「マタイの福音書」連続講解説教

空腹のまま帰らせたくない

マタイの福音書15章29節から39節
岩本遠億牧師
2008年1月13日

15:29 それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に
登って、そこにすわっておられた。 15:30 すると、大ぜいの人の群れが、
足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほかた
くさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置
いたので、イエスは彼らをいやされた。 15:31 それで、群衆は、口のき
けない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足なえた者が歩き、
盲人たちが見えるようになったのを見て、驚いた。そして、彼らはイス
ラエルの神をあがめた。 15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食
べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありませ
ん。途中で動けなくなるといけないから。」 15:33 そこで弟子たちは言
った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほ
どたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」 15:34 すると、
イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言
った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」 15:35 すると、
イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。 15:36 それから、七
つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与
えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。 15:37 人々はみな、食べ
て満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにい
っぱいあった。 15:38 食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であ
った。 15:39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン
地方に行かれた。

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先週、私たちは、イスラエルから見たら外国の地であるツロ、シドンの
地方の女性の信仰の叫びに答え、イエス様がその人の娘を癒されたとい
う箇所を学びました。「イスラエルの救い主、あの人たちの神、あの人
たちの救い主」と呼びかけていたこの女性に対し、表面的に見るならば
意地悪とも思えるような対応をしながらも、イエス様は、彼女から「あ
なたは全世界の救い主です」という信仰の告白を引き出して彼女とその
娘をお救いになったのです。

私たちにとっての信仰の告白とは、「外国の神様。あの人の神様。あの
人たちの救い主」との意識が、「わたしの神様。わたしの救い主」と変
わるところにあるのです。その信仰を見て、イエス様はご自身の業を行
ってくださる。「あなたの信じるように、あなたになるように」と。

今日の箇所は、それに続くところです。マルコの福音書によると、この
出来事のあと、イエス様はずっと北のほう、今のレバノンの海岸沿いま
で足を伸ばされ、そして、ガリラヤ湖の南を迂回して、異邦人の地であ
るデカポリスにある山に登られました。ユダヤ人たちとの接触を意識的
に避け、身を隠しておられたことが分かります。

ところが、ここに大勢の人たちが集まってきました。この人たちは、ど
のような人々だったのでしょう。イエス様がユダヤ人の土地ではないデ
カポリスの山に登ったのについて来た人たちだったこと、また、そこで
イエス様に癒された人々が「イスラエルの神を誉め讃えた」とあります
が、わざわざ「イスラエルの神」と言っているところからも、彼らが外
国人だったことが推察されるのです。

つまり、あのカナン人の女性の信仰告白と娘の癒しをきっかけに、ツロ
とシドンの人々が、イエス様を求めてついてきたのです。ここにイスラ
エルの神を自分の神とする外国人の集団が起こされたのです。

20年以上前ですが、三鷹市にあるアジア・アフリカ語学院というとこ
ろで日本語を教えていたことがあります。そこにはアジアの各国から日
本の大学に入るために日本語を勉強する留学生がいるのですが、その一
人がシリア人の女学生でした。彼女と少し話す機会がありました。彼女
が「私はクリスチャンだ」と言うので、「いつクリスチャンになったの
か」と聞くと、「生まれた時からだ。家の家系は昔からキリスト教だ」
と言います。私は、驚いて「でも、シリアはイスラム教の国なのではな
いですか」と言いますと、彼女は、「イエス様はシリアのほうまで伝道
に来たでしょう。イエス様の伝道でクリスチャンになった人たちがたく
さんいるのです」と答えるのです。ツロ・シドンの地方での伝道によっ
てイエス様を信じた人たちの末裔が今もクリスチャンとして生きている
ことを不思議に思うとともに、イエス様の福音が途切れることなく、受
け継がれているという現実に希望を与えられました。

このガリラヤ湖の東側の山でイエス様がなさったことは何であったか。
それは、イエス様がイスラエルの人々に対して行われた福音宣教と同じ
ものであったのです。イエス様は、彼らに福音の言葉を語られました。
彼らを癒し、そして外国の地から3日間もご自分についてここまでやっ
てきた彼らを憐れみ、七つのパンと僅かな魚で、彼らを養われるのです。

先週の箇所には、「わたしはイスラエルの家の失われた羊以外には遣わ
されていない」とおっしゃり、また「子どもたち(イスラエルの子ら)
のパンを取り上げて小犬(異邦人)に与えるのはよろしくない」と言わ
れた言葉が書かれていました。意地悪に聞こえるでしょう。しかし、イ
エス様は、カナンの女性から「イスラエルの救い主は、全世界の救い主
です」という信仰の告白を引き出されたあと、彼女と同じように告白す
る多くの異邦人たちをお救いになったのです。真の神様を知らず、希望
もなく、滅んで行こうとしていた異邦の人々をイスラエルと同じように
癒し、ご自分に従いつつも食べる物がなくなってしまった彼らを同じよ
うに養われました。

