「マタイの福音書」連続講解説教

神の子の本質が見えるか

マタイの福音書第13章53節〜58説
岩本遠億牧師
2020年8月30日

イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。

ナザレの受胎刻字教会
マリアが御使ガブリエルから受胎告知を受けたとされる洞窟跡
聖ヨセフ教会 ナザレのヨセフとマリアの家があったとされる洞窟の上に建つ
ヨセフの家とされる洞窟の跡
ナザレの洞窟跡、一般的にナザレの人はこのような洞窟に柱や門などをつけて生活していた
ツィポリからナザレを望む ナザレはツィポリの北西6キロ
ツィポリの半円形劇場跡
ツィポリの道路
歩道にはモザイクが敷き詰められている
住居跡の床のモザイク 偶像が禁止されていたイスラエルでは幾何学模様が一般的。
ここでは、人物のモザイクが見られる。
ビーナスのモザイク
酔って嘔吐するバッカスのモザイク

ナザレの人々は、一般に農業に従事

イエスの父ヨセフはツィポリで大工として建築業務に従事。少年イエスと兄弟たちも父と共に、ここで働く。

異教(ローマ)の芸術(偶像)のある街に幼い時から出入りする
→ローマの百人隊長に対するイエスの柔軟な対応
 取税人や罪人と呼ばれる人たちへの偏見のない愛
→ツィポリでの労働体験によってイエスはパリサイ主義と一線を画する福音についての思索を深めたのではないか?

一方、ナザレの人々にとって、イエスは異教の街ツィポリは生活のための金を得ていた建築従事者、イスラエルの宗教指導者とは程遠い存在
→イエスに躓く 

「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」
 
注)「大工」は卑しめられた貧しい職業ではなかった。学のある者としての社会的な地位があった。

イエスのこの知恵と奇跡を行う力はどこから来たのか?

ナザレの人々はイエスの中に満ち満ちていた聖霊を見ることができなかった。
←若い時ツィポリで働いていたという外面からしかイエスを判断できなかった。

「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。

期待し、信じる心がないところ、神の力も働かない。

私たち自身も、自分の生育歴、犯してしまった罪や失敗によって、自分の中に住んでくださっている聖霊の力を過小評価してしまっているのではないか?

コリント人への手紙 第一 3章16
「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」

主イエスは、私たちの中に宿るご自身の御霊が、この日本という社会の中で正しく認識されていないことをご存知である。卑しめられている私たちを知ってくださっている。

私たちは、聖霊によって思い切り祈ろう。

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