「マタイの福音書」連続講解説教

神が共におられるとは!

マタイの福音書第1章18節〜25節
岩本遠億牧師
2019年3月10日

“イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。”マタイの福音書 1章18~25節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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“このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われるからです。罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。”ヘブル人への手紙 10章10~23節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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