彼らは、病む者たちの手を引き、背負い、あるいは板に乗せて担いだり、
車に乗せてイエス様の後をついてきました。そして山の上までやって来
て、イエス様の足許に、彼らを置くのです。ここで「置いた」と訳して
ある言葉ですが、いろいろに訳すことができる言葉です。その中心的な
意味は、自分の手から離すということのようです。「投げる」とも訳さ
れることがあるし、「委ねる」とも訳せます。彼らは、自分の愛する病
んだ者たち、手や足の不自由な者たち、目の見えない者たちを背負って
遠い道のりをついてきました。そして、イエス様の足許に、彼らを降ろ
すのです。また、長く背負ってきた自分の病をイエス様の足許に降ろし
た。負いきれないと思っていた病という重荷、それを降ろさせてくださ
る方がいる。イエス様は、彼らを癒されたのです。

イエス様は言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
マタイの福音書11章28節。「わたしのところに来なさい」と言って
くださる主がいる。「あなたの重荷を私が背負う。あなたの重荷をわた
しの足許に置きなさい」と言って下さる主がいるのです。

皆さん、お一人お一人、どういう重荷を背負っていらっしゃるでしょう
か。病気という重荷を背負っていらっしゃる方、家族や友人が病んでい
る方、その他様々な重荷を背負って喘ぐ私たちですが、その重荷をイエ
ス様の足許に降ろすことができる。それを担って下さる方がいるのです。

神様は言われました。「わたしは主、あなたを癒す者である」と。

それだけではありません。「15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言わ
れた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにい
て、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくあ
りません。途中で動けなくなるといけないから。」

「3」というのは聖書の中では完全数の一つですが、「3日間」という
と「完全な長さ」を意味します。ヨナが大魚の中に3日間いたというの
も、イエス様が3日間地獄の中にいたというのもそうです。「三日間わ
たしと一緒にいる」というのは、「もうわたしと完全な時、一緒にいて
くれた」という意味として理解することができます。「わたしを自分の
救い主と信じて、完全な長さの時にわたってわたしと一緒にいてくれた」
とイエス様は言っておられる。その彼らが食べる物を持っていない。「彼
らを空腹のまま帰らせたくない。」そして、弟子たちが持っていた7つ
のパンと僅かな魚で彼らを満腹にする奇跡を起こされるのです。

イエス様は、言っていらっしゃらないでしょうか。この礼拝に集うため
に、多くの時間をかけてやってきて下さるお一人お一人。毎週、毎週礼
拝に集ってくださっているお一人お一人。イエス様は、お一人お一人の
ことを心にかけておられるのです。「礼拝に来たのに空腹のまま帰らせ
たくない」と。

私たちは、礼拝の後、御茶とお菓子を頂きますが、それだけのことでは
ありません。心渇き、霊的にも精神的にも空腹でふらふらな状態でここ
にやって来てくださっているお一人お一人について、イエス様は「空腹
のまま帰らせたくない。溢れるように心満たされ、喜びに満たされて帰
れるようにしたい。一週間本当に生きる力を注ぎたい。」そう言ってお
られるのです。そして、彼らを満腹にして帰されたように、命を注ごう
としておられる。

主は、私にもお尋ねになっている。「パンはいくつあるか。」「お前は
何を持っているか」と。私が持っているものは僅かなものです。ここに
来てくださっている方々は少人数であっても、その霊的な飢えと渇きを
満たすことができるほど多くのものを持ってはいません。ただ、主が与
えてくださったものがあります。それは、神の言葉である聖書の言葉で
す。聖書のどの箇所からも決して見捨てない神様の恵みを告白する信仰
を与えてくださった。これが、主が私に与えてくださったものです。「主
よ。あなたは決して私を見捨てたり、見放したりしない方です。」自分
自身を支えるのに精一杯の信仰告白。主は、私に仰っるのです。「それ
をわたしのところに持ってきなさい」と。そして、それを大きくして、
溢れるような恵みとして集まる人に満たしてくださる。それが私の希望
なのです。

私は、祈ります。「主よ、どうぞ、私をパンを配った弟子たちの一人に
してください。集う一人一人が、聖書の言葉を、ただ観念的に受け取る
のではなく、実際的に働くあなたの命を体験して、溢れるように満たさ
れ、喜びに満たされてここから帰ることができるようにしてください」
と。

皆さん、ツロとシドンの地方からイエス様についてやって来た人々と同
じように、私たちも長い道のりをイエス様についてやってきたのではな
いでしょうか。「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのところ
に来なさい」というイエス様の言葉を聞いて、自分では負いきれない重
荷と病を背負いながらイエス様のところに来たのではないでしょうか。
以前は、イスラエルの救い主、あの人の神様、あの人たちの救い主とし
て遠くからイエス様を見ていた私たちが、「あなたこそ、わたしの癒し
主、わたしの救い主です」と告白するようになったのも、ツロとシドン
の人々と同じなのです。

彼らがイエス様の足許にその重荷を降ろしたように、私たちもイエス様
の足許に自分の重荷を降ろすことができるのです。「主よ。癒してくだ
さい」と祈ろうではありませんか。「わたしは、実在の実在者、あなた
を癒す者である」と語ってくださる方がいるのです。

また、渇き空腹になる私たちの心と存在を本当に満たす方がおられます。
私たちのことを心にかけてくださる方がいる。「空腹のまま帰らせたく
ない」と言われ、溢れるように満たして下さる主がいるのです。

祈りましょう。

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