「ルカの福音書」 連続講解説教

神の国はここに始まる

ルカの福音書講解(71)第13章18節から21節
岩本遠億牧師
2013年3月3日

13:18 そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。 13:19 それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」

13:20 またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。 13:21 パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」

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イエス様は、たくさんの譬え話をなさいましたが、「種」についての譬え話ほどミステリアスな、天の奥義が隠されているものはないと思います。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私はインターネットでのハンドルネームを「たねまき」と言います。イエス様の種まきの譬え、マルコの福音書第4章26節から29節を読んだ時、これこそ私の主であり私の王であるイエス・キリストが私にこの地上の生涯で成し遂げるべきこととしてお与えくださった働きだということを確信したからです。

このように言われています。

4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

「地は人手によらず実をならせる」、「地は自ずから実を結ばせる」と言っておられます。それならば、私は人に対して、ああしろ、こうしろとは言うまい。ただ、神様の言葉である聖書の言葉を蒔き続ける。それが主イエス様が私にお与えになった働きである。イエス様ご自身がお一人お一人の上に豊かな実を結ばせてくださる。豊か実とはすなわち、イエス様ご自身のお姿であります。お一人お一人がイエス様のお姿に似た者とされて行く、そのために私に与えられた働きは種を蒔くことだけである。聖書の言葉を語り、聖書の言葉をお送りすることだけです。それが私のメルマガの働きであり、それを元にして集められたキリストの平和教会なのです。

今日の箇所でも、イエス様は種の話しをしておられます。小さなからし種がやがて大きくなって空の鳥たちが巣を作るようにまでなる。それはどのような意味なのでしょうか。それが実現すると、私たちはどのようになるのでしょうか。聖書学者たちが書いている注解書を読むと、どれも等しくキリスト教会が世界的に広がって行くことが預言されているのだと解釈しています。多くの人たち、多種多様な人たちがこのイエス・キリストという木に集まって来て、一つの大きな教会を成すようになる。私たちもそこに集められた鳥なのだと。そこに自分の居場所、自分の巣を得ることができると。

イエス様という大きな木の中に、自分の巣を持つことができる。多くの人たちとイエス様にあって一つとなり、平和の中、神様を賛美する希望が与えられる。素晴らしいことです。しかし、もう一方で、集められた人々の間に対立や争い、あるいは蔑みがあるということを指摘している注解や説教もあります。

私は、この譬えが教会の成長を表しているという考えはそのとおりだと思います。しかし、その基礎には個人個人と種との関係、個人個人の成長がある、そのことを抜きにして教会の成長を語ってもあまり意味がないと考えます。もし、集められた人たちの間に互いに対する無理解や対立、汚れや罪、蔑み、高慢などがあるなら、この種の譬えの意味に耳を傾け、一人一人が整えられて行かなければならないからです。数が増えるだけなら教会が成長していることにはなりません。一人一人が成長して行く、そこに教会の成長の基礎があります。

皆さんは、からし種を見たことがあるでしょうか。私は小田原に両親が住んでおりますが、両親のクリスチャンの友達がからし種を送ってくれたことがあります。芥子粒よりも更に小さい。鼻で息をしただけで飛んで行くほど小さなものです。しかし、母は、それを発芽させ庭に植えました。すると、それは大きくなり、2〜3メートルの大きさになりました。

パン種、イースト菌も小麦粉に混ぜて捏ねると、パン生地全体が大きく膨らみます。イエス様は、ここで神の国の譬えとしてパン種のことをお話しですが、弟子たちにはパリサイ人のパン種、すなわち、高慢というパン種に気をつけよともおっしゃっています。パン種は良い譬えにも、悪い譬えにも用いられていることに注目すべきだと思います。イエス様は、ここで私たちの内面についてお語りになっているのです。

昨日の元気の出る聖書のことばでもお送りしました。創世記に次のような言葉があります。

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった創世記6:5

「心にもないことが口から出る」ということを聞くことがありますが、普段思ってもいないことが急に言葉になって出てくることがあります。中には、「普段そう思っているから、思っていることが口から出るのだ。その言葉は、あなたの心の表れだ」という人もいます。どちらが正しいのでしょうか。

人間の言語には、意味を作り出す能力が備わっていますが、それは無限の数の意味を作り出す自動装置と考えることができます。無限とはどういうことかというと、私たちが最も身近に知っている無限とは、自然数です。どんなに大きな自然数でも、それに1を加えればまたそれも自然数であることに違いはありません。ただ、私たちは日常の生活の中で100を超える自然数を数えることはほとんどありませんし、一生の間に使ったり、見たり聞いたりする自然数も、私たちの脳が造り出すことができる自然数のごく一部なのです。

