「マタイの福音書」連続講解説教

神に自分を返す

マタイの福音書 22章15~22節
岩本遠億牧師
2021年3月21日

そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。マタイの福音書 22章15~22節

パリサイ人 ・・・反ローマ
ヘロデ党 ・・・親ローマ

イエスを倒すために敵対するもの同士が徒党を組む
言葉の罠にかける→Yesと言ってもNoと言っても窮地に陥る質問

カエサルに税金を納めることは律法にかなっているか?
Yes→民衆の支持を失う
No→ローマ当局による捕縛

当時の税金
直接税・・・人頭税、ローマが直接徴収、ローマによる支配が顕著
       →強い反感、ユダヤ人による反乱の原因
間接税・・・物品税

ここでは直接税について質問
人頭税を支払う硬貨はローマのデナリ硬貨と定められていた。


TI CAESAR DIVI AVG F AVGVSTVS
 (ティベリウス・カエサル 神君アウグストゥスの息子にして皇帝)

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。”
十戒の第二戒 出エジプト記 20章4節

イスラエル人にとっては、このデナリ硬貨の存在とそれを人頭税として納めることは耐えられない苦痛であり、侮辱であった。

バルコクバの独立運動期A.D. 132-135のデナリ硬貨 
椰子の木とぶどうの葉をデザインに用いる。

イエスの最も重要な主張
カエサルは神ではない  ←命がけの主張
反皇帝崇拝

暴力的抵抗の否定
悪者に抵抗するな。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けよ。あなたの下着を取ろうとする者には上着をも与えよ。マタイ5:39-40

マタイの福音書 10章28~31節
“からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。”

侮辱された時、自分の持ち物を取られた時の屈辱感や怒りがあなたの行動を支配してはならない。

あなたから貢ぎを取り立てようとする者に抵抗するな。
しかし、カエサルは神ではない。
→パリサイ人の問いもヘロデ党の問いも凌駕する答え。

あなたは、真の神との真実の関係に生きよ。あなたは、自分自身を神のものとして生きよ。

イザヤ書 第43章1節
 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。

詩篇 50篇7~15節

聞けわが民よ。わたしは語ろう。
イスラエルよ わたしは あなたを戒めよう。
わたしは神あなたの神である。あなたのいけにえのことで あなたを責めるのではない。
あなたの全焼のささげ物は いつもわたしの前にある。
わたしは あなたの家から雄牛を囲いから 雄やぎを取ろうとしているのではない。森のすべての獣は わたしのもの。千の丘の家畜らも。
わたしは 山の鳥も残らず知っている。
野に群がるものたちも わたしのもとにいる。
たとえ飢えても わたしはあなたに言わない。
世界とそれに満ちるものは わたしのものだ。
わたしが雄牛の肉を食べ 雄やぎの血を飲むだろうか。
感謝のいけにえを神に献げよ。あなたの誓いをいと高き神に果たせ。(=真実な心を捧げよ)
苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。(=真実の関係)

“あなたはいけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたはお求めになりませんでした。”
詩篇 40篇6節

“まことに私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず全焼のささげ物を望まれません。
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。”
詩篇 51篇16~17節

【神様が人を求める基準】(『366日元気が出る聖書のことば』より)

神様に捧げ物をする場合、傷のない最上のものを捧げるようにと聖書は命じています。自分自身にとってあまり価値がないものを捧げるのは神様に対する姿勢としては問題があります。

ですから、自分の内面の醜さや罪を知る誠実な信仰者は、「あなたの心を捧げなさい」と言われると、当惑してしまいます。自分自身が捨てたいと思う、この汚れた心を神様に捧げるなど、とんでもないと思うからです。

しかし、どんなに捨てたいと思っても、それは心の一部、汚れた部分だけを切って捨て、清い部分だけを捧げることもできないのが私たちの心です。

幕屋の中で捧げられる香の調合について、主ご自身がモーセに指示を出しておられる箇所があります。それには、ナタフ、シェヘレテ、そして乳香という芳しい香だけでなく、ヘルベナという不快な臭いのするものも同量加えて調合しなければならないとあります。

主に捧げる香になぜ不快な臭いのするものも同じ量含めなければならないのか。ユダヤ注解によると、これはイスラエルの中で罪を犯した者たちを表すということです。芳しい香りのする人だけではなく、不快な臭いを放つ者も主の前に共に礼拝を捧げることを主は求めていらっしゃるのだと。

不快な臭いを放つ者、それは誰でしょうか。聖者たちの芳しい香りの中に、不快な臭いを放つ私のような者も含まれる。この汚れた心も含まれるというのです。それらが一つとなって捧げられることを、主は求めていらっしゃる。主は、それを分けられることのない一つのものとして受け取ってくださる、ご自分のものとしてくださるのだと。

清いもの、価値あるものだけを取り分けられるなら、それを捧げるべきです。しかし、一体となっているものも神様は捧げよと仰っている。

主が人をお求めになる基準、それは、人の基準とは違うようです。私の基準とも違う。そのことに心を巡らせ、心を静め、祈りましょう。

主はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香と純粋な乳香を取れ。これらは、それぞれ同じ量でなければならない。」出エジプト30:34

関連記事