「ルカの福音書」 連続講解説教

答えは与えられる

ルカの福音書講解(62)第11章45節〜54節
岩本遠億牧師
2012年12月16日

11:45 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」 11:46 しかし、イエスは言われた。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。 11:47わざわいだ。あなたがたは、預言者たちの墓を建てている。しかし、あなたがたの先祖が預言者たちを殺したのです。 11:48 そのようにして、あなたがたは、自分の先祖のしたことの証人となり、それを認めています。なぜなら、あなたがたの先祖が預言者たちを殺し、あなたがたがその墓を建てているからです。 11:49 だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。 11:50,51 アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』 11:52 忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。」 11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。 11:54 彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。

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今日はクリスマスを迎える第3回目の礼拝を行っております。イエス様がこの世に来られたことにより、世界の歴史が全く違ったものになった。人間の存在そのものが全く違ったものになった。罪に縛られ呪いの中にあったものが、祝福を受け継ぐ者となった。イエス様が来てくださったということは、人間の歴史が、その前と後ろとでは全く繋がらない大きな転換点を迎えたということを意味します。今年は2012年ですが、皆さんご存知のように、これはイエス様の誕生を紀元とした年号の数え方です。ここにも人類の歴史がイエス様のご降誕を境に、大きく転換したという認識があります。

今日私たちに与えられているルカの福音書の言葉の中に、「この時代は、その責任を問われる」という言葉が2度出て参ります。下の注にあるように、これは「その全ての預言者の血がこの時代の中に/から求められる」というのが原義です。その意味については後ほど考えますが、「この時代」というのは、今申したとおり、まさに歴史が180度転換した時代、イエス様の時代であります。イエス様の時代に求められた預言者の血に対する答えこそ、歴史を二分する大きな出来事であった。そのことに思いを巡らせながら、クリスマスの意味を考えて行きたいと思います。

本日の箇所は、先週の箇所の続きです。イエス様がパリサイ人にランチに招待された時の出来事です。パリサイ人たちが大切にしていた食事前の手洗いの儀式をイエス様が敢えて行われなかった。そして、自分たちが行っていた食事前の手洗いの儀式、また十分の一の捧げものについての神経質とも言える厳密さによってパリサイ人たちが自ら高慢になり、自分の行為が自分の誇りとなる。それが自分の義、自分の正しさとなり、裁きと神様への愛、神の愛という最も重大なことを見過ごし、人々を苦しめている。イエス様は、パリサイ人自身がこのことに気が付き、悔い改め神様のところに戻ってほしい、そのようにお迫りでした。パリサイ人やその律法学者たちはイエス様の言葉とお心を理解せず、イエス様を憎み、無き者としようと考えるようになります。

イエス様は、今日の箇所で律法学者たちの隠れた罪をご指摘になります。イエス様のお言葉によると、律法学者たちは、昔の時代に殺された預言者たちの墓、すなわち、記念碑を建てていたようです。しかし、それは、預言者たちを殺した彼らの祖先と同じ心で行っているのだと言うのです。どういうことでしょうか。

皆さん、イスラエルに行く機会があったとして、そこにイエス様の記念碑を建てたいと思いますか?記念碑というものは、何年から何年まで生きたと彫り込むものです。あるいは、その人が生きた時代を彫り込むものです。イエス様の記念碑を建てるということは、イエス様を過去の人、死んだ人と確定するという行為に他なりません。今、生きているイエス様を体験している人たちは、イエス様の記念碑など建てようとはしない筈です。

預言者たちの記念碑を建てるとは、その死を確定すること、預言者たちの声を過去のものとして葬り去ることだ。預言者を殺したあなたがたの先祖たちと同じように、あなたがたも預言者の言葉、神の言葉を葬り去ろうとしているのだとイエス様は仰る。それが48節の意味です。「11:48 そのようにして、あなたがたは、自分の先祖のしたことの証人となり、それを認めています。なぜなら、あなたがたの先祖が預言者たちを殺し、あなたがたがその墓を建てているからです。」

イエス様は仰っているのです。あなたがたの祖先たちが殺した預言者たちの血は、今も叫んでいるのだと。創世記の最初のほうに、カインによるアベルの殺害が書かれています。神様に真実の捧げものをしたアベルは、偽りの捧げ物をしたカインによって殺されました。アベルの捧げ物を神様は喜び、カインの捧げ物をお喜びにならなかったからです。カインは怒って弟のアベルを殺してしまうのです。神様はカインに言われました。「あなたの弟アベルはどこにいるのか。」「知りません。私は弟の番人でしょうか。」「あなたは、何ということをしたのか。あなたが殺したアベルの血がわたしに向かって叫んでいるではないか」と。

殺された預言者たちの血が叫んでいる。イエス様は、それを聞きながら生きておられました。彼らを死んだ者とし、過去に押し込め、過去に確定することはできなかったのです。預言者の血を過去のものとして、そこに押し込めようとするあなたがたは、まさに預言者を殺すもの、神のことばを殺す者ではないかとイエス様は仰っておられるのです。

