「マタイの福音書」連続講解説教

罪から救ってくださる方

マタイの福音書講解説教(2)1章18節から25節
岩本遠億牧師
2006年6月11日

1:18
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの
妻と 決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊
によって身重に なったことがわかった。

1:19 夫のヨセフは正しい人であっ て、彼女をさらし者にはしたくなか
ったので、内密に去らせようと決めた。 1:20 彼がこのことを思い巡ら
していたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。
恐れない であなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは
聖霊によるのです。

1:21
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、
ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

1:22
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するため
であった。 1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。
その名はインヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおら
れる、という意味である。

1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その
妻を迎え入れ、 1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることが
なく、その子どもの名をイエスとつけた。

+++

前回からマタイの福音書を連続で学んでいます。前回は、イエス様の系

図から、 イエス様という方が歴史の中で計画された神様の御心に従って

やってこられた、 しかも、血統を重んじるユダヤ社会にあって、外国

人の女性の血が混ざった王家に、しかも、罪に染まり、救いようのな

い王家の中にやってこられたということを学びました。

そのことから、聖書が語りかけるのは、この福音は歴史の中に計画さ

れ、実現したもので、世界の全ての人に与えられるということ、そし

て、救いようのない罪の泥沼の中にある一人ひとりに与えられるとい

うことです。

今日は、その続き18節からです。ここには、イエス様の養父となった

ヨセフの目から見たイエス様の誕生が書かれています。母マリヤの側

からみたイエス様の誕生についてはルカの福音書に記録されています。

ここに書かれている状況がどのようなものであったのか、当時のイス

ラエルの結婚の風習などについての説明を加えながら、一緒に考えて

行きたいと思います。

18節に、「イエスの母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが」とあり

ますが、当時婚約とは結婚と同じ法的な効力がありました。婚約した

男女は、まだ結婚式を挙げておらず、男女の関係を持ってはいないけ

れども正式の夫婦とみなされていたのです。婚約者の男性が死んだ場

合には、残された女性は未亡人とされました。

ですから、婚約中のマリヤが妊娠したということは、もしこれが姦淫

の罪の結果なのなら、石打による死刑に処せられなければならないも

のだったのです。

聖書は、イエス様の懐胎を聖霊によるものだと明言しています。アダ

ムの罪を引き継ぐものは、罪からの解放者となることはできません。

牢屋の中にいる者は牢屋の中にいる者を解放できません。アダムの

罪、人類の罪を打ち砕くものは、罪のない者である。

十字架による罪の赦しと復活による悪魔に対する勝利を聖霊によって

掲示された者は、イエス様が神であったことを知りますから、聖霊に

よる懐妊ということも、そのメカニズムは分からなくても、神様の全

能の御手の中にあったことだということを頷いていくのです。

このことに対するヨセフの対応はどうだったでしょうか。

「夫のヨセフは、正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなか

ったので、内密に去らせようと決めた」とあります。さらし者にする

とは、自分の妻を罪ある者として公衆の前に出すこと、すなわちマリ

ヤが死刑に処せられることを良しとすることを意味します。

マリヤはまだ一緒になる前の夫のヨセフに自分の妊娠の経緯について

話していなかったのです。分かってもらえないという思いもあったで

しょう。まかり間違えば石打になってしまう。あるいは離縁される。

マリヤは自分の苦しい思いを内に秘めたまま、神様に全てを委ねてい

たのです。

一方、ヨセフも苦しんだに違いありません。何も言わない愛する妻マ

リヤのお腹が大きくなっていく。ヨセフは、怒りにまかせてマリヤを

裁かないようにしました。と言っても、そのまま彼女を受け入れるこ

ともできません。しかし、彼は彼女を赦すことを決めたのです。彼女

を愛していたからです。

そこで、どうすれば彼女が助かるか熟考し、人に知れないように、離

縁しようとしていました。彼も、自分のやるせない気持ちを神様に委

ねようとしました。そして、彼女を生かそうとしたところに彼の正し

さがありました。

ヨセフもマリヤも、自分の思いを内に秘めたまま、互いに自分の思い

をぶつけようとせず、神様に委ねました。神様は、このような二人に

人として生まれるイエス様をお委ねになったのです。

ところが、ヨセフがこのことについて思い巡らしていたとき、主の使

いが夢に現れて言います。

+++

「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その

胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。

その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救

ってくださる方です。」

この全ての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するため

であった。「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その

名はインマヌエル(訳すと、神は私たちと共におられる、という意味であ

る。)

