「ヨハネの福音書」 連続講解説教

自分の世界から永遠の命の中へ

ヨハネの福音書20章1節から10節
岩本遠億牧師
2011年4月24日

20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。

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今日、主の復活をお祝いできることを心から感謝します。パウロは、主の復活がなければ、私たちの信仰は虚しいと告白しました。

多くの日本人は漠然と霊魂の不滅というのを信じています。死んだら仏様になると漠然と思っている。死んだらお星様になると言って、死を美化しようとする。死の恐怖から目をそらそうとする。

しかし、聖書は一般的な意味における霊魂の不滅ということを教えていません。イエス様はユダヤ人たちに言われました。「あなたがたは罪の中に死ぬ」と。死は滅びである。死んで仏になることはない。星になることはない。死んでも霊魂は生き残って天国や極楽に行くということはない。人は罪のゆえに滅びる。死んだら終わりなのであって、その後はない。それが罪の結果なのだと。

罪のゆえに死んだら終わりになってしまう人間を救う唯一の力、それが主イエスの復活であります。死そのものを打ち破る力がなければ、どんなに霊魂の不滅を信じても、それは虚しい。死を打ち破られたイエス様がいるから、イエス様が復活して、今も生きているから、私たちも復活し、永遠にイエス様と共に生きることができるのであります。

イエス様は復活なさいました。私たちを永遠に死の力と恐怖から救い取る、現実的ないのちがこの方の中にある。何と喜ばしいことでしょうか。イエス様