「マタイの福音書」連続講解説教

神は直接の関係を与える

マタイの福音書第5章8節
岩本遠億牧師
2019年6月23日

「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」

誤解:自分の清い生活
    →清くなる
    →神を見ることが許される聖者になる

清い:(ギ)カサロス (へ)タホール
清い動物⇔汚れた動物
清い体⇔生理的な汚れ
祭儀上の清さ⇔祭儀上の汚れ 例:死に触れる
純粋な(純金)
道徳的清さ(旧約聖書ではあまり多くない)
清める方法=湧き水(河川の水)、火、血、雌牛の灰を加えた水

神が定めた方法によらずには清くならない

当時のパリサイ人たち:
神経質なほどに律法上の清さを問題にしていた

キリスト:
体の清さ、祭儀上の清さは問題にしない。
心の清さを問題にした。

マルコの福音書1:40
さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとにきてひざまずいて懇願した。「お心一つで私を清くすることがおできになります。」
イエスは深く憐れみ、手を伸ばして彼にさわり(→イエスの体は汚れる)、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。するとツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

イエスによる律法学者、パリサイ人への糾弾

マタイの福音書
23:25わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦で満ちている。 23:26目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば、外側もきよくなる。
23:27わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れでいっぱいだ。 23:28同じように、おまえたちも、外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。

神の方法によらなければ、清められない。
神が清いと宣言されれば、清い⇔私たちの思い

キリストが私たちの心を清める方法:両者は一つの実体
・キリストの言葉(=神の火)
・キリストの十字架の血

私たちを清めるキリストの言葉
・「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでに清いのです。」 ヨハネの福音書15:2
・「二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。』」ルカの福音書24:32
・「炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった。すると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。」使徒の働き2:3−4

私たちを清めるキリストの十字架の血
・「9:11しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、 9:12また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられました。
 9:13雄やぎや雄牛の血、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それがきよめの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、 9:14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」ヘブル人への手紙9:11-14

・「10:19こういうわけで、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができます。 10:20イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
 10:21また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから。 10:22心に血を振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 」ヘブル人への手紙10:19-22

神を見る=神との直接の関係を与えられる

旧約聖書で多用される表現:「神の顔」「主の顔」
・『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』民数記6:24-26

×清められて、神の顔を見ることができるような境地に達する
◯神様がみ顔を私たち一人ひとりに向けてくださる。私たちも神様のみ顔を仰ぐ

「13:12今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」コリント人への手紙第一13:12

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