「ヨハネの福音書」 連続講解説教

聖霊の風

ヨハネによる福音書3:1-15
岩本遠億牧師
2007年5月27日

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

今日は、キリスト教の暦の中では、クリスマス、復活祭と並ぶ三大祭りの一つであるペンテコステの日です。ペンテコステとは、イエス様が天にお帰りになってから10日間エルサレムで祈り続けていた弟子たちに聖霊が下った日です。ペンテコステは、キリスト教会の始まりの日と言われますが、イエス様を十字架にかけたユダヤ人たちを恐れ、隠れて祈っていた弟子たち一人一人が、イエス様の御霊を受け、新しくされて立ち上がり、イエス様の十字架と復活を力強く証しし始めた日です。この日、ペテロの説教を聞いて3千人の人たちが改心し、バプテスマを受けたと記録されていますから、人間の常識では考えられないような出来事が起こったのです。

捕らえられたイエス様を知らないと否定して暗闇に逃げて行き、絶望していたペテロです。復活したイエス様は40日間にわたって弟子たちに現れ、ご自分が生きておられることを様々なことを通して証明されました。しかし、それでもペテロたちはイエス様の復活を証することはできなかった。彼らには力がなく、イエス様を告白する聖霊が注がれていなかったからです。

しかし、今、ペテロの説教を聞いて3千人が改心するような出来事が起こった。聖霊とは人間を根本から造りかえる力があるのです。ペテロが改心させたのではありません。聖霊が彼らを新たにしたのです。最初の弟子たちだけでなく、3千人に聖霊が注がれ、彼らを全く新しくした。それがペンテコステの日の出来事でした。

私たちは、このように礼拝に集っていますが、何故集っているのでしょうか。人に誘われたということもあるでしょう。あるいは日曜日は教会に行くものだからということで来ている方もおられるかもしれません。しかし、もし私たちが自分の現状に100%満足し、神様なんかいなくても私は大丈夫と思っているなら、どんなに人に誘われても来ることはなかったでしょう。また、毎週来ておられる方々も、自分の力で作り出すことができないものを求めてきているのではないでしょうか。

ローマ時代の教父アウグスチヌスは言いました。「主よ、あなたは私たちをあなたに向けて創造なさいました。だから、私たちはあなたの御許に憩うまで、魂に安らぎを得ることはできないのです」と。私たちが礼拝に集うのは、私たちが神様に向けて創造されており、そこに魂の安らぎがあるからだ、それを求めているからだと言うのです。

しかし、私たちはどうやって神様のところに戻ったらよいのか、どうしたら神様の懐に憩うことができるのか。それを得しめるのが聖霊であると聖書は言うのです。自分の知恵で神様を見出すことも、自分の力で自分を新たにすることもできない者を新たにし、神様の中に存在の場所を与えるもの、これが聖霊です。

私たちも、今心縛られるような状況から解放され、新しくなりたい。自分を汚れや心の呻きから新たにするイエス様の命を頂きたいと思います。しかし、それはどのようなことなのでしょうか。今日、わたしたちは、イエス様ご自身がお語りになった「聖霊による新生」についての箇所を開きたいと思います。

1.ニコデモ

ニコデモについては、このテキストから知られることは、ファリサイ派の律法学者であったこと、ユダヤの最高議会の議員であったこと、ユダヤ人の精神的な教師であったことがわかります。旧約聖書に精通し、政治的な力も社会的な力も持ち、ユダヤ人の中で師と仰がれる人がまだ若い駆け出しのイエス様のところにやってきました。

夜やってきたとありますが、ユダヤ人たちの目を恐れたからとも、他の人たちに邪魔されたくなかったからとも、あるいは、夜が宗教的真理を尋ねるに適当な時であったという説などいろいろな解釈があります。また、夜とは、学問的にも社会的にも宗教的にも指導者となったニコデモの心が夜の暗闇の中にあったということを象徴的に表しているとも言われます。ニコデモは、自分の努力や頑張り、あるいは家柄から受け継いだ全てのものをもってしても照らすことのできない心の暗闇の中に生きていたと言うのです。

この人が、イエス様のところにやってきて言います。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

この少し前、イエス様はエルサレムで奇跡を行っておられ、それを見て多くの人がイエス様の名を信じたとあります。ただその場合、表面的に受け入れた、イスラエルをローマ帝国から解放する者としてイエス様を信じたということで、イエス様を神の御子、自分の救い主として信じたということではありませんでした。そして、イエス様もそのことはよく知っておられました。

