「マタイの福音書」連続講解説教

神聖な結婚

マタイによる福音書5章31節-32節
岩本遠億牧師
2006年11月5日

5:31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 5:32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

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マタイによる福音書を少しずつ学んでいます。聖書を読むことを通して私たちに与えられる祝福の第一は、神様が私たち人間を愛しておられ、その独り子のイエス様をこの罪の世に送って、罪の贖いをして下さったということを知ることですが、聖書は、具体的にどのように生きるべきかということも教えてくれます。私たちは聖書の中に具体的な光を見出すことができます。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩篇119:105)という言葉があります。戦国の乱世にクリスチャンとしての生涯を全うした細川ガラシャ夫人は、侍女を介して宣教師から教えを乞うていましたが、屋敷の中で幽閉されていた彼女を抑鬱状態から助け出したのは、生活の中でどのように生きるかという具体的な聖書の教えだったと言われています。

イエス様も山上の説教の中で、具体的にどのように生きるべきかを教えておられます。そのことばを表面的に読むならば、とても厳しくて守ることができないような戒めを与えておられるようにも思えるかもしれませんが、イエス様は、私たちが守れなくて苦しむような戒めを与えておられるのではありません。当時の社会状況を知り、何を念頭にイエス様が語っておられるかを知るならば、そこに「恵みと真に満ち溢れたイエス様の愛」を見ることができるでしょう。

今日の箇所は、「離縁してはならない」とイエス様が語られたところです。

この箇所の意味を理解するために、私たちは当時の女性の立場を知る必要があります。当時の女性は社会的にとても弱く低い立場に置かれていました。女性は独りでは生きていけない社会でした。誰かと結婚していないと生きて行けないのです。また、離縁する権利があったのは男性だけであり、女性は常に受身の立場でした。イエス様が「離縁してはならない」と語られたのは、男性に向かってであって、弱い立場にあった女性に対してではなかったということはまず理解しておいたら良いと思います。

しかも、当時、男性は些細なことで妻を離縁することができました。それは、申命記に次のような規定があったからです。

申命記24:1 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。

「妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは」という部分の解釈が問題となるのですが、当時のファリサイ派の律法学者たちの間でも二つの見解がありました。一つは、妻が性的な不道徳(新改訳聖書ですと「不貞」)を犯した場合のみ離縁できるという見解で、もう一つは、料理が下手であるとか、他の男性と話しをするとか、そのようなことで離縁できるという見解でした。男性は自分の都合のよいように解釈したいですから、多くの人が第二の見解に従い、本当に些細なことで、離縁できると考えていましたし、そのことによって離縁される女性が多かったのです。

彼女たちは、男性と一緒でなければ生きていけませんから、他の人と結婚する。すると、そのことによって自ら望まないのに姦淫の罪を犯させることになるとイエス様は仰るのです。

イエス様のこのことに対する教えははっきりしていて、「不法な結婚でもないのに離縁してはならない」と言われています。「不法な結婚」と訳されているのは、神様の前での契約である結婚が成立しなくなる(つまり契約が破られる)不品行、性的な不道徳、不貞を意味します。イエス様は弱い立場にある妻を離縁してはいけないと仰っているのです。例外として、妻が結婚の契約が破棄されるような罪を犯した時だけだと。イエス様は、弱い立場にあったものを擁護しておられるのです。

イエス様は、自分勝手な、我侭な思いで、弱い立場にある自分の伴侶を見捨ててはならない。あなたが見捨てることによって弱いあなたの伴侶は罪を犯すことになってしまうのだと仰っているのです。

イエス様は、マタイによる福音書19章で、さらに本質的なことを教えておられます。

19:3 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。 19:4 イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」 19:5 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。 19:6 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 19:7 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」 19:8 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。 19:9 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」 19:10 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。 19:11 イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。 19:12 結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

ファリサイ派の律法学者たちがイエス様を陥れようとして、質問を仕掛けてきました。当時、このことについてファリサイ派の中で二つのグループが争っていたからです。イエス様は、ここで結婚の本質をお教えになります。神様は創造の初めから、男と女が結婚して一体となることを定められたのだと。一体というのは体のことだけではありません。霊的な意味においても、その存在の全てが一体となるのだと。しかも、二人を一体としたのは神様なのだ。一体になるために創造されたのだ。人は、好きになったから結婚する。人の紹介や縁を理由に結婚する。また、何か問題があったりすると簡単に離縁してしまう。しかし、結婚は神が結ばれたもの。人はこれを引き離してはならないと。

結婚は二枚の紙を糊で貼り合わせて一つにするようなものです。もう一度それを剥ごうとすると、破れてしまい、存在の奥深いところまで深い傷を負ってしまうのです。イエス様は言われます。あなたの身勝手の故に、あなたの妻、あなたの夫にそのような深い傷を負わせてはならない。あなたの伴侶は、あなた自身なのだと。

