「マタイの福音書」連続講解説教

腹わたが引きちぎれる愛

マタイの福音書第9章35~38節
岩本遠億牧師
2020年4月19日

「こよなき主イエスの愛」 作詞 チャールズ・ウェスレー
             訳詞 岩本遠億 

1.こよなき主イエスの愛!仇をも愛し給う
  主を十字架の死に 追いやりし我に
  罪清むるくすしき血潮 限りなく注ぎ給う
  主イエスにあらわる 驚くべき愛よ

2.御父の許をはなれ 溢るる愛に生きぬ
  僕となり十字架に 身を捧ぐるまで 
  計り知れぬそのみ恵み 価なく満たし給う
  死にたる我をも、主は見出し給えり

3.ああ、主イエスの眼差しよ 罪のこの身 照らし給う
  暗闇に光満つ 我が霊(たま)、目覚めぬ
  罪の鎖、砕かれたり この喜び、このいのち!
  主と共に甦り、主と共に永久に生く

4.審きの日も恐れじ イエスのすべて我にあり
  主イエスの義をまとい いざ王座に着かん
  永久の冠り戴かせ給う 主イエスの功限りなし
  讃えよ、主イエスを、永久の主、永久の王を!



「腹わたが捩れる愛」

マタイの福音書 9章35~38節                 岩本遠億

“それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」”マタイの福音書 9章35~38節


今日、私たちに与えられている聖書の次の言葉をどのようにお聞きになったでしょうか。「収穫は多いが働き人が少ない。収穫の主(=神様)にご自分の収穫のために働き人を送ってくださるように祈りなさい。」


ここで「収穫」とは苦しんでいる人たちという意味です。苦しんでいる人たちは多いのに、それを助け、癒す人が少ないと言っているのです。今、コロナウイルスによって世界が黒雲に覆われたような状態の中で、この言葉を通して神様が何を私たちに語りかけておられるのか、耳を傾けたいと思います。

「収穫は多いが働き人が少ない」というのは、今も昔も変わることのない人間の現状だと聖書は言います。全ての人が存在の危機に瀕しているのだと。存在の危機とは何か。私たちは、命の源である神様から離れ、真に神様を愛することができず、真に隣人を愛することができなくなっているのです。これこそが人間にとっての最大の危機です。今のコロナの状況の中で、感染して亡くなった方、重篤な状態の中にある方だけが存在の危機に陥っているのでなく、この危機の状況にあって、人間の自己中心と愛のなさが明らかにされているのです。

しかし、聖書は言います。「キリストは、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである」と。

亡くなった方も、重篤な状態の中にある方も、自己中心で愛のなさをさらけ出しているような私たちをも深く憐れんでくださっているキリストがいると聖書は言うのです。このお方が、存在の危機に陥った私たちのところにやって来てくださった。今も憐れんでくださっていると。

ここで、「憐れむ」と言う言葉について考えてみたいと思います。日本人は「憐れむ」と言う言葉に否定的な意味合いを感じ取ります。特に憐れまれるのは嫌いです。上から目線で見られ、ただでさえ苦しい状況にあるのに、見下されることによってやりきれない気持ちになってしまうからです。しかし、「憐れむ」と訳されているギリシャ語の言葉は、それとは違った意味を持っているようです。

「憐れむ」と言うギリシャ語の言葉は、「腹わた、内臓」を語源とする言葉です。内臓は、感情や心を表す言葉として、日本語でも使われます。「腹が座っている」「腹を割って話す」「痛くもない腹を探られる」「腹立たしい」「腹黒い」など、「腹」が心の内側を表す言葉として用いられています。英語でもHe has gutsと言えば、根性があるとか、腹が据わっていると言う意味ですが、gutsとは腸のことです。

内臓は感情の影響を受けやすく、またそれを意識しやすいから、洋の東西を問わず、このような表現が生まれたのだと思いますが、ここで「憐れむ」と訳されている言葉は、苦しんでいる人を見て、腹わたが捩れるようになると言うことです。自分の子どもが虐められたり、命に関わるような大怪我をしたり、病気になると、親は食事も喉に通らなかったり、お腹がストップしたりします。お腹が捩れるような苦しみを味わうのです。それがこの言葉です。

キリストは、苦しんでいる人々をみて、腹がよじれたと言うのです。上から目線で憐れんだのではない。まさに、苦しむ子供を見て親が苦しむように、腹が捩れる苦しみを味わった。これがキリストなのです。今もキリストは、私たちのこの状況を見て、腹が捩れる思いをし、腹が引きちぎれる痛みを感じておられる。あなたの苦しみを自分の苦しみとして感じているというのです。

さらに聖書は言います。「群衆を見て」と。日本語訳の聖書(新改訳)では注意深く読んでも意味の違いを読み取ることが難しい表現がありますが、その一つが「群衆」と「民衆」です。

日本語では「群衆」と「民衆」は音も似ていますし、意味の違いはあまり感じられません。しかし、ギリシャ語ではこれらは別の言葉で、聖書の中では次のように使い分けられています。

