「マタイの福音書」連続講解説教

結婚式に招かれたら

マタイの福音書22章1節から14節
岩本遠億牧師
2008年6月29日

22:1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。 22:2 「天の御国
は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。 22:3
王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来た
がらなかった。 22:4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしも
べたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、
食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いまし
た。どうぞ宴会にお出かけください。」』 22:5 ところが、彼らは気にもか
けず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、 22:6 そのほかの者たちは、
王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。 22:7 王
は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
22:8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、
招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。 22:9 だから、大通
りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』 22:10 それで、しも
べたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集め
たので、宴会場は客でいっぱいになった。 22:11 ところで、王が客を見よ
うとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに
はいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。 22:13 そこで、王は
しもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣い
て歯ぎしりするのだ。』と言った。 22:14 招待される者は多いが、選ばれ
る者は少ないのです。」

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皆さんの中には、これまでに何度か結婚式に招かれたことがある人がいると
思います。またこれから招かれることが必ずあると思います。そんな時、ど
のような気持ち、どのような服装で結婚式、披露宴に出席するでしょうか。

オーストラリア留学から帰ってきたばかりのとき、大学の同級生だった人か
ら結婚式の招待をもらいました。嬉しかったのですが、困ったなということ
もありました。私は、大学というところで14年間連続で学生をしていて、
特にオーストラリアでは、着る物も気にせず、というか、気にするお金もな
く、着古した物を着ていたのです。帰ってきてすぐで、まだ最初の給料もも
らってなく、何を着ていこうかと悩んだことがあります。

男性は、一度黒い礼服を作れば、余程体型が変わらない限り、それでOKで
すが、女性は、一度作ったり買ったりすれば良いという訳にはいきませんね。
それが楽しみにもなります。私は、家内が結婚式に来ていく衣装を一緒に買
いに行くのをとても楽しみにしています。あれでもない、これでもない、と
何着も着せ替え人形のようになって楽しんでいる姿を見るのは喜びです。そ
れで一番似合うのを決めて、私が支払う。そして、家に帰ってきて、またフ
ァッションショーをする。本当に楽しいです。そこに喜びがあります。

イエス様も同じように思って下さっているのではないでしょうか。一番良く
似合う衣装を私たちに着せようとしてくださっている。詩篇30篇に次のよ
うな言葉があります。

30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは
私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。 30:12 私のたましい
があなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はと
こしえまでも、あなたに感謝します。

私たちには嘆きや悲しみがやってくることがあります。苦しみが覆うことも
ある。しかし、それは、私たちが一番似合う衣装ではないのです。神様は、
私たちに本当に良く似合う衣装を着せようとしておられる。それは、喜びと
いう衣装です。神様の前にある喜び。一人一人にそのような喜びを着せるこ
とが神様の無上のお喜びであるのです。私たちが神様を誉め讃え、黙ってい
ることができない程の喜びを満たしてくださる。

イエス様の福音は、婚宴の宗教と呼ばれることがあります。結婚式の宴会の
喜びがイエス様の福音の特徴であるというのです。聖書の最後の書にヨハネ
の黙示録という預言の書がありますが、その19章には、「小羊の婚宴に招
かれた者は幸いだ」という言葉が出てきます。イエス様が花婿、教会が花嫁
だというのです。罪と問題だらけの教会が赦され、清められ、しみも汚れも
ない清い花嫁としてイエス様と一つになることができる。その喜びが満ち溢
れるのです。そして、私たち一人一人がその婚宴に招かれるのです。言うな
らば、私たち一人一人がイエス様の花嫁であり、また招かれた客であるので
す。

さあ、皆さん、私たちはどんな格好をして、またどんな心で、イエス様の前
に出るでしょうか。前もって招かれていたら、婚宴の衣装を作ったり、買っ
たりする人もいることでしょう。衣装を調えて、美容室に行き、シャワーを
浴びて最高の出で立ちをしていくのではないでしょうか。

聖書は、神様ご自身が、私たち一人一人をイエス様の婚宴に招いてくださっ
ているというのです。しかも、一人一人の名を呼んで招待してくださってい
る。こうやって、毎週礼拝を捧げていますが、イエス様の婚宴に毎週出かけ
るという思いをもって参加できると素晴らしいですね。

特に、洗礼を受ける人が与えられた時、私たちはその信仰告白の言葉を聞き、
洗礼に立ち会うとき、ここにイエス様の血潮によって清められた、しみも汚
れもない、一人の花嫁がイエス様との結婚の誓いをする、その厳粛な誓いの
中に、満ち溢れる喜び、賛美、感謝が湧きあがることを経験します。まさに、
私たち一人一人がイエス様の花嫁となり、またイエス様の婚宴に招かれた客
なのであります。「小羊の婚宴に招かれた者は幸いである」という神様のお
言葉が、私たち一人一人に実現しているのです。

そのようなことを念頭に今日の聖書の箇所を読むと、十字架にかかる前のイ
エス様の御思い、そして悲壮なご決意が伝わってきます。

イエス様は、祭司長や民の長老たちとの対決の中で、王子の婚宴の譬えを語
られます。王とは、神様を指します。王子とはイエス様ご自身のことです。
イエス様がこの地にやって来られて、神の民と一つとなり、神の国をこの地
に造ってくださるのです。それを王子の婚宴という言葉で比喩的に表してい
ます。

