「ルカの福音書」 連続講解説教

聖霊の火を再び

ルカの福音書第24章13節〜35節
岩本遠億牧師
2018年4月1日

聖霊の火を再び
2018年復活礼拝
岩本 遠億

ルカの福音書
24:13ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 24:14そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 24:15話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 24:16しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

24:17イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 24:18クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」

24:19イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 24:20それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 24:21しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 24:22また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 24:23イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 24:24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

24:25するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 24:26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」 24:27それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 24:28彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。

24:29それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。 24:30彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 24:31それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

24:32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 24:33すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、 24:34「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。 24:35彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

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私は、いつも八千代市にある「カフェふくろう」という自家焙煎のコーヒー屋さんでコーヒーを飲んだり、コーヒー豆を買ったりしています。一昨日、そのカフェでコーヒーを飲んでいる時、マスターの黒澤さんからとても良い話を聞きました。この八千代市の京成線沿線には高度成長期に東北から集団就職した人たちが大勢住んでいて、この近くにもたくさんおられる。今その人たちは70〜80歳ぐらいだが、若い時、故郷が懐かしくなると上野駅に行った。そして、生まれ故郷から上野に着いた列車の屋根にのっている雪を見ることが生きる力になった。その列車がのっている線路を行くと必ず故郷に帰ることができることを確認すると、今週も頑張ろうと思えたと。

自分の故郷からやって来た雪を見る。そして、故郷に帰る道を確認することが今いる場で生きる力となる。それは、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストが共に歩いてくださる信仰の道を歩むことと相通じるところがあると思いました。

私たちは、創造主である神様の姿に似せて造られた尊い存在です。私たちの国籍は天にあります。神様が満ち満ちておられる天こそが私たちの故郷です。私たちは、今この地に生きていますが、確かに天からやって来た実体を見、その実体に触れることによって、自分たちがこの地ではなく、天に属する者であることを確認することができる。そして、それがこの地を生きる力となる。また、「我は道なり」と言われたイエス・キリストが私たちと共に歩いてくださる。天への道を共に歩いてくださり、私たちが倒れた時には背負ってくださるのです。ここに私たちの希望と力があります。

今日は、イエス・キリストが復活なさった日曜日の朝です。私たちは復活なさった主イエスに出会いたいと願い、今朝この場に集っています。しかし、私たちが願う以上に主イエスが私たちに出会いたいと願っていらっしゃることを心に覚えたいと思います。

主イエスは、十字架にかけられる前夜、弟子たちに言われました。

マルコの福音書
14:27イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。 14:28しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

ガリラヤとは主イエスと弟子たちの故郷、弟子たちのアイデンティティが形造られた所です。主イエスは、その場所、弟子たちの故郷でもう一度彼らと出会う、彼らを待っていると言われたのです。君たちは、わたしと出会うために、君たちの知らない場所に行かなければならないとおっしゃったのではありません。復活したわたしと出会うために、君たちは自分自身を変えなければならないとおっしゃったのではありません。自分では自分を変えようのない者たち、そのアイデンティティが形作られた、まさにその場所に復活の主はやって来て、待っておられる。なぜ、待っておられるのか?弟子たちと、再会したいからです。会いたいから待つのです。恋人と待ち合わせをする時に、待ち合わせの時間よりも早く行くのと同じです。会いたくて仕方がないから、早く行くのです。キリストは、ご自分を見捨てた弟子たちよりも、先にガリラヤに行かれました。彼らを待っておられたのです。このお方が、私たちを待ってくださっている。私たちと会いたくて仕方がないと思っておられるのであります。

今日、開いた聖書の箇所は、エマオという村に向かう二人の弟子たちに復活の主イエスが出会い、共に歩かれたということが記されたところです。この人たちは、どのような人たちであったのでしょう?何歳ぐらいだったのでしょうか?

エマオというのはエルサレムから11kmほど西に行ったところにある村です。この二人の弟子たちは、恐らく夫婦であっただろうとも言われます。妻の名は書かれていませんが、夫の名はクレオパと言います。彼らは何をしに、エマオに行っていたのか?彼らは、イエスがエルサレムに上った時に、弟子たちの集団の一員としてエルサレムに上ったか、あるいは、イエス一行を迎える者としてエルサレムにいたのでしょう。そして、イエスの処刑を目撃し、失望してエルサレムを去っていたのです。つまり、エマオには何かをするために向かっていたのではなく、エマオは彼らが帰って行く場所であったのです。