ニコデモは「わたしどもは」と言ってイエス様に近づきました。ある意味で、エルサレムでイエス様を受け入れた人々の代表としてイエス様に対する支持を表明しようとしたわけです。「私ども」と「イエス様」という関係を前面に出しました。しかし、イエス様に対して「神のもとから来られた教師」と言っています。教えてもらいたいことがあったのです。

2.新しく生まれなければ

イエス様は、ニコデモの心の奥底の声に耳を傾け、ニコデモの個人的な救い主としてのご自分を明らかにしようとされます。そこで、ニコデモには衝撃的な一言をお掛けになりました。

3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

「はっきり言っておく」というのは、「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」というのが元もとの言葉ですが、それは、「わたしは、真実をかけてあなたに言います」という意味です。そしてイエス様は「新たに生まれなければ」と仰いました。「新たに」というのは「上から」という意味でもありますが、イエス様は聖霊による新生ということを意味しておられます。それに対して、ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えます。かみ合わない頓珍漢な答えのようにも思えます。

しかし、ニコデモは旧約聖書に精通したパリサイ派の律法学者でした。間の抜けた答えをするわけがありません。これは頓珍漢な答えなのではなく、ニコデモの魂の叫びなのです。

注解書などによりますと、当時、「新たに生まれる」という言葉は、異邦人がユダヤ教に改宗した時にも使われていたもので、良く使われていたもののようです。しかし、パリサイ人である自分に向かって、「ユダヤ教に改宗しなければ神の国を見ることはできない」という意味でイエス様がこれを仰ったとは、ニコデモは考えなかった筈です。恐らく、旧約聖書に記されている「新生」ということを考えたのだろうと思います。

旧約聖書を読みますと、「新生」ということがはっきりと書いてある箇所があります。第一サムエル10章にはサウルのイスラエル初代国王任職の記録が残されています。ベニヤミン族のサウルが預言者サムエルに出会って王任職の油を注がれますが、その後、預言者の一群に出会い、神の御霊が激しく注がれ、新しい人になるという経験をします。ニコデモは、旧約聖書に精通した人でしたから、イエス様が「新たに生まれる」とか「上から生まれる」と言われたとき、サウルの故事を思い出しただろうと思います。また旧約聖書には聖霊が激しく下ることによって別人のようになったサムソンやダビデの記事があります。さらにエゼキエル書にも「新しい心、新しい霊を与える」という言葉があります。

ですから、ニコデモは霊的な新生ということを知識として知らないわけではなかったのです。ただ、旧約聖書に出てくる御霊による新生とは、ごく限られた者に、しかも特別な働きをする者だけに与えられていたものでした。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」という言葉は、ニコデモの神学的無知を表しているのではなく、ニコデモの挫折感や絶望感を表しているのです。ニコデモの言葉を平たく言い換えると次のようになるのではないかと思います。「もし、サウルやダビデが経験したような新生ということを経験しなければ神の国に入ることができないのなら、私には無理です。旧約の時代、ごく限られた選ばれた人にしか与えられなかった特別の経験、どのようにして私がそれに達することができるというのでしょう。ある意味、私も長年、そういうことが自分におこるならと、求めながら生きてきたのです。しかし、駄目でした。自分の長年の努力や知識では新しい命に達することはできなかった。もしもう一度母の胎に戻って人生をやり直すことができるなら、そういうチャンスも与えられるかもしれません。しかし、そのようなことはもはや望むべくもありません。」

3.聖霊の風

それに対してイエス様は何とお答えになったか。

3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

この言葉は、非常に愛と慰めに富んだ言葉です。イエス様はまた言われました。「わたしの真実にかけてあなたに語ります」と。「水」は、「死」を意味しますが、罪に支配された古い肉が死ぬことと聖霊によって新たに生まれることが神の国に入るために必要なのだ。聖霊によって霊的存在として生まれ変わるのだと言われます。「確かにあなたが言うように、古い肉のまま、罪の原理に生きている肉のままでは永遠の命を頂くことはできないし、神の国に入ることはできない。しかし新たに、上から生まれるということによって神の国に入ることができる。聖霊によってあなたもそれを経験するようになる。『新たに生まれなければならない』という言葉に驚いてはいけない。失望してはいけない。大丈夫です。あなたも新たに生まれ変わることができる。なぜなら、風(霊)は思いのままに吹くからだ」と言われます。