王は、前もって僕たちを遣わして、客一人一人に招待の言葉を伝えさせます。
招待された人たちは、その時は、「はい。わかりました」と言ったのでしょ
う。いよいよ、時がやって来て、王子の結婚式の時となりました。王は、前
もって招待していた人たちのところに、僕たちを遣わします。「さあ、王子
様の婚礼の時がやってきたので、お集まりください。」しかし、招待されて
いた人たちは、来たがらないというのです。

王は、もう一度別の僕たちを遣わして言わせます。「さあ、食事の用意がで
きました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会
にお出かけください。」』 22:5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は
畑に、別の者は商売に出て行き、 22:6 そのほかの者たちは、王のしもべた
ちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。 22:7 王は怒って、兵
隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。 22:8 その
とき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待してお
いた人たちは、それにふさわしくなかった。 22:9 だから、大通りに行って、
出会った者をみな宴会に招きなさい。』」

イエス様は、これはイスラエルの歴史であり、また、今イエス様がやってこ
られた時のユダヤ人たちの反応であると言っておられます。神様からの招待
を無視し続けている、あるいは、神様の招待を届ける僕たち、預言者たちを
殺し続けてきたのが神の民イスラエルである。今、イスラエルは退けられ、
神様の祝福の約束とは関係のなかった異邦人が婚宴に招かれる、神の国の祝
福の中に生かされるということです。ここに神様の御思いを踏みにじり続け
る者たちに対する裁き、審判があります。

しかし、この方は不思議な方です。私たちだったら、自分の子供の婚宴に「誰
でも大通りで出会った者をみな宴会に招く」ことはないと思います。それな
りに、選ぶということがあるのではないでしょうか。しかし、この方は、良
い人でも悪い人でも招かせるのです。ルカの福音書の並行記事では、貧しい
ものや体の不自由な人を招けと仰っている。何故か。招いて下さる方の良さ
が、招かれる者たちを豊かにし、癒し、そして清くするからです。

大通りにいる者たち、悪い者たち、貧しい身なりをしている者たち、体が不
自由で人の施しや憐れみを受けなければ生きていくことのできない者たち
を神の子とすることができる方が、招いてくださっているのです。「来い」
と言ってくださっている。

しかし、この王は、招いた者たちに一つだけ、要求しておられる。それは婚
礼の衣装を身に着けるということです。さっきまで道を歩いていた者たち、
ひょっとしたら野良仕事をしていた者たち、道に座って施しを受けていた者
たちに婚礼の衣装を身に着けることを要求するとは無理な注文だと感じる
人もいるでしょう。

神学者たちも、このことについては議論してきました。ある人たちは、次の
ように考えています。王は、婚礼の衣装を招待した人たち全員に与えたので
あり、婚礼の衣装を身に着けていなかった人とは、王である神様の恵みを拒
絶したのであると。罪と汚れを覆い隠してくれる義の衣を着せてくださる神
様がいる。しかし、この衣を着ることなしに、神様の前に出ることはできな
いのです。それは、イエス様を信じるということです。イエス様を信じる者
たちは、その罪の全てを覆い隠していただき、清められた者、正しい者とし
て神様の前に出ることができる。自分で義の衣、婚礼の衣装を用意すること
ができない者を美しく装わせてくださる神様がいるというのです。

先ほども引用しましたが、私は、この箇所について思い巡らしていた時、ず
っと詩篇30篇の言葉が湧き上がっていました。

30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは
私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。 30:12 私のたましい
があなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はと
こしえまでも、あなたに感謝します。

「嘆きという衣を脱がせ、喜びという衣を着せてくださる神様があなただ」
とダビデは告白しました。

滅んで行こうとしていた者たちが救われ、イエス様の花嫁となる。嘆きと悲
しみを脱がせ、花嫁の喜びを着せてくださる方がいる。また、自分の愛する
者、友人がイエス様を信じるようになり、イエス様の花嫁となる、その婚宴
の席に招かれる。信仰告白の言葉を聞くときに湧き上がる喜びがある。自分
を覆っていた悲しみと嘆きが飛び去り、喜びを着せされる。イエス様は、私
たちを満たしてくださるのです。

どうでしょうか、私たちは、イエス様の婚宴に招かれているのです。「小羊
の婚宴に招かれた人は幸いである。」イエス様が仰ってくださるのです。「わ
たしと一緒に楽しみなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と。私たちに最高
の衣装を着せてくださる方がいる。喜びの衣装です。義の衣装です。神の子
の衣装です。イエス様と一緒に喜ぼうではありませんか。楽しもうではあり
ませんか。

イエス様は言われました。「6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野
のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしま
せん。6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモ
ンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。6:30 き
ょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装って
くださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがあり
ましょうか。」

私たちは、神様が与えてくださるイエス様の十字架という最高の着物を着る
ものでありたいですね。「これを着なさい。そうすれば、共に喜ぶことがで
きるのだ。共に祝い、楽しむことができるのだ」と仰る神様は、私たちを招
くだけでなく、神の子として選び、永遠に共にいさせようとして下さってい
るのですから。

祈りましょう。

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