「ルカの福音書」 連続講解説教

神の訪れの時を知っているか

ルカの福音書講解(92)第19章41節〜48節
岩本遠億牧師
2013年8月25日

19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

19:45 宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、19:46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

19:47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、19:48 どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。

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私は、先週の月曜日、妻と一緒に青森県の三戸にある日本基督教団三戸伝道所を訪ね、小さな礼拝と交わりの時を持ちました。私が教えている神田外語大学で20年前に出会った学生が、三戸の出身だったのですが、大学での聖書研究会に来るようになり、イエス様に出会ってクリスチャンとなりました。18年前に千葉から三戸に帰りましたが、そこにある唯一のキリスト教会が三戸伝道所です。以前は人口が1万5千人ほどの時もあったようですが、今は1万1千人だということです。人口が少なく、且つ、因習も縛りの厳しいところでの伝道は困難を極めます。この18年間で、牧師が3人辞職し、今3回目の無牧状態になっているとのことでした。

その中で、数名の教会員の方々が交替で日曜礼拝のメッセージ(牧師ではないので「奨励」と言っています)を行い、会計や教団に対する報告なども行っているということでした。ほとんどの方々が70代で、この逆風の中で数十年間信仰を守り続けている、まさに筋金入りのクリスチャンで、私自身襟を正される思いでした。

私の教え子の女性は、一人だけ40代で、いろいろなものを背負い込み、精神的にも肉体的にも疲れ果て、今年の6月に三戸から私の自宅に電話をくれました。点滴を受けながら仕事をし、教会の仕事もしている。教会の奉仕についても、奨励を語るということについても、どうしたらよいか分からない、祈ってくれとの依頼の電話でした。私は、電話を切ってから、この夏の間に三戸に行こうと思い、彼女にそのことを伝えました。

すると彼女は、教会員の方々に私のことを紹介して、月曜日に礼拝をすることができるように調整し、私のほうには、教会員の方々と求道者の方々、教会に関わっている方々についてのお名前と簡単なメモを送ってくれました。こういう人たちがいるから祈ってくれということだったのです。

そして、三戸の彼女の家に着いたとき、「先生は、18年前に三戸に来ると手紙をくれましたが、今、それが実現しました」と言って、その手紙を見せてくれました。そして、教会での小さな礼拝と交わりの時を持ちましたが、「イエス様が先生と一緒に三戸伝道所に来てくださった」と言うのです。同じことが、帰ってきてからもらったメールにも書かれていました。

私のようなつまらない者が行って、聖書の言葉を分かち合い、痛んでいる方々のために祈った。それだけです。しかし、それを、イエス様が一緒に来てくださったと言って喜んでくださる。私は、何とお答えしたらよいか分かりませんでした。それほど、神の言葉を求めておられる。イエス様がやって来てくださることを待っておられる。神の訪れの時を待ち侘びておられる。また訪ねよう、また訪ねて聖書の言葉を分かち合おう、共に祈ろうと思いました。

私は、今回、三戸のクリスチャンの方々が私と一緒にイエス様が来てくださると言って、待ち侘びてくださっていたということを聞き、今日、私たちに与えられている聖書の言葉を何度も噛み締めていました。

イエス様は言われました。「それは、おまえが神の訪れの時を知らなかったからだ」と。イエス様は、エルサレムが滅亡させられることを予告なさいましたが、それは紀元70年に実現いたしました。ローマの将軍ティトゥスがエルサレムを徹底的に破壊したのです。そのエルサレム滅亡の理由は何であったか。イエス様は明言しておられます。「それは、おまえが神の訪れの時を知らなかったからだ」と。

イエス様がエルサレムにやって来てくださった。しかし、それを神の訪れとは知らなかったからだと言うのです。エルサレムの民も民の指導者も、パリサイ人もサドカイ人も、ローマの占領軍も総督も、それまでお互いに敵対していた者たちが一致してイエス様を殺したからです。そのためにエルサレムは滅びる。

イエス様は、これからご自分が入って行かれるエルサレムを見て、激しく泣かれました。ここで「泣く」と訳されている言葉は、家族が死んだ時に泣く、激しい悲しみの号泣です。自分の存在が引き裂かれる悲しみです。ペテロがイエス様を否定し、自分の存在の意味を失ってしまった時に泣いた箇所でも同じ言葉が使われています。

イエス様は、これから十字架に架けられるためにエルサレムに入って行こうとしておられる。しかし、ご自分が受ける苦しみを知って泣いておられるのではない。神の訪れの時を知らず、ご自分を殺してしまう者たちが、やがてローマに殺され、滅亡させられてしまう未来をご覧になり、激しく泣いておられるのです。

「神の訪れの時を知る」とは一体どのようなことでありましょうか。それを知る鍵が今日のイエス様の言葉の中にあります。「平和のことを知る」という言葉と「祈りの家」という言葉であります。「平和のことを知る」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「平和をもたらす道」、新共同訳聖書では「平和への道」と訳されています。英語の訳や解説では平和をもたらすもの、何が平和を作るのかといった内容で訳されています。

皆さん、何が平和を造るのでありましょうか。聖書が平和という時、それはヘブライ語ではシャロームという言葉です。平安とも訳されます。それは、単に争いがないという意味の平和ではありません。神様のいのち、神様の祝福、神様の喜びと恵みが満ち満ち、神様と人との関係が溢れる喜びに満ちた状態を言うのです。そのような状態においては、人と人との関係もまた、喜びに満ちた完全な状態となる。まさに神様の愛と義が全てを満たし、全てを支配する状態、これがシャロームなのです。

