「マタイの福音書」連続講解説教

神が神であること

マタイの福音書16章20節から23節
岩本遠億牧師
2008年2月3日

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、
長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして
三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。
神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはあ
りません。」 16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神の
ことを思わないで、人のことを思っている。」

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マタイの福音書16章は重要な箇所であります。マタイの福音書の前半と
後半を分ける箇所であります。先回、私たちはペテロがイエス様に向か
って「あなたこそ生ける神の子キリストです」とペテロが信仰告白し、
そして石ころを岩にする方が、石ころに過ぎないペテロに「わたしはこ
の岩の上に私の教会を建てる」と宣言なさったことを見ました。イエス
様がキリスト教会設立の宣言をなさった。死者の国、死の力に打ち勝つ
キリストの教会をお建てになる。そして、石ころのような私たちに信仰
を与え、私たちを岩となし、私たちの上に教会を建ててくださるイエス
様のご計画と御心について、先週は学びました。

今日の箇所は、「生ける神の子キリスト」とは何かということをイエス様
ご自身が語っておられるところです。ペテロの告白を受け、では「神の
子」とは何か、「神が神であるということはどういうことなのか」という
ことをお教えになり始めるのです。

私たちは、「神様」という言葉に表されるものに、いろいろなイメージを
持ちます。その最も典型的なものは、「自分を幸せにしてくれる力ある方」
です。人間は、自分の言うことを聞いてくれる神様が好きです。ですか
ら、人生が自分の思い通りにいかず、自分を不幸だと思う人は、「神がい
るはずがない」と言うのです。それは、神がいるなら、それは自分の思
いを実現して幸せにしてくれるものに違いないと思うからです。それは
絶対的に力のある方を自分の思い通りに動かしたいという思いに他なり
ません。それは、真の信仰ではないでしょう。勿論、神様は私たちの祈
りに耳を傾け、祈りに応えてくださいます。しかし、私たちの思いを実
現してくれるために神様は存在しているのではないのです。

ペテロが「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白したその告白
は、父なる神様がペテロにお示しになったものだとイエス様はおっしゃ
いましたが、ペテロ自身が持っていた「キリスト観」「生ける神の子のイ
メージ」は異なっていました。ペテロは、イスラエル国家を再興なさる
方として、イエス様を見ていました。それが神の子であり、キリストで
あると信じていました。やはり、そこにもイスラエルのために働く神、
私たち、ひいては、私のために働く神という思いがあったのです。それ
に対して、イエス様は、「引き下がれ。サタン」とご一喝になりました。

イエス様にとってキリストである、生ける神の子であるとはどういうこ
とだったのでしょうか。今日、私たちは、「神が神であるとはどういうこ
とか」を学びたいと思います。

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、
長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして
三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

ペテロの信仰告白を受けて、この時からイエス様はこのように教え始め
られました。キリストとは何なのか、神の子とは何なのかを教え始める
のです。長老、祭司長、律法学者たちというのは、当時のイスラエルの
最高議会であるサンヘドリンの構成メンバーです。つまり、イスラエル
の最高議会によって、正式に、多くの苦しみを受け、殺され、そして三
日目に蘇る、これがキリストなのだとお教えになり始めました。何度も
何度もお教えになるのです。

しかし、イエス様はなぜ殺されなければならなかったのでしょう。全人
類の罪の贖いを為すためだと言ってしまえば一言で終わりですが、何故、
そこまで憎まれたのでしょうか。イスラエルの指導者たち、宗教家たち、
聖書学者たちだけでなく、エルサレムの住民、エルサレムに巡礼に来て
いた多くの人々、そして、ローマの総督、全ての者たちに憎まれ、殺さ
れたのでしょうか。

イエス様は、ご自分が十字架に付けられて殺されるということについて、
むしろ積極的で明確な意識を持っておられました。福音書を読み進めて
いくと明らかになっていきますが、イエス様は自ら十字架に殺されるよ
うな状況を作っていくのです。

「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためで
あり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与
えるためである」マタイ20:28

「贖いの代価として、自分のいのちを与える」とおっしゃっています。
自分が十字架に殺されることによって、多くの人々が贖われる。罪が赦
される。神様の前に、一度も罪を犯したことのない正しい者として生か
されるということです。そのために自ら十字架にかけられる道を選び取
っていかれるのです。

イエス様は、イザヤ書53章にある「主の僕の歌」をご自分についての
預言と受け止めておられました。次のように預言されています。

「53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者
で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打
たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 53:9 彼の墓は悪者どもとと
もに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、そ
の口に欺きはなかったが。 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主
のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえ
とするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼に
よって成し遂げられる。 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあ
とを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多く
の人を義とし、彼らの咎を彼がになう。 53:12 それゆえ、わたしは、多
くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられた
からである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりな
しをする。」