しかし、彼らは何故、この日、エマオに帰って行っていたのか。イエスが十字架の上で息を引き取られたのは、安息日が始まる少し前でした。安息日が終わるのは土曜日の日没。安息日は900メートル以上は歩いてはならず、夜は普通歩きませんから、日曜日になってからエマオに帰ることになったわけです。しかし、日曜日の朝、彼らは、イエスが甦ったという知らせを聞きました。聞いたのに、彼らはエルサレムを離れました。イエス様復活の知らせは、彼らの行動を変えることはなかった。それほど、十字架の処刑は彼らにとって絶対的なものだったのです。決して覆すことができない絶対的な死の支配、暗闇の支配、ローマ帝国の支配の前に、何の希望を持つこともできなかったのです。

主イエスご自身が予告なさったとおりです。「『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。」と。

エマオは、エルサレムの西にあります。3時間ほどの距離ですから、午後になってから歩き始めたのでしょう。すでに過越の祭は終わっていますから、エルサレムから大勢の人たちが自分の家に向かっていました。エマオ方面に向かう人たちも大勢いたに違いありません。決して二人だけではなかったと思います。彼らは、巡礼から帰路につく人たちと一緒に歿しゆく太陽を見ながら、自分たちの光が取り去られたこと、希望は失望に終わったことを嘆きつつ、自分のところに帰りつつあったのです。

24:13ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 24:14そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 24:15話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 24:16しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

周りに大勢の人が一緒にいたから、誰かが近づいて来てもわからなかったのです。もちろん、復活なさったイエス様のお姿は、違っていたのだと思います

24:17イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 24:18クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」

過越の祭から帰路につく、全ての人たちがイエスの十字架刑のことを話していたのです。だからクレオパはこのように答えました。

24:19イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、

イエスは「わたしだ。甦ったのだ」とはおっしゃいませんでした。何故でしょうか?周囲に大勢の人がいたからです。主は、ご自身の復活を弟子たちだけに分かるように、その他の人たちには敢えて隠されたのです。弟子だけが分かる復活の啓示。ここに神様の方法があります。また、今、私たちが復活の主に出会える秘密があるのです。

ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 24:20それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 24:21しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 24:22また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 24:23イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 24:24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

彼らは、イエスこそイスラエルを救う方だと信じて、望みをかけていました。そして、イエスの復活の知らせを受けたのです。彼らは、それを信じたとも信じなかったとも言っていません。恐らく、仲間の女たちが御使いから、イエスが甦ったと聞いたということを驚きをもって聞いたことは確かなのです。彼らはイエスの甦りの知らせを受けた。しかし、イエスの甦りが彼らの実存と結びつかなかった。彼らの命の本質と結びつかなかった。イエスの甦りのニュースを聞くだけでは、「ああ。そうなんだ」で終わってしまうということです。

だから、イエス様は、直接彼らに話しかけ、彼らの心を開いて行かれるのです。45節にこう言われています。「24:45そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて。」

心が開かなければ、イエスの復活が弟子たち自身の出来事にならない。自分自身の出来事にならなければ、自分もイエスと同じように甦るという復活の信仰は与えられないのです。イエスの復活は、事実としての出来事であるだけでは、人も歴史も変えることはできませんでした。心が開かれることによって、一人一人の中にこの甦られた方との揺るぎない関係が与えられる。復活が一人一人の出来事となっていくのです。

24:25するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 24:26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」 24:27それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

「24:26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」と言われている。つまり、これは、彼らがすでに聞いていたことだったのです。頭では分かっていたはずのことだったのです。しかし、心が閉じていては、本当に「アーメン!」と語ることができない。心が分からなければ本当に分かったことにはならないのです。だから、イエス様は彼らの心を開かれたのです。そして、心が開かれた時、彼らの心は火のように燃え上がりました。

24:28彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。 24:29それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。 24:30彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 24:31それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

エマオについた時、イエスはさらに先に進んで行かれる様子だった。一人だけ先に行こうとなさったのではなく、一緒に歩いていたその他大勢の人たちに紛れて、行こうとなさったのです。イエスは何も不自然なことをしようとしてられたのではありません。

自宅に着いたクレオパと妻は、イエス様と一緒に食卓に着いた。すると、イエス様がパンを取り、祝福してそれを裂き、彼らに渡されました。その時、復活のイエスの姿が彼らの目にはっきりと見えた。

するとイエスは、彼らには見えなくなった。 24:32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 24:33すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、 24:34「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。 24:35彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

彼らは、もう真っ暗になっていたのに、暗闇の中をエルサレムに引き返しました。内に燃える炎が燃え上がったからです。暗闇を歩く光が内に燃え上がったからです。

復活のイエスは、心を開いてくださる。心に燃える炎を与えてくださる。その燃える火の中で復活の主イエスに出会うのです。主イエスは言われました。「わたしは、火をこの地に投げ込むために来た。その火がすでに燃えていたならとどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けるべき試練のバプテスマがある」と。十字架にかからなければ投げ込むことができない火があるとおっしゃったのです。そして、十字架の死から甦り、弟子たちの冷え切った心の中に聖霊の火を投げ込んで行かれた。灯して行かれたのが主イエスだったのです。

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