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を

迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子

どもの名をイエスとつけた。

+++

ヨセフは、夢の中で主の使いの言葉を聞きました。そしてそれに従いま

した。ここに神様の業が進められたのです。夢の言葉に従うなんてと思

う人もいることでしょう。しかし、確かに、神様がこれからなさろう

としておられることを夢で告げられることがあるのです。旧約に登場す

るヤコブがそうでした、またヤコブの息子のヨセフがそうでした。

私もそのような夢を見たことがあります。パプア・ニューギニアへの

道が閉ざされていたとき、夢の中に神の人が現れ、言いました。

「理想を視覚化することが大切だ。そうすれば必ず実現する」と。

私は、起きてすぐにその夢について家内に話をしました。翌日パプア

・ニューギニア大使館に行って、現地のパンフレットを全部もらって

きて、その地で自分が言語調査をしながらイエス様を伝えている姿を

思い浮かべて祈り始めました。すると、閉ざされていた道が不思議

に開かれていったのです。

このような霊的な夢は、非常にインパクトのあるもので、何年たって

も決して忘れないだけでなく、力のあるものです。それに従わない訳

にはいかないような力があります。

マリヤの夫ヨセフは、主の使いの命じたとおりにその妻を迎え入れま

した。そして生まれてきた子に、これも命令のとおりにイエス(救い

)という名をつけるのです。

ヨセフは、全てが分かったから従ったのでしょうか。何かが見えたか

ら従ったのでしょうか。そうではありませんでした。イエス様が伝道

の活動を始めたときには、すでに他界していたと考えられます。

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」とい

う言葉を聞きましたが、それを自分の目で確かめることも、イエス様

の福音の言葉を聞くことも、その奇跡を目にすることもできなかった

のがヨセフでした。

しかし、この言葉が、ヨセフを導き、照らしました。自分の妻の体に

宿っている命は、神の民をその罪から救う方である。罪からの救い、

このことのために、ヨセフは妻マリヤを迎え、幼子にイエス(救い)

