「ルカの福音書」 連続講解説教

神から出て、神に帰るために

ルカの福音書講解(72)第13章22節から30節
岩本遠億牧師
2013年3月10日

13:22 イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。 13:24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。 13:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。 13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』 13:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』

13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。 13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。 13:30 いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」

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皆さんは、自己紹介する時にどのようになさるでしょうか。話す相手がどのような人かによって自己紹介の方法を変えるのではないかと思います。仕事関係の人が相手なら、「○○会社の××」ですとか、「〇〇で△△をしております××です」のような言い方をします。ところが、相手がクリスチャンだったりすると、「〇〇教会の××です」と言います。

ところが相手がイエス様だったら、皆さんはどのように自己紹介するでしょうか。イエス様が「あなたは一体どこの者か」「あなたは何者だ」とお聞きになったら、何とお答えになるでしょうか。会社名や学校名、教会の名前などをお聞きになっているわけではない。あなたの本質は何かということをお聞きになっている。私たち一人一人は、イエス様のこの問いに何と答えるでしょうか。

イエス様は、このことをとおして私たちに何を教えようとしておられるのか。何を得させたいと願っておられるのか、そのことを聞き取りたいと思います。

ある人がイエス様に聞きました。「救われる人は少ないのですか。」この人の質問の意図は何でしょうか。神学的な興味から聞いたのでしょうか。イエス様の激しい生き方を見て、ついて行ける人は少ないと感じたのでしょうか。自分が救いの中に入っているか心配だったのでしょうか。あるいは、自分は救われているが、他の人は無理かもしれないと思ったのでしょうか。

当時のユダヤ人たちは、信仰の父アブラハムの子孫である自分たちは、偶像崇拝者になったり、神に対する冒涜を行ったり、罪人と言われる人々の仲間にならない限り、基本的に救われると考えていました。その数に入っている者と入っていない者がいるという前提で質問しています。

しかし、イエス様はその質問にはお答えにならず、むしろ、救われているとは一体どのようなことなのかということをお語りになります。

「努力して狭い門から入りなさい」と言われる。「努力して」と訳されている言葉は、「奮闘して」という意味で、栄冠を勝ち取るために勝負する者たちの態度のことを意味します。ある聖書学者は、二心ではなく、一つの心でという意味だと説明しています。

では「狭い門」とは何でしょうか。大学の入学試験もほぼ終わりましたが、この時期によく聞く言葉が「狭い門」です。限られた人数の人しか入れない大学を多くの受験生が受験する。そのような意味で狭い門と言われます。日本にも世界にもそのような狭い門は幾つもあるのですが、ここでイエス様が「狭い門」と言われている言葉は単数形であり、しかも、定冠詞が付いていることに注目しなければなりません。狭い門ならどれでも良いと仰っているのではありません。「この狭い門から入れ」と仰っている。

では、その狭い門とは何か。ヨハネの福音書の中でイエス様ご自身が仰っています。「わたしは羊の門である。わたしは門である」と。イエス様は狭い門であると仰っている。

狭い門とは一体何でしょうか。それは、人間が立ったままでは入れない門という意味です。茶室にはにじり口というものがある。そこから茶室に出入りするのですが、茶道を始めた千利休はクリスチャンだったと言われます。千利休という名前がSt. Lukeから来ているという説もあります。お茶でお菓子とお茶を頂くのは聖餐式でパンとぶどう酒を頂くのと並行的な関係にあるとも言われます。利休は、狭い門を茶室の入り口としたというのです。にじり口は立ったままでは入れません。身をかがめ、身を低くすることによって初めて入ることができるものです。

狭い門も同様です。身をかがめる、自らを低くする謙遜な心によってこそ、初めて入ることができる門、それが狭い門であります。自分が自分のままでは入ることができない門です。新しく生まれ変わることによってのみ入ることができる門である。すなわち、多いか少ないかが問題なのではなく、新しく生まれるかどうかということだけが問題となる

この後でイエス様はこの門が閉じられる時が来ること、そして、家の主人が外で門を叩く人々に「あなたがどこの者かわたしは知らない」と言うということを2度お語りになりますが、「どこの者か」と訳されている言葉は、「どこから来たのか」という意味で、聖書の中では非常に重要な意味を持つ言葉です。

ヨハネの福音書3:6に「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と訳されている言葉がありますが、これも「肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である」が元々の意味で、口語訳聖書も、新共同訳聖書もそのように訳しています。

さらに、ヨハネの福音書1:13には、「1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」とありますが、これも正確には、「これらの人々は、血からではなく、肉の欲求や人の欲求からではなく、ただ、神から生まれたのである」と明言されています。ヨハネの第一の手4:7にも、「愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」とあります。

イエス様が「あなたがたがどこから来たのか知らない。あなたがたが何から来た者なのか知らない」と言われるとき、聖霊の子供、神の子供だけが、この狭い門は入ることができるということを仰っているのであります。

入れなかった人たちはこのように言うとあります。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』「私たちは教会に言って、お話しを聞いていました。食事会にも参加して、交わりにも加わっていました」というのと同じです。あるいは、マタイの福音書によれば、イエス様の御名によって預言したり、悪霊を追い出したり、奇跡をたくさん行ったとしても、天の御国には入れないと言われています。

7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

神から生まれた者、聖霊から生まれた者だけがイエス様に認識して頂ける。どれだけ伝道しても、奇跡を行っても、奉仕しても、あるいは献金しても、神から生まれなければ、天の御国には入れないのです。