これと同じように、現代の言語学では、次のように考えています。人間の脳は無限の意味を造り出すことができる、ただ、人間が一生の間に実際に思い浮かべる意味の数も、言葉を聞いて理解する意味の数も、無限に比べるとごく一部に過ぎない。

良い意味を無限に造り出すことができると同時に、悪い意味も無限に造り出すことができる。言葉を習得するとは、その無限の意味を表現する手段を手に入れるということです。現在の言語学ではそのように理解されています。

ですから、何かしらの刺激や怒り、あるいはちょっとした苛々がきっかけで、それまで考えたこともないような悪い考えや汚れた思いが湧き上がってきます。自分が大切にしているものについてさえも、悪い言葉が突き上げて来る。しかも、新しい考えは脳に快感をあたえるので、それが定着するまで何度も頭の中でそれを繰り返し、さらに、それを基礎に邪悪な考えを膨らませていくのです。

神様は、人の心に計ることがいつも悪に傾くのをご覧になったとありますが、人は、仮に行いにおいて罪を犯さなくても、心の中で限りない罪を犯す、何かのきっかけで、悪い思いが突き上げて来る。それが人間の罪性なのです。

ところが、これは、正しい考え、清い思いについても同じように当てはまります。無限の善、無限の清さを作り出す脳力が人間には本来備わっているのです。無限の善、無限の清さの中に生きることができるものとして、神様は人間を創造なさったのです。

それを罪が覆い隠しているという状態は本当に残念なことです。無限の善と無限の清さを作り出すためには、罪を清められ、悪に支配されないようにならなければなりません。

イエス様は、小さなからし種が大きくなり、空の鳥が巣を作るようになるとおっしゃいました。土に植えられた目に見えないような種が大きくなるのです。イエス様の言葉、イエス様の愛、イエス様の命が私たち一人一人の中に植えられたら、愛が愛を呼ぶように、善なる思い、清い思いが次々に湧き上って来て、周囲の人を生かすようになる。

先ほど、種の譬えはミステリーだと言いました。ミステリーとは奥義のことです。私たちはまだほんの少ししかこのことを知っていないのです。しかし、イエス様の火、イエス様の愛の火、イエス様の言葉の火が私たちの内に燃えつくなら、私たちの内に無限の清さ、無限の愛、無限の希望が満ち溢れて行く。

そして、お一人お一人のところに鳥がやって来て、羽を休めるようになって行く。やがて、羽を休めるためにやって来ていた鳥たちがあなたのところに巣を作るようになって行く。お一人お一人の中にイエス様の種が植え付けられ、イエス様の火が燃え始めるなら、そうなって行くのです。

こんな私のところにも羽を休めるためにやって来てくださる方々がいらっしゃり、この教会に自分の巣を作ってくださっている方々もいます。しかし、やがて皆さんも、イエス様の種、イエス様の火によって人を生かす言葉を語るものとなり、お一人お一人の周りに人が集まるようになって行くのです。それがイエス様の御思いです。

しかし、このように大きく育って行く時にどうしても必要なことがあります。それは、私たちが自分を離れることです。私たちは自分の思い、自分のやり方、自分の希望、自分の理想、自分の夢にこだわります。あるいは、自分の弱さにこだわるということもある。しかし、私たちが自分を求めるとき、私たちは一歩も自分から成長することはないのです。そこに神の国が実現することはないのです。

イエス様は言われました。

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ12:24

自分にこだわるとき、種は成長しないのです。しかし、自分に死に自分の心、自分の思いから離れるとき、不思議な永遠の世界が広がって来る。これが種のミステリーなのです。神の国の奥義なのです。人生は逆説的です。

イエス様は言われました。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」ルカ9:24

私たちはこの奥義を良く理解していないかもしれません。しかし、私たちの心を開き、それを教え、またその祝福の道を導いてくださるのはイエス様ご自身であります。

先週、私は家内と一緒にある女子大学生のクリスチャンを尋ねました。もう数ヶ月前から進路のことで悩んでいるということを聞いていました。そして、いよいよ決めなければならないという時になり、右にも左にも行くことができず、本当に立ち往生してしまっていました。

自分が進みたい方向がある。しかし、いろいろご家庭の難しい状況があり、それに向かうことはできない。そうかと言って、自分の望まない方向に進もうとすると、心も体も動かなくなってしまい、礼拝に来ることもできなくなっていました。メールをしても返事もなかなか来ない状態でしたので、家内と一緒に会いに行くことにしました。ご自宅の近くのファミレスで会いました。