という名をつけ、そして、命をかけてこの子を守り育てるのです。

ヘロデ王から子どもが命を狙われたとき、エジプトにつれて逃げ、ヘ

ロデ王の死後、安全なガリラヤを成育のための場所として選び、躾け、

教育し、立派な大人へと育て上げ、そして、その活躍の姿を見ずに、

この世を去っていきました。

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救う方です」という御使いの

言葉の成就のために自分の全存在を捧げたのがヨセフだったのです。

それは、「罪からの救い」ということが、ヨセフ自身の重大事だった

からに違いありません。

「正しい人」と言われたヨセフは、姦淫の罪を疑われたマリヤが罪に

定められ、死刑になることを望まず、何とかマリヤを救うことを考え

た人でした。マリヤを愛していたからです。罪人が救われること、罪

からの救いということに真剣に取り組んだ人だったのです。

しかし、「妻マリヤから生まれる方は、聖霊によって生まれる方であ

り、ご自分の民をその罪から救う方である」という言葉を聞いたとき、

赦されるべきは、妻マリヤではなく、自分自身の罪だということを知

ったのです。自分こそが罪から救われなければならない人間なのだと

いうことを知るのです。

しかし、その時、自分自身の存在の最大の問題に光が照らされる希望

を経験しました。そして、その問題に解決を与える方が自分の手に委

ねられるということを知ったのです。ですから、彼はこのことのため

に、いえ、この方のために自分の全存在を捧げました。

私たちは、「救い」という言葉にどのようなイメージを持っているで

しょうか。私たちの人生には、いろいろな苦しみがあります。人間関

係の苦しみ、経済的な苦しみ、健康上の苦しみ、また自分が自分であ

ることの苦しみを経験することもあります。

しかし、聖書は、その根本に罪があるといいます。罪とは、的を外す

ことを原義とする言葉で、神様との関係が正しくないことを言います。

神様の御思いよりも自分の思いを第一にする。自分の存在が神様に依

存していることを認めようとしないこと。神様の存在を認めたとして

も、自分の思いをとげるために神様を自分の召使のように使いたいと

思うこと。また、神様だけが決めることができる善悪の判断を自分勝

手に自分の都合に合わせて変えようとする。すなわち、高慢が罪の源

です。

高慢は神様の前にへりくだることをしないため、神様との関係が壊れ

るのです。 そして、存在の意味を失い、穢れと悪にそまり、人は絶望

します。人は、永遠の存在である神様との正しい関係の中に永遠の命

を与えられるか、それとも罪に留まり続け、永遠の死の中に落ちてい

くのか、二つに一つだと聖書は言います。

私たちは神様との永遠の絆の中に生きて行きたいですね。神様が永遠

にこの存在を握ってくださる、そのような関係の中にいたいのです。

しかし、そのためには、私たちの罪の問題が解決しなければならない

と聖書は言います。罪の赦し、罪からの救いが必要なのです。

それは、罪なき神の御子イエス様が全人類の罪をその身に負って十字

架に架けられ殺され、地獄にまで落ちることによって成し遂げられる

神の業でした。そのことによって罪の赦しが完成したのです。

また、十字架によって最も卑しめられ、低められたイエス様が地獄の

底にまで落ちることによって、高慢が打ち砕かれました。ここに高慢

の罪に対する勝利があるのです。そのイエス様が三日目に蘇り、死を

打ち破って永遠の王座にお付になりました。この方が、私たちを呼ん

でくださる。この方が私たちを握ってくださることが私たちの救いな

のです。

ヨセフは、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方

です」という言葉を聞いたとき、それが意味することを全て知ること

はできなかったでしょう。十字架と復活の意味をその時知ることはな

かったでしょう。

しかし、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方で

す」という言葉を聞いたとき、その存在を包む神様の愛と臨在を感じ

ました。そして目には見えない神様のご計画に自分自身を委ねたのです。

私たちも同様です。ヨセフのように夢を見ることもあるでしょう。あ

るいは夢は見ないかもしれない。しかし、私たちの存在を包む聖書の

言葉が与えられるのです。

聖書の言葉が私たちの存在を照らすような経験を私たちは与えられる

のです。聖霊の働きによって、私たちの中に聖書の言葉が届くように

なる。

どの言葉かということは、人によって違うでしょう。私の場合は、「

神の子イエスの血は全ての罪から我らをきよめる」という言葉でした。

ほかの人は、「神は愛なり」という言葉が、その存在を包むというこ

とを経験するでしょう。また別の人にはほかの言葉が与えられます。

そこで始まることは外からは見えないことです。しかし、その存在を

照らした言葉は、間違いなく、その人の生涯を通して、その人を導き

続ける言葉となります。その意味の全てが分かるわけではないかもし

れない。しかし、私たちがどれだけのことを知っているかということ

ではなく、その時から、神様が私たちの存在を握ってくださる生涯が

始まるのです。インマヌエル、神が共にいてくださる生涯が始まるの

です。

紆余曲折はあるでしょう。躓くことも、信仰が分からなくなることさ

え、あるかもしれない。しかし、一度握った方は、決して放さない

方、決して見捨てない方です。

どうぞ皆さん、自分の心に最初に届いた聖書の言葉を思い出しましょ

う。そして、その時から神様が自分の存在を握ってくださる生涯が始

まったことを確認したいのです。

まだそういう言葉に出会ったことがないと思われる方もおられるかも

しれません。 その方は、どうぞ、「この方こそ、ご自分の民をその

罪から救ってくださる方です」 という言葉を今日、覚えていただけ

ばと思います。また、私たち一人ひとりが今日この言葉を心の奥底に

留めたいのです。この日から神様があなたを握ってくださる生涯が始

まるのです。

祈りましょう。

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