これを造るものは何か。それはロバの子に乗ってエルサレムにご入城になった神の子イエス・キリストであります。低められた神の子、自分の正しさを主張しない神の子が平和を造るのです。そして、真の礼拝を捧げる民の祈り、低められた神の子の前にひれ伏し祈る民の祈り、これが真の平和、真の平安、シャロームを造るのであります。

イエス様はエルサレムの神殿に入られ、そこで商売をしていた人たちを追い出されたと言います。何も悪徳商法をしていたのではありません。神殿に献金を捧げるためには、地中海世界で使われていたローマの貨幣を古代イスラエルの貨幣に交換しなければなりませんでした。その両替をしていました。また、神殿に捧げる羊を遠いところから連れて来ることもできませんから、その便宜をはかるために羊を売っていたのです。

そのように献金を捧げ、羊の生け贄を捧げる。それは律法に定められた礼拝の方法ではありました。しかし、そのような人の行為が礼拝となっていた。それで礼拝を捧げたことになっていた。それで罪が赦され、神様との和解が成立していたことになっていた。人の心はどこにあったのでしょうか。祈りはどこにあったのでしょうか。

詩篇第51篇に次のような言葉があります。

51:16 たとい私がいけにえをささげても、まことに、あなたはそれを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

人が自分の罪を悔い、真に神様の御前にひれ伏し赦しを乞う。このことなしに、捧げ物をしたら礼拝が完了した、赦しが与えられたということにする。そして、神殿内における商売がそのことについてのお墨付きを与えている。イエス様は、祈りのなくなった礼拝、神様の御前に悔いることも、赦しを乞うこともなくなった礼拝の実態をご存知でした。

そして、言われたのです。エルサレムは滅ぼされる。神の訪れの時がやって来ても、誰も真に神様の御前にひれ伏そうとしない、罪を悔いようとしない、存在をかけた祈りを捧げようとしない。それは、神様を無視しているからです。神様を考え事の中に押し込み、神様ご自身との関係を求めようとしないからです。もし、神様ご自身との関係を真実に求めるなら、そのような形式的礼拝主義が続けられるわけがない。

イエス様は、ご自身が十字架に架けられることによって、この形式的礼拝主義を打ち砕かれたのです。イエス様が十字架によって全く新しい礼拝、神様と人との関係を造られたからです。イエス様の十字架をとおして、私たち全ての人間が神様との完全な関係が与えられる。イエス様の十字架の血によって、私たちの罪が清められるからです。この方の御前にひれ伏すことだけが、私たちの礼拝となったからです。

しかし、それは同時に、エルサレム神殿が破壊され、エルサレム自体が滅ぼされることを意味していました。イエス様が十字架にかけられ新しい礼拝が与えられ、なお、エルサレム神殿における形式的礼拝が続けられることはあり得ませんでした。エルサレムが滅亡しないということはあり得なかったのです。

イエス様は、「エルサレムは滅ぼされる」それは「神の訪れの時を知らなかったからだ」「何が平和を造るか、誰が平和を造るかを知らなかったからだ」「祈りを忘れたからだ」と言われました。しかし、それは断罪し、滅ぼすことが目的ではなかったのです。新しい神様と人との関係が与えられる時、古いものは取り去られるのです。だから、イエス様はエルサレムの住民のために激しく泣かれたのです。そこには罪にしがみ付いて生き、やがて滅んで行く人に対する神様の慟哭があります。

神の訪れの時を知っているか。神様が私たち人間を訪れてくださったときを、あなたは知っているでしょうか。神様ご自身が人となり、イエス様となり、十字架にかかって、全人類の罪の贖いを成し遂げてくださったのです。今、私たちは新しい時、神様の訪れの時の中に生きているのです。

今も、イエス様は聖霊として私たちのところにやって来てくださる。私たちは聖霊に触れられ、聖霊に満たされるとき、イエス様が確かに自分のところにやって来てくださったということを知る。神の訪れの時を知る者となるのです。何故か。イエス様の御霊、聖霊が私たちを新しいものへと造り変えるからです。

ヨハネの福音書第3章「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と(=すなわち)御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風(=聖霊)はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

聖霊によって私たちは新しい者とされ、神の訪れの時を知る者とされる。知る者とされたのであります。私たちはイエス様の十字架の血潮によって清められる時の中に生かされているのです。イエス様の十字架の血潮をとおして父なる神様を見上げることができる。真の祈りを捧げることができるのです。

神の訪れの時を知らず、形式的礼拝主義に固執し、イエス様を殺し、滅んでしまった者たちについては、イエス様ご自身が彼らのために祈られたということを私たちは心に留めましょう。イエス様は、十字架に釘付けにされるとき、ずっと祈っておられました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」と。イエス様の祈りは必ず実現します。肉においては滅ぼされた者たちも、なお、霊においてはイエス様の十字架の赦しの中にある。

ヨハネの黙示録の中で主イエスが語っておられます。「見よ。わたしは全てを新しくする」と。歴史の終わりに、全てが新しくされる時が来ます。その時、イエス様ご自身が全ての者たちにイエス様ご自身の最善をなさるのです。私たちはそのことを信じ、イエス様を見上げましょう。私たちが今、イエス様の御霊、イエス様の十字架の血によって新しい者とされ、神の訪れの時を知る者とされましょう。

第二コリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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