ご家族のこと、ご自分の希望、困難の原因、これまでの失敗、今何もできなくなってしまった苦しみ、いろいろとお聞きしました。その中で彼女が調べて来たものに唯一つ、可能性がある道があることが分かりました。それは先の先まで何かが保証されているものではありませんでした。ほんの少し先のことまでしか分からない道でした。細い道です。しかし、私も家内も、彼女はその道を行くしかないと感じました。他の道は全て閉ざされていたからです。また、神様がその道を彼女に与えておられるのではないかと私は感じました。

彼女は、今の自分に失望していました。そして、先の分からない道に行って大丈夫か自信が持てないということも言っていました。しかし、彼女が感じていた苦しみは、イエス様に出会い、イエス様を信じた時に聞こえて来たイエス様の言葉が聞こえなくなっていたということでした。どんなに祈ってもイエス様の声が聞こえない。

私は、彼女に言いました。世の中の人は「自分を信じて」とか「夢を諦めなかったら実現する」とか言うけれど、それは違います。自分を信じるのではなく、神様を信じるのです。もし神様があなたをその場所に導こうとしておられるのなら、先の見えないわずかな時間の中で、神様は必ず新たな道を開かれます。神様は私たちが望むようには、先の先までは教えてくださらない。ある人に何かをさせようとなさる時は、一歩先の道しか開いてくださらず、本当に必要なものだけで支えてくださるのです。

しかし、神様があなたをそこに導き、あなたを通して神様が何かを成そうとしておられるのなら、神様はあなたが向こうに行ってからその道を開いてくださいます。そのような状況で、あなたは自分を信じることはできないと思います。しかし、自分を信じるのではなく、神様を信じるのです。神様を信じて祈るのです。人は、自分の思いを求める時、神様を見失います。しかし、自分を離れるとき、神様を見出すのです。

彼女の目から涙が溢れました。そして、彼女を縛っていた「自分」から解放されたのが分かりました。彼女のこわばっていた顔はすっかり柔和になり、笑顔と喜びに満たされました。その顔を見、安心して帰って来ました。彼女からはその日のうちにメールをもらいました。

「イエス様に出会い、イエス様を信じた時に聞こえていた神様の声が聞こえなくなり、本当に不安で仕方がありませんでしたが、また神様の声が聞こえるようになりました。自分を信じるのではなく、神様を信じて進めば良いと気付かされたとき、元気と勇気が湧いて、安心できました。自分のことは信じることはできないけれど、神様を信じて進むとは、本当に力強いことです。イエス様が握ってくれている。私のそばにいて下さることに、感謝の思いで一杯です。」そういう内容でした。

私たちが自分を求めるとき、神様の声が聞こえなくなる。神様の導きが見えなくなる。自分の上を暗闇が覆い、抜け出すことのできない堂々巡りと怒り、苛立ち、絶望に陥ってしまうのです。しかし、そのような暗闇の力、人を祝福から遠ざけ、押し込めようとする暗闇の力を打ち砕いてくださる方がいる。その方の言葉、その方の燃える火が私たちの自分という思いを打ち破ってくださるのです。そのとき、私たちは信じるべきは自分ではなく、イエス様であることが分かる。

自分を覆っていた暗闇という蓋が取り去られ、永遠の祝福が自分の上に広がっていることが実感できるようになる。新しい喜び、神様を讃える新しい言葉、麗しい言葉、言葉にすることができない永遠の思いが私たちの内側から湧き上るのです。

自分を求めることを止めさせる力、自分という大きな壁を打ち破る力が、イエス様が蒔かれた種にはあるのです。これこそが神の国の奥義です

私たちはイエス様がお語りになった種の奥義をまだ十分に知っているとは言えないでしょう。しかし、このような一つ一つの出来事をとおして、神様が実現しようとしておられる祝福、空の鳥が巣を作るような祝福がどのようなものか、少しずつ理解できるようになって行くのです。

神様が私たちの内に入れてくださったからし種、パン種によって私たちが想像することもできないような永遠の善、永遠の清さ、永遠の祝福を体験させてくださる方がいる。あなたがたお一人お一人のところに、人が祝福を求めて集まるようになり、イエス・キリストの教会が建てられて行くのです。神の国は、まず私の中に、あなたの中に始まるのです。

イエス様は言われました。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:21

祈りましょう。

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