に行くことに理由は必要なかった。親が礼拝に行く。自宅で礼拝をしている。だから自分もその中にいる。そして、神様はその子供たちを愛し、祝福し、救いの中に握ってくださっている。

しかし、思春期になると、神様を信じるための理由が必要となる。親と一体ではなくなって、親と手をつなぐためには理由が必要となるのと同じように、神様を信じることに理由が必要となってしまうのです。しかし、多くの場合、その理由を見つけることができない。そして、自分がクリスチャンなのかクリスチャンでないのか苦しむということになることが多い。

しかし、彼らはクリスチャンなのです。キリストのものなのです。イエス様がすでに彼らの神となって下さっているのです。理由なしにイエス様を喜び、理由なしに礼拝に集うことを喜んでいたときから、いや、その前から彼らはイエス様のものです。イエス様を信じる親から生まれた者はキリストのものです。キリスト教会はこのことを重んじ、親の信仰に基づいて幼児に洗礼を授けてきました。

また、神様を信じること、クリスチャンであることに理由が必要であるという考えは、人がイエス様に近づくことを制限しようとする心に現れるようにもなります。イエス様の祝福を受けるためには、一生懸命説教を聞く人でなければならない。自分たちの仲間になる人でなければならない。あるいは、イエス様に癒していただく必要をもっている人でなければならない。それが弟子たちの思いではなかったでしょうか。

この時、イエス様は十字架にかけられるためにエルサレムに向かわれる途上にありました。パリサイ人たちとの緊迫した論争の中にもありました。多くの人たちが癒しを求めてやってきていました。そのような中で、特に問題をもっているわけでもない人たちが子供の祝福を祈ってもらうためだけにやってきた。弟子たちにしてみれば、忙しく、大変な状況にある先生のところに、仲間になろうともせず、何か問題を抱えているわけでもない人々が、子供たちにさわって祝福してもらうためだけにやってきた、それは邪魔である。先生の宗教活動の邪魔である。私たちの宗教活動のために邪魔である。そのように思ったのです。

しかし、イエス様は子供たちをイエス様から遠ざけようとする弟子たちに対して、憤られたとマルコの福音書は記録しています。イエス様にとって、祝福を与えることに理由は必要なかったのです。理由なしに神様の祝福を受け取る者たち、神の国はこのような者たちのものだとイエス様は言われました。このような幼い子供たちをイエス様は愛されました。大切になさいました。

そして、大人になってしまった私たちにも、幼子のようであれとおっしゃっておられます。理由なしに神の祝福を受ける者であれと。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできない」と。人は、神様の祝福を受けるための理由を作り上げてきたのです。その一つが律法主義です。律法を守ったら神様からの祝福を受けられる。勿論、律法は必要です。しかし、律法主義は人と神様との間に大きな壁を作ってしまった。神様からの祝福を受けるためにはこれこれをしなければならない。これこれをしたら神様は祝福してくださる。このような律法主義は、神様は条件付きで人間を愛してくださるという根本的に間違った神観を人間に与えることになったのです。

また、教理主義も人間が神様の祝福を受けるための理由付けを行なうものとなってしまっています。勿論、教理は必要です。教理がなければ神様と人間との正しい関係のあり方を理解することはできません。これは、王様を父親としてもつ子供が、王とは何か、王の働きは何か、その権限は何か、王の子供に求められることは何かを知ることに似ています。それを知ることは必要です。しかし、それを知るだけで、王と王子の間に喜びの関係が与えられるでしょうか。二人の間に必要なのは、ただ父と子、親と子としての喜びの関係なのです。子供が親のそばにいることの喜びと安心を感じ、親が子供が自分のそばにいることを喜ぶ。

この喜びの関係が第一なのであって、教理はその関係の僕にすぎないのです。しかし、教理が主人となり人の感情を押さえつける状況が生まれる時、信仰は喜びを欠いたもの、信仰は苦しくても信じなければならないものになってしまう。理知主義が教会を支配する時、人は神様を見失い、神様を信じるための理由を探し求めるようになるのです。

イエス様は、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできない」とおっしゃいました。しかし、これは「あなたがたは入れない」とおっしゃっているのでしょうか。そうではありません。

「わたしが、あなたがたをわたしの子供にする。神の国を受け入れるものにする。神の国に入る者とする。」とおっしゃっているのであります。「親と子の喜びの関係を、親であるわたし自身が回復する」とおっしゃっているのであります。イエス様の御霊が触れてくださる時、私たちはイエス様の子供となる。イエス様が私たちの存在を背負ってくださっていることを知ります。イエス様が私の手を、あなたの手を取って歩いてくださる。手をつないでこの人生の道を歩いてくださることを知るのです。

すでに親と手をつなぐことに理由を探し求めなければならなくなった私たちでした。しかし、イエス様となら手をつなぐことに理由はいらない。イエス様の大きくて温かい手が私の手を握ってくれている。そして、私たちが自分の足で歩けなくなった時、イエス様が背負って歩いてくださるのです。私たちは、イエス様の背中に背負われたまま眠ることが許されている。失ってしまっていた幼い子供の心、それをイエス様との間で回復することができる。

イエス様と手をつなぐことに理由はいらない。イエス様に背負っていただくことに理由はいらないのです。イエス様の温かい手に触れられる時、全てが分かるのです。

祈りましょう。

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