では、神から生まれるとはどのようなことでしょうか。生まれながらに神から生まれた人とそうでない人がいると言っているわけではありません。人は罪の中に生まれます。罪から生まれるのです。しかし、罪から生まれたものを、新たに神から生まれた者に造り変える力が神様にはある。イエス様はそのように仰っています。

ヨハネの福音書4章にニコデモというイスラエルの指導者とイエス様との問答が記録されています。ある夜、ニコデモがイエス様のところを訪ねて来て、イエス様に対する支持を表明します。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

イエス様に対して、あなたは神からの方であると告白しています。それに対するイエス様のお答えは何であったか。

3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

「水と霊によって」と訳されていますが、これも「水と霊から」です。また、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」も、「肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊です」が直訳です。「水」というのも「いのちの水」という意味で聖霊を指します。

つまり、肉を起源とするものから、聖霊を起源とする者へ、存在の転換が行われる。この存在の転換が行われなければ、神の国に入ることはできないのだとイエス様は仰っているのです。

しかし、誰が自分の力で、このような存在の転換を成し遂げることができるでしょうか。イエス様は続けられます。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

聖霊の風が吹いて来る時、人は新たに聖霊から生まれるのだと仰っています。

3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。 3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

旧約聖書に民数記という書がありますがその21章に、出エジプトしたイスラエルが食料と水の不足のために神様に対する不信の罪を犯したと書かれています。「我々は、この惨めな食物に飽き飽きした」と。神様はわずかな食料ではありましたが、彼らを養っておられたのです。しかし、それに対する不満を爆発させたイスラエルの民の中に神様は毒蛇を送り、これを懲らしめられます。多くの者たちが蛇に噛まれて死に、苦しみました。

彼らは蛇を取り除いてくださるよう、神様に頼んでほしいとモーセに懇願しますが、それに対する神様の答えは次のようなものでした。青銅で蛇を作り、それを旗竿の上に掲げよ。それを仰ぎ見るものは生きると。そして、彼らは神様が言われたとおり、青銅の蛇を仰ぎ見て生きたのです。

イエス様は、言われました。「3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。 3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と。青銅の蛇が旗竿の上に掲げられたように、私も十字架の上に架けられる。それを仰ぎ見るものは生きる。それを仰ぎ見る者は、新たに生まれ変わるのだ。神からの人間という存在に存在が転換するのだ。イエス様の十字架を仰ぎ見るとは、人間を地獄の子から神の子に造り変える圧倒的な、絶大な出来事なのだ。イエス様はそのように仰っているのです。

ですから、狭い門から入れというのは、イエス様の十字架を仰ぎ見るということを意味するのです。では何故、「努力して狭い門から入れ」「奮闘して十字架を仰ぎ見よ」と仰るのか。それは、私たちの心の中に、イエス様の十字架を仰ぎ見るのを邪魔しようとするものが働くからです。

今仰ぎ見なくても良いのではないのか。今は、もっとやらなければならないことがある。今は自分の楽しみ、自分の思いを大切にしたら良い。そのように語りかける言葉が私たちの内に聞こえて来る。礼拝に行くよりも、もっとやらなければならないことがある。祈るよりももっと大切なことがある。そのような思いは、私たちの中にいつも囁く声として聞こえて来るのではないでしょうか。

イエス様は、そのような声と戦えと仰っているのです。何故か。この門は永遠に開いているのではなく、閉じられる時が来るからです。イエス様の十字架を仰ぎ見ることができなくなる時が来る。だから、今、イエス様の十字架を仰ぎ見なさい。

イエス様は言われました。ヨハネ12:35 「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」

イエス様の救いという恵みは絶大な恵みです。しかし、これは期間限定の恵みなのです。いつ締め切りが来るか分からないタイムサービスの恵みなのです。その締め切りがいつか私たちには知らされていないのです。1年後かもしれません。10年後かもしれません。あるいはもっとずっと後かもしれません。しかし、今日かもしれないのです。

だからイエス様は、競技で栄冠を勝ち取ろうとして奮闘するように、一つの心で、心をここに集中して仰ぎ見なさいと仰っている。

しかし、どうしたらイエス様の十字架を仰ぎ見ることができるのか分からないと言う方もいらっしゃるでしょう。どうしたら信じられるのか分からないといって嘆いていた人がいます。確かに、人間は自分の力で自分の存在を変えることはできません。自分で自分を神の子とすることはできません。しかし、それを願い、心をそれに向けて探し求めるなら、聖霊があなたのところに吹いて来て、これまで見えなかったイエス様の十字架が見えるようになるのです。

イエス様ご自身が、これは期間限定の恵みであると明言しておられることは非常に重たいことです。イエス様がこれを期間限定であると仰っているのは、次の更に栄光ある恵みのステージに人を移しかえるためです。

「13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます」とありますが、それは狭い門から入るという恵みの後に、更に喜ばしい、栄光に満ちた祝福の世界が用意されているということを意味するのです。

皆さんの中にイエス様の十字架を仰ぎ見たいけれども、どうすれば仰ぎ見ることができるようになるか分からないという方がいらっしゃるかもしれません。また、以前見えていた筈のイエス様の十字架が見えなくなったという方もいらっしゃるかもしれません。

そのような方は、是非、イエス様の名を呼んでください。日々、いつもイエス様の名を呼び続けてください。必ず聖霊があなたのところにやって来て、あなたは十字架のイエス様の姿を見るようになるのです。その時、あなたは自分の存在が神の子に転換する、神からの者になるという決定的な経験をするのです。

エレミヤ書29:12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。29:14 わたしはあなたがたに見つけられる。

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