「マタイの福音書」連続講解説教

義のために迫害される人は幸い

マタイによる福音書講解説教5章10~12節
岩本遠億牧師
2006年10月15日

今日までシリーズで学んできました「山上の説教」も今日で終りになります。五つ目の祝福のメッセージで申しましたが、この「山上の説教」の後半でイエス様が説かれている四つの祝福は、「メシア的人間像」とも言うべき祝福です。そして、この最後の8つ目の祝福で、言わば、メシア的人間像の最も高揚した姿を指し示しておられます。 

義のために迫害されているものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。

皆さん、この言葉を聞いてどう思いますか。信仰を持ったら迫害されるものなのかと考える必要はありません。私自身、信仰の故に迫害されたという記憶がありません。この箇所は、迫害されないような信仰は偽物だとか、生ぬるいと言っているのではないということを確認しておきたいと思います。信仰の故に苦しい思いをすることがあるかもしれませんが、その時に私たちを支えるイエス様の恵みを語っているのであって、迫害を受ける信仰者は尊く、そうでない信仰者はつまらないなと教えているのではありません。信仰を持っていることを理解してもらえなくて残念な思いをしたり、伝道を妨害されたことはありますが、私自身迫害を受けた経験はありません。

そういう訳ですから、今日のこの箇所は、これからの人生でもし信仰を持っているために苦しい思いをしなければならなくなったとき、イエス様がどのように私たちを支えようとしておられるかという、約束の言葉として学びたいと思います。

1.今日のポイントは「義のために迫害される」という言葉です。聖書でいう「義」とは、「関係の正しいこと」を意味しています。「神との関係が正しいゆえに迫害される。そのようなものは祝福されている」という意味です。

「神との関係が正しい」と言うときに、この関係の主体は神です。人間ではありません。私たちの思い込みや決意や熱心ではありません。そのようなものは簡単に崩れ去ってしまいます。イエス様の愛、イエス様の真実、イエス様ご自身が私たちのうちに信仰を与え、保って下さるのです。これを「神の義」と呼びます。ですから、何か正しいことをして人に苛められるとか、正しい行為の故に迫害されるということではありません。

「神の義」が私たちを覆うとき、私たちは他の人とは違った価値観、考え方、感じ方をするようになります。私たち罪の人間とは質的に違った神が心の中に住み始めるからです。そのために周囲との間で摩擦が起きたり、反感を抱かれたり、場合によっては迫害されるということが起きうる訳です。

聖霊は私たちに罪を啓示します。そして、イエス様の十字架にしか、私たちを義とする力、私たちを救う力がないことを示されるのです。しかし、人は、自分自身を善悪の基準とするという罪を犯していますから、罪を認めたがらないし、自分の罪を贖うイエス様の十字架が必要だということを認めたがりません。だから、イエス様を信じる者たちは、罪を認めない人々に理解されず、迫害される場合があるのです。

イエス様自身も捕らえられる前に次のように言っておられます。

ヨハネ15:18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。 15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。 15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。 15:21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。

しかし、イエス様は私たちのために次のように祈ってくださっています。

17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。 17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。 17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。 17:14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。 17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。 17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。 17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。 17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

ですから「義のために迫害される人々は幸いである。天の国は彼らのものである」という言葉の意味を「迫害があっても正しいことを行い続けるならば、天国に行ける」とか「信仰を持ったら、迫害があっても決して負けずに信仰を守り続けなくてはならない。そうすれば天国が手にはいる」と理解してはなりません。むしろ、「神との正しい関係のなかに生かされているとき、周囲の人々と生き方に違いが出てきても、苦しくても、大丈夫だよ。祝福だよ。神の支配を本当に経験するから」という意味です。天国、神の国は決して私たちの頑張りや決意、行いや熱心によって手にはいるものではありません。自分の頑張りだけで迫害に耐えても天の門は開かないのです。私たちが神との正しい関係に生かされることも、迫害の中で私たちの信仰を保つのも、祝福を与えるのも、私たちを神の支配の中に入れることも、すべて神がなさるというところに重要な意味があります。人間に求められているのは、頑張りではなく、神が人間にして下さることに委ねるということだけです。しかし、その時大きな祝福が与えられるといいますから私たちは幸いです。

イエス様は、約束してくださっています。

ヨハネ14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

ヨハネ14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

ヨハネ16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

2.次にお話ししたいのは、神は、ご自分がどのようなお心で人間を愛しておられるかということを少数のものに示されることがあるということです。

旧約の時代にホセアという預言者がいました。彼の妻は、夫に深く愛されているにもかかわらず、姦淫の罪を犯し続け、他の男との間に数人の子供をもうけました。しかし、神はホセアに、姦淫の子らを引き取り、姦淫の妻を愛しなさい、この妻をもう一度めとりなさいと命じました。これは、神に愛されていながら、カナンの神々(セックス宗教)に走り、神に背くイスラエルを神が変わらぬ愛で愛し続け、決して見放さないことをホセアに教えるためでした。

ホセアは自分の家庭にある苦しみの中に、神がイスラエルを愛し続けておられるということがどのようなことであるかを知りました。自分を愛さないものを愛し続ける心、自分を裏切ってばかりいるものを、なおも探し求める神のお心を教えられ、hesed「慈しみ」と訳される変わらぬ愛がどのようなものであるかを知るものとなりました。これは、神の痛みを経験することによって、神を深く知るということです。

迫害によって神の痛みを経験し、神の愛をさらに深く知るということもあります。イエス様の苦難を経験的に知ることによって、それほど苦しんでまでも人間を救い贖おうとする、神の人間に対する愛の偉大さをもっと知るように導かれるのです。ここに神の心を分かち与えられるものの祝福があると聖書は説いています。

このような経験はすべてのクリスチャンに与えられるわけではありませんし、また、求めなくても良いものです。しかし、もし、これからの人生で神がこのような経験を私たちに与えられるようなことがあるとき、私たちは、神がご自分の心を知らせて下さろうとするほど、私たちを近いものとして取り扱って下さっていることを知りましょう。イエス様は、次のようにおっしゃいました。

5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイ5:11-12)

迫害なんかないほうがいいですが、もしあったときには、神が私たちをそのようなもの、神の心を知らされる預言者のようなものとして扱っていて下さるのですから、喜び躍りましょう。

3.イエス様を通して神との親しい交わり、神との深い人格的関係を与えられるとき、私たちには大きな喜びが与えられます。この喜びは、自分で作った喜びでも、思い込みでもありません。確かに神が自分の中に生きていて下さるから嬉しいのです。仮にイエス様を信じることのゆえに辛いことが起こったとしてもこの喜びを私たちから取り去ることができるものはありません。イエス様が私たちを握っていて下さるからです。そして、ご自分のお心を私たちにも分け与えようとして下さることがあるならば、さらに大きな祝福の世界が開かれることでしょう。すべては、イエス様が私たちを愛し、祝福の中に行なって下さることですから、私たちは安心して、今日もイエス様との交わりを喜びたいと思います。

祈りましょう。

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