この言葉に、イエス様の弟子たちでさえ、「結婚がそんなことなら、結婚しない方がましです」と言いました。彼らも、自分の好きなように一緒になり、好きなように別れることができることを結婚だと思っていたのです。

イエス様は、言われます。結婚とは霊的に一つになることなのだと。だから軽々しく結婚してはならないし、結婚前に体の関係を持ってもいけないのです。

聖書は、結婚を神様と教会との関係になぞらえています。

エペソ5:21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 5:22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 5:23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 5:24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 5:25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 5:26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 5:27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 5:28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。 5:29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 5:30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 5:31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 5:32 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 5:33 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

イエス様がご自分の命を捨てて、その十字架の血によって教会を清めて完全なものとしたように、夫も妻のために命を捨てよと言うのです。自分の全てを捨てて、これを生かせというのです。そして、妻には、教会がイエス様に従い、イエス様に仕えるように、夫に従い仕えなさいと。互いのために自分を捨てて愛し合い、一体となるために創造されたのだ。お互いを尊び合いなさい。神様は、結婚をそのような祝福と喜びに満ちたものとしてお定めになったのだと。

イエス様は、このように結婚を大切なものとせよと教えられましたが、自分から望んだのでもないのに、一方的に伴侶の方が自分から離れていく、あるいは、追い出される者の痛みと悲しみを知っておられます。

1コリント7章に、「7:15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。」とパウロは言っています。自分が望まなかった離婚、未信者の相手が一方的に去っていった離婚については罪を犯したわけではないので、苦しまなくてよいと言っているのです。むしろ今与えられている平和を感謝して生きるようにと教えています。

さらに、神様は、愛する伴侶に裏切られ、去って行かれる者の苦しみをご存知です。旧約聖書にホセア書という預言書があります。

1:1 ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」1:3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。

3:1 主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」 3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。 3:3 わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」

ホセアは、結婚生活の中にある苦しみと悲しみの中に、神様の苦しみと悲しみを知る預言者でした。聖書の言葉だけからは読み取りにくいですが、「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ」とは、次のような意味です。ホセアは、結婚前から不品行を取り沙汰されていたゴメルという女性を愛しており、神様は、ホセアにこの女性と結婚するように言われます。しかし、結婚した後、ゴメルは、ホセアに愛されているにもかかわらず、姦淫の罪を犯し、姦淫によって子供を生むのです。その姦淫の子供を引き取れというのが神様の命令でした。これは、偶像礼拝に走るイスラエルを神様がご自分のものとして引き受け、ご自分の全てを与えているということをイスラエル全体に知らしめるためだというのです。彼女の罪を赦し、喜びを満たすと。そして、ホセアに言われるのです。「お前は、わたしの心のそばにいる者だ。わたしの心を知る者だ。わたしも、お前の苦しみと悲しみを知っているよ」と。

その後、彼の妻は、彼の元から逃げ出し、自分自身を奴隷として売って、バアル・アシェラという偶像神の神殿の神殿娼婦となってしまいます。神様は、ホセアに神殿娼婦となり、奴隷となってしまった妻を買い戻すようにと言われるのです。

ホセアはどんなに辛かったでしょうか。どんなに苦しかったでしょうか。しかし、ホセアは、知るのです。これこそ神様の苦しみ、愛する者に裏切られてもなお愛し続ける神様の愛なのだと。そして、ホセアは、神様が自分の苦しみを知ってくださっていることを知るのです。「慈しみ」と訳される決して変わらぬ愛、否定され、死んだようになっても、なお甦って愛し続ける愛、生き続ける命、ホセアはこの神様の愛を告白してやみませんでした。彼の苦しみを共に担い、悲しみを共にしてくださる神様がおられたからです。

イエス様は言われました。弱い立場にあるあなたの伴侶を離縁してはならないと。この方は、私たちを決して見捨てないからです。私たちが悪く、イエス様を否定するようなことがあっても、イエス様は私たちを離さず、私たちを離縁なさらないのです。こんな私たちのために命を捨ててくださる。全てを捨てて、私たちを弁護し、私たちを贖ってくださるのです。

結婚ということで深く傷ついた方もおられるでしょう。イエス様は、あなたの悲しみをご存知です。あなたを包んで癒してくださるに違いありません。また、自らの失敗によって愛する者と離れ離れになった方もおられるかもしれません。イエス様は、赦しておられるのです。そして、もう一度新たにして、新しく生き始めることができるように導いてくださいます。イエス様との関係において、完全な愛を経験できるようにしてくださるのです。また、結婚生活が守られている方には、さらに神様と教会との関係のように、全き愛を経験することができるように、導いてくださるでしょう。

祈りましょう。

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