神様がご自分の姿に似せて造った人が、罪を犯し、悪魔の虜になってし
まった。それを救うためには、自分が代わりに悪魔の虜になることが必
要だったのです。そのために、人となりました。人にならなければ、人
の身代わりにはなれないからです。十字架にかかる30数年前、人とし
てイエス様が来られたとき、神としての全てのものを捨てて来られたの
です。

神が神であるとはどういうことでしょう。全知全能の神であった方が、
愛する人間をすくうために、神であることを捨てたということだったの
です。

イエス様は、神であられたのに、神としてのあり方を捨てて、人となっ
てくださいました。ご自分を無にして人と同じになってくださいました
(ピリピ2:6)。それは、全知全能であることを捨てたということです。
全ての栄光を捨てたということです。そして、人間が受ける罪の刑罰の
全てを自分の身に受け、殺され、地獄の底に落ちる。これが神が神であ
るということなのだとイエス様は語っておられるのです。そのために十
字架の刑罰を受けるのだと。

しかし、イエス様はご自分は三日目に蘇るともお語りになりました。そ
れは、イエス様が全知全能だったからではなく、旧約聖書の預言に基づ
いた確信でした。ホセア書6章1節から2節「6:1 さあ、主に立ち返ろ
う。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、ま
た、包んでくださるからだ。 6:2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」

主に反逆したイスラエルが神様に打たれ、引き裂かれ、死んでしまうが、
3日目に立ち上がらせてくださるという預言が、イスラエルと全人類に
代わって神様に打たれる自分の上に実現するということをイエス様は確
信したのです。イエス様は、そのようにこの箇所を読んでおられた。で
すから、十字架に殺され、三日目に蘇らされなければならないとおっし
ゃったのです。これは、神だから知っていたのではなく、旧約聖書の預
言がキリストである自分の上に必ず実現するはずだという思いだったの
です。

イエス様は自分で蘇ると仰っているのではありません。ギリシャ語を見
ると、受身で書かれていますので、「必ず蘇らされるはずだ」という意
味です。誰が蘇らせるのか。それはご自分ではなく、父なる神様です。
ご自分が自分の意志で行うのは、十字架にかけられて殺されるところま
でだとイエス様は仰っているのです。それが神の子の業だ。神の子が神
の子であることを捨てること。神が人の絶望を、その最もひどい絶望を
受け入れることなのだとイエス様はお語りでした。

しかし、弟子たちには分かりません。弟子たちにとって、これは聞きた
くないことでした。弟子たちは、イエス様がイスラエルの王座に着いて、
イスラエル王国を復興し、偶像礼拝者の支配から神の民を救ってくださ
ることを期待していました。それが神様の御心だと信じて疑わなかった
のです。彼らは、復活したイエス様にも、「今こそ、イスラエルのため
に国を復興してくださるのですか」と尋ねています。だから、イエス様
が殺されては都合が悪い。殺されるはずはないと考えるわけです。

それで、ペテロがイエス様を引き寄せて、いさめ始めました。「いさめ
始めた」とありますから、イエス様を諌めるということが長く続いたと
いうことです。あるいは、イエス様が十字架の話しをするたびに、「そ
んなことがあるはずがない」と言っていたということかもしれません。
「引き寄せた」とありますが、手でイエス様を自分のほうに引っ張った
のでしょう。しかし、それだけではないでしょう。イエス様を自分の思
いのほうに引き寄せたのです。ペテロの基準、人間の基準で考えるよう
にイエス様の心を引き寄せようとしたと理解されます。十字架のほうを
向いておられるイエス様を人の思いのほうに向かせようとした。

その思いは、「そんなことがあなたに起こる筈がない」ということでし
た。あなたは、これからイスラエルの王になるのです。あなたがイスラ
エルの王になることを皆が願っているのです。あなたのように奇跡を起
こす力がある方なら、必ずイスラエルの王となって、偶像礼拝者である
ローマを駆逐することができるのです。あなたこそイスラエル王国を復
興なさる方なのです。それがあなたの使命なのですよ。そのために、私
たちもあなたの弟子となって、ついて来ているのです。何を不吉なこと
を言っているのですか。

しかし、ペテロに対するイエス様の言葉は非常に激しいものでした。
「引き下がれ。サタン」と仰いました。これは、イエス様が伝道を始め
られる前に悪魔の試みを受け、それを退けられたときと同じ言葉です。
その時サタンはイエス様にこの世の全ての栄華を見せて言いました。
「もし、あなたがひれ伏して私を拝むなら、これらのものを全てあなた
に差し上げましょう。」これに対して、イエス様は答えられました。
「引き下がれ。サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』
と書いてある。」と聖書の言葉をもって悪魔の誘惑を退けられました。