風という言葉はギリシャ語ではプニューマ、霊という言葉と同じです。ヘブル語でもルアッハですが、風という意味と霊という意味があります。イエス様は、私たちがいつも経験している風という自然現象になぞらえて、聖霊の働きを教えて下さっています。

風がどこから吹いてきてどこへ行くのか誰も知らない。しかし私たちは風の音を聞く。同じように、聖霊がどこからやってきて、どこへ行くのか、誰も知らない。しかし、私たちは聖霊の声を聞くと言うのです。聖霊の声とは、イエス様こそ唯一の救い主であることを教える声、罪を認めさせる声、罪が赦されていることを教える声であり、どんな時にも見捨てない慰め主の声です。この声がどこから来て、どこへ行くのは誰も知らない。しかし、確かに聖霊が吹いて来るときに、イエス様のことが分かるようになる、その声を聞くからです。

聖霊がどのようにあなた方の心を変えるのか、あなたがたの実存を転換するのか、そのメカニズムは隠されている。しかし確かに聖霊はあなた方のところにやってきて、あなた方を新しいものとする。あなたは、それを経験するのだ。なぜなら、御霊は思いのままに吹くからだ。人がもう駄目だと思うところにも、御霊は吹く。どんなに頑張っても駄目だったと思うところにも御霊は吹いて、あなたを新しくする。罪と絶望のどん底にいる私たちのところにも聖霊の風は吹いてきて私たちを新しくする。私たちは諦めと失望の中に生きなくても良いのです。御霊が思いのままに、私たちのところまで吹いてくださるからです。イエス様はこのように仰っておられます。

ところが、ニコデモは、これまでの挫折感や失敗の記憶があまりにも強かったのでしょう。「どうしてそのようなことがありえましょうか」と言っています。これは、神学的な反論ではなく、イエス様の励ましの言葉を信じたくても信じることが出来ない、苦しみの表明です。「そんなこと、自分に起こる筈がない。私が新生の喜びを経験するなんて、ありえない。私には信じることができません。」ニコデモの呻きです。

4.十字架の啓示

それを聞いてイエス様は嘆かれます。「イスラエルの教師が聖霊の働き、聖霊の恵みを理解し、信じることができないとは。」そしてイエス様は言葉を継いで、新生とはどのようなことなのかを解き明かしていかれるのです。それは、旧約の時代にごく限られた人しか経験できなかったようなものではないということでした。

「3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

モーセが荒れ野で蛇を上げたというのは、民数記に記録されている出来事です。モーセに率いられて出エジプトしたイスラエル人が荒野での宿営生活に我慢ができなくなり、水や神様が与えたマナについて不平を上げ、「私たちをエジプトから導きだしたのは、荒野で野垂れ死にさせるつもりだったのか。マナにも飽き飽きした」と言ったとき、神様は怒り、毒蛇をイスラエルの人々の間に送られた。蛇はイスラエル人の多くに噛み付き、多くが死にました。イスラエル人は、悔い改めて蛇を取り除いて下さるよう主に祈ってくれとモーセに頼みますが、モーセが祈った時に、神様は次のように言われました。

21:8 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 21:9 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。民数記21:8-9

人の方法によってではなく、神様の方法によって救いが齎されることを述べておられます。青銅の蛇の像を作って、それを旗竿の先に掲げよ。それを見る者は生きる。そして、仰ぎ見た者は生きたのです。

イエス様は言われます。同じように私も十字架の上にかけられる。それを仰ぎ見る者は生きる。永遠の命を得る。新しい存在と変えられるのだ。私は、あなたのために十字架に掛けられて死ぬ。しかし、あなたはそれを仰ぎ見る時、生きるのだ。新しく生まれるのだとイエス様は仰ったのです。まさに、ニコデモのために命をかけ、ご自身の真実をかけておられるイエス様の気迫が迫ってくるようです。聖霊が吹いてくる時、この十字架の意味が分かる。その時は必ず来る。聖霊は自由に吹くからだ。わたしがあなたに聖霊を送るとイエス様は仰っているのです。

聖霊が自由に私たちのところまで吹いてきて、イエス様の本質を啓示してくださり、イエス様と私たちの関係を確立して下さる。そこに新しい創造があり、新生の喜びがあるのです。

5.ニコデモの新生

ニコデモは学問を収めた人です。努力をして生きてきた人です。それによって民の指導者と仰がれるまでになりました。しかし、自分の努力と頑張りではどうしても抜け出ることができなかった暗闇の中に生きていました。ある意味、神の御霊によって満たされること、新しい存在とされること、神の国の祝福と命の喜びに入れられることを人一倍求めていたのがニコデモであったのです。イエス様は、ニコデモのこの魂の叫びに耳を傾けられました。一見かみ合わないかのように見える会話の中に、ニコデモの心を満たそう、ニコデモの存在を新たなものにするために、ご自分の存在の全てを与えようとしておられるイエス様のお姿を見ることができます。