ここで「11:50 世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われる」と訳されていますが、「責任が問われる」というのは意訳です。下の注には「預言者の血がこの時代に求められるからだ」という解釈が示されています。岩波書店から出ている新約聖書翻訳委員会訳では、「世の開闢以来流されて来たすべての預言者たちの血は、この世代から要求されるだろう」となっています。また、宮平望という聖書学者は、ここを「この世代から探し出されるだろう」と訳しています。神様の真実に生きたために、また神様の真実を語ったために殺された全ての預言者たちの血が探し出される。つまり、預言者たち一人一人の流された血に対する答えが与えられるということです。

その答えとは何か。ある人たちは、この世代のエルサレムがローマ帝国によって破壊され、イスラエルの民が全世界に散らされることだと解釈しています。つまり、その世代のユダヤ人に罰が与えられることだと。このことは、紀元70年に実現します。征服者のローマに対してユダヤの反乱軍が蜂起しますが、その甲斐無く、エルサレムは将軍ティトゥスによって完全に破壊され、ユダヤの民は散らされました。これをユダヤ人たちに与えられた罰だと考える学者たちがいます。

しかし、イエス様のご真意は本当にそこにあったのでしょうか。アベルから始まる預言者の血の叫びに対する答えは、イスラエルの民が打たれ、苦しめられ、殺されることによって与えられたのでしょうか。そうではありません。アベルから始まる預言者の血の叫びに対する答えは、神ご自身が殺され、血を流すことによってのみ与えられるのです。「私の主である神ご自身が、十字架の死を遂げられた。私の主が、私と同じ苦しみを味わってくださった。私の主が私と共にいてくださる。私の主が甦る時、私も共に甦る。」ここに殺された預言者たちに与えられる答えがあります。そのためにイエス様は、一人一人の預言者たちの血を探し求められました。この時代に聞こえてくる預言者たちの叫びを一つ一つ聞き、それを探し求められたのです。「全ての預言者たちの血が、この時代から探し求められる」という言葉をそのように理解して良いと私は思います。

まさに、この時代に与えられる、預言者の血に対する答えとは、イエス様の十字架の死と復活であったのです。聖徒の死に対する答えは、復讐によって与えられるものではありません。神の御子の死と復活によって、全てが覆い尽くされ、命を与えられ、生かされる。それが御子イエス様によって与えられた永遠の答えです。御子イエス様の十字架の死と復活が、全人類の死を覆い尽くし、命を与えるものとなった。ここに歴史の大転換点があるのです。死よりも強い命が現れたのです。

イエス様がお生れになった少し後で、ベツレヘムに住む満2歳以下の男の子たちが皆殺しにされるという出来事が起こりました。ユダヤ人の王としてお生まれになった方がベツレヘムにいるという知らせを聞き、当時のユダヤの王、ヘロデがベツレヘム近郊の男の子たちを皆殺しにするようにとの命令を出したのです。ところが、イエス様はこの難を逃れます。御使いが養父ヨセフに夢の中に現れ、イエス様を連れてエジプトに逃げるようにと告げたからです。マタイの福音書を開いて、この箇所を読みましょう。

2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。 2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」 2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。 2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」 2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、 2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。

2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。 2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。 2:18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」

神の子イエス様はヘロデ王の剣を逃れ、御使いのお告げを受けなかった子供たちは殺された。私たちはこの出来事をどのように受け止めれば良いのでしょうか。失われた幼い子供たちの命、最愛の我が子をもぎ取られ、殺された母親たちの苦しみ、神様はそれを黙って見ていたのでしょうか。

イエス様は、この出来事をご存知だった筈です。そして、アベルの血から、ゼカリヤの血に至るまでの全ての預言者たちの血と仰った時に、イエス様は、このベツレヘムの幼子たちの血もその中に含まれていると仰っていることは間違いありません。(なお、ユダヤ教の聖書では、歴代誌第二が最後の書となっています。創世記の最初に殺されたアベルと、歴代誌第二で殺されたゼカリヤに言及することによって、殺された全ての預言者を意味することになります。)

「全ての預言者の血がこの時代の中から探し求められる。」誰が探し求めるのでしょうか。イエス様が探し求めるのです。そして見つけるのです。殺された一人一人の上に、ご自分の十字架の血をお注ぎになるのです。一人一人の霊をお癒しになる、一人一人の叫びに答えをお与えになるのです。「あなたは一人ではないぞ。わたしはあなたのために十字架に血を流し、あなたの血の贖いを成し遂げた。あなたはわたしのものだ。あなたはわたしと共に甦るのだ」と。

全ての死を覆い尽くし、それを命で満たす方、どんな死の痛みと苦しみをも癒し、私たちを永遠に握ってくださる方が生まれたのです。これがクリスマスです。クリスマスの命と祝福がお一人お一人の上に留まりますように。

祈りましょう。

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