ラオス 「民衆」「民」と訳される。神の民イスラエル、キリストの民を指す。オクロス 「群衆」と訳される。雑多な人の群れ。

ここで「イエスは、群衆を見て」と訳されている言葉は、オクロスです。神の民ラオスではなく、雑多な人の群を意味するオクロスが用いられています。キリストの腹わたが捩れる愛は、神の民ラオスだけではなく、オクロス群衆に向かったと聖書は言っているのです。

今も、存在の危機に陥っている私たち、その中にはすでにキリストに出会った人たちもいるでしょう。まだキリストに出会っていない人たちもいるでしょう。キリストに従っている人も、そうでない人もいるでしょう。しかし、キリストは、その全ての人たちを、腹わたが捩れるように愛しておられると言うのです。そして、全ての人を招いておられると。全ての人を一つにしたいと。

エペソ人への手紙に次のように言われています。エペソ人への手紙 2章11~19節
「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」エペソ人への手紙 2章11~19節

神の民でなかった私たちを、腹わたが捩れるようにして愛してくださり、存在の危機から救うためにご自身が十字架にかかって血を注いでくださった。その血によって私たちは神の民とされたと言うのです。

初めから神の民だった人はいないのです。全員が「この世にあって望みもなく、神もないものたち」オクロスだったのです。愛のない者だったのです。自己中心で自分に都合が悪くなると、それまで持っていたと思っていた愛が吹っ飛んでしまうような者が私たちだったのではないでしょうか。私は、自分がそのような人間であることを認めないわけには行きません。あなたはどうでしょうか。

しかし、キリストは十字架の血によってそのような私たちの罪を覆い尽くしてくださった。十字架に血を流した方が、全ての人を、あなたを、そしてあの人たちを招いておられるのです。

そして、弟子たちにお命じになったように私たちにも命じておられます。「働き手を送ってくださいと祈れ」と。祈りは、神様に対する信頼に立つものです。自分の願いを神に向かって言うことではありません。神様の痛みを知る。そのお心に触れ、深い信頼のもと、神様の思いを祈ることなのです。「働き手を送ってください」との祈りは、私たちだけでなく、私たちがまだ会ったことがない人たちに対しても、腹わたを捩らせて痛み、救いたいと願っている神様がいるということを知ることから始まるのです。このお方のお心を知りなさい。その痛みをあなたの痛みとしなさいと仰っているのです。そして、そのお方に「助け手を送ってください」と祈りなさいと。

キリストは、神様の腹わたの捩れる愛を知り、そして深く深く祈られました。キリストご自身が「この群衆のために助け手を送ってください」と祈り続けておられたのです。そして、聖霊を受け、その働きのために立って行かれました。

キリストは、ご自身の祈りが私たち一人一人の祈りとなるように願っていらっしゃいます。「私と一緒にあなたも祈れ」と仰っているのです。神様の御心を共に祈れと。キリストは、「御心が天で行われるように地でも行われますように」と祈れとお教えになりましたが、それは、神様の御心を祈れということです。「神は誰も滅びることなく、全ての人が救われることを望んでおられる」からです。(第二ペテロ3:9)

神様の御心を知ろうとすること、知ることがまず第一に来ることが祈りの基盤なのです。その御心とは、神様が、羊飼いのいない羊のように弱り果て、倒れてしまっている全ての人たち、世界の人たちを、腹わたが捩れる思いで愛しておられるということです。キリストは、「神の国とその義をまず第一に求めよ」と言われました。それは、苦しむ者たちを見て、腹わたが捩れ、腹わたが引きちぎれる様な痛みを感じておられる神様の痛みを知れということです。

私たち一人ひとりにとっては、まず自分の周囲にいる人の中で羊飼いのいない羊のように弱り果て、倒れてしまっている人がいるなら、私たちも腹わたが捩れ、腹わたが引き秘技れる様な痛みを感じる者となりますように。神様がその人のことを思い、腹わたが捩れるほど、苦しい思いをしておられることを知ることができますように。私たちも腹わたが捩れる愛の祈りをすることができますように。私たちも「助け手を送ってください」と祈っていくことができますように。私たちの祈りによって世界を救おうとしておられる神がいるのです。イエス様は、そこに私たちを招き入れようとしておられるのです。

祈り 
私たちの天のお父様、医療に関わり、この困難な状況、苦しみの状況の中で自分を顧みずに戦っている一人一人を助けてください。彼らのところに助け手を送ってください。ワクチン、治療薬の開発、治験を行なっている研究者たちを助けてください。彼らに知恵を与えてください。そして、この国を治めるリーダーたちがあなたを愛を知ることができますように。政治的な綱引きから救ってください。苦しんでいる一人一人の痛み、苦しみ、悲しみを知り、あなたの腹わたが捩れ、引き裂かれるような痛みを自分の痛みとして国を治め、適切な政策を打ち出していくことができるよう、彼らを導いてください。

私たちも、「祈れ」と言われたあなたのお心、神様の苦しい思いを知るものとなります様に、あなたのお心を自分の心とし、祈り続けることができますように。私たちに祈りを与え続けてください。主よ。私たちの祈りによってこの地を救ってください。イエス・キリストの御名によって。アーメン

関連記事