ニコデモは、イエス様の真実をかけたお言葉とそのご人格にふれ、イエス様の弟子となります。十字架の奥義はこの時には分からなかったでしょう。しかし、イエス様の言葉を信じ、いつか新しく造られる日がやって来ることを、希望をもって待つようになりました。イエス様に対する敵意と憎しみが渦巻く議員たちの議論の中でも、イエス様を弁護する者となりました(ヨハネ7:51)。そして、十字架に架けられたイエス様を仰ぎ見、イエス様の遺体をアリマタヤのヨセフと共に丁重に葬ります。イエス様の傷ついた体を洗い清め、傷を手当てしてイエス様の体に薬と塗って布を巻いていきます。イエス様の十字架に一番近いところにいたのが、このニコデモだったのです。

あの夜のイエス様の真実をかけた会話、「あなたを新しく生まれさせるために私は十字架に上げられなければならない」と言われたイエス様の言葉が自分のために実現したのです。ニコデモはどんな思いでイエス様の体を洗い、薬を塗り、体を布で巻いていったでしょうか。自分の実存の根底を造り変えないではおかないと言われたイエス様の真実、その絶大な愛に全存在が震えたことでしょう。ニコデモは、イエス様の葬りの備えをし、イエス様を墓に収めたとき、自分自身もイエス様と一緒に死んで葬られたのだということを心に深く刻み付けたことでしょう。イエス様は、「水と霊によって」と言われましたが、水が表す「死」をニコデモもイエス様と一緒に経験することになったのです。

イエス様は三日目に甦り、弟子たちに現れた後、天に昇っていかれました。そして、聖霊を風のように人々に送られたのです。ペンテコステの日、ニコデモも一緒に祈っていた人たちの中にいたはずです。そして、聖霊の風が火のようにニコデモにも注がれたのです。聖霊が啓示したイエス様は、ニコデモが知っていたイエス様よりさらに栄光に満ちておられ、聖霊が啓示したイエス様の十字架は、ニコデモが目で見た十字架よりもさらに深く彼の実存を転換せしめ、新たな存在として生まれ変えないではおかない命に満ちていたのです。ニコデモは、聖霊、イエス様の御霊によって全く新たな存在として造り変えられることを自分の経験として知ることになったのでした。

6.結論

ニコデモがイエス様から聖霊による新生の話しを聞いて、本当の意味で新生を経験するまでには、イエス様の十字架と聖霊の降臨という出来事を経ることになるのですが、イエス様の真実をかけたお約束は、確実なものとしてニコデモの上に実現しました。「そんなことは、ありえない」というニコデモの叫びは、仮にそういうことがあるとしても、自分にそんなことが起こるなんて考えられないという叫びだったのです。それは、ニコデモの失望の経験によるものだったかもしれません。

私たちも、そのように思うことはないでしょうか。他の人は、新しく生まれ変わり、喜びと希望に満たされて行くかもしれない。しかし、私にはそういう日は来ない。度重なる挫折の記憶、取り返しの付かない失敗や罪。絶望の中に投げ込まれた人にとって新しく生まれ変わることができるという言葉は空言のように聞こえるでしょう。

しかし、イエス様は仰います。「聖霊は思いのままに吹く。」聖霊は、私たちのところに吹いてきて、私たちにイエス様の十字架と復活を啓示して下さる。聖霊が啓示して下さる十字架には、これを仰ぎ見る私たちの存在を根底から新たにし、造り変える絶大な神の力があるのです。イエス様は、このように仰っておられます。聖霊があなた方のところにやって来て、これを仰ぎ見ることができるように助けて下さる。あなたがたの人間的な状態がどのようなものであっても、聖霊は自由にあなたがたのところに吹いてくる。たといあなたが絶望と穢れのどん底にいるとしても、たとい自分では抜け出せない悲しみと暗闇の中にいるとしても、聖霊の風はあなた方のところにやって来る。誰のところにも風が吹いてくるように、あなたのところに必ず聖霊は吹いてきて、十字架を仰がせ、あなたを新たな者にするのだ。

イエス様は、神様から受けた無限の御霊を私たちに送ってくださいます。

祈りましょう。

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