イエス様は、本当に偉大な力を持った方でした。望みさえすれば、世界
を支配して、その富も権力も全てを自分の意のままに手に入れることが
できたのです。だからサタンは誘惑するのです。

ペテロの言葉を聞いた時、イエス様は、このサタンがもう一度、ペテロ
の言葉を通じて自分を誘惑している声を聞いたのです。イエス様は、同
じ言葉で撃退なさいました。「引き下がれ。サタン」と。「あなたは、わ
たしの邪魔をするものだ」と訳されていますが、原語では、「躓き」です。
スキャンドロンと言いますが、スキャンダルという言葉ができた基にな
る言葉です。その言葉を聞くと躓いてしまうようなものです。正しい心
を失わせるようなものだというのです。「躓きの石」という意味でもあり
ます。つい先ほどまでは「この岩の上に」と言われていたのに、今、「お
前は、躓きの石だ」と言われる。

「この世で誰もなることはできなかったし、これからもなることのでき
ない偉大な全世界の王になって、正義をもたらし、良い政治を行って、
社会悪と貧困をこの世からなくし、人々を幸せにしたら良いではありま
せんか。あなたには、その力があります。あなたの政治を皆が求めてい
るのですよ。あなたが王様になったら、世界が平和になります。戦争も
なくなります。その持てる力と知恵をそのために用いたら良いではあり
ませんか。そのほうが、十字架にかけられて殺されるよりも世界のため
なのです。十字架にかけられて殺されたら、皆が失望するだけではあり
ませんか。あなたが生きていることが人々に希望をあたえるのですよ。」

人間的に見たら、決して悪いことではありません。しかし、このような
人間の思いは、人の罪を解決しないのです。私たちを罪から解放するこ
とはできないのです。イエス様は、このような思いと戦っておられたの
です。ですから、イエス様はペテロに言われました。「あなたは人のこと
を思っていて、神のことを思っていない」と。イエス様にとって神の子
の実存を全うすること、神が神であることとは、旧約聖書に預言された
人間の罪の贖いを成し遂げるために、神であることを捨てることであり、
全人類にかけられている罪の呪いを自分が引き受けることであったので
す。神様が人となるとは、こういうことだったのです。十字架の絶望を
受け入れるということだったのです。

私たちは、イエス様の御思いをどれだけ理解しているでしょうか。私は、
イエス様のことがどれだけ分かっているでしょうか。その葛藤、その苦
しみをどれだけ理解しているでしょうか。

イエス様は、ペテロを激しくお叱りになりましたが、しかし、ペテロを
愛し抜かれました。ご自分を理解せず、人間の思いで誘惑し、そして、
いざという時には否定し、見捨てて逃げていくペテロのためにも十字架
にかけられたのです。十字架にかけられて殺されることなしに、ペテロ
の罪は赦されず、神の子として造り変えられることもなかったのです。

私たちも同様ではないでしょうか。私たちが神様に期待することは何で
しょうか。私の思いを実現するために、神様に働いてほしいと思う私た
ち。十字架に向かっていこうとするイエス様の手を引っ張り、こちらを
向かせて、「イエス様、死んだりせずに、ずっと私たちの願いを聞き続け
てください。そのほうが私たちは幸せです」と言いたいのが私たちなの
ではなかったでしょうか。

しかし、イエス様は、私たちの手を振り払うようにして十字架にかかっ
ていかれました。自分のことしか考えていない私たちのために十字架に
かかって下さったのです。そうしなければ、私たちの、いいえ、私の罪
が解決しないからです。私たちにとっての最大の問題は罪の解決なので
す。そのことを私たちは分かっていない。自分は正しいと思うからです。
イエス様に代わりに死んでもらわなければ、救われないほど自分が悪い
ということを認めようとしないからです。

しかし、イエス様は、私たちが自分の罪を認めようが認めまいが、私た
ち人間の手を振り払って十字架にかけられ、殺されました。私たちの罪
を赦し、私たちを新たに造り変え、造り清めるためです。このようにし
て、神が神であることを明らかにされたのです。

イザヤは預言しました。「我々の聞いたことを、誰が信じただろうか。
主の手は、誰に現れただろうか」と。

私たちは、何と言うでしょうか。「十字架なんかどうでも良いから、私を
幸せにしてください」と言うでしょうか。それとも、イエス様の十字架
を誉め讃えるでしょうか。「主よ、あなたの十字架を感謝します。あなた
の十字架なしに私は救われませんでした。私の罪は赦されませんでした。
あなたが十字架に死んでくださったから、私は赦され、今、神様の前に
立つことができるのです。あなたの十字架が私に永遠の平和と癒しを与
えたのです。主よ、感謝します。あなたの十字架を誉め讃えます。あな
たの十字架の血潮を誉め讃えます」と告白するでしょうか。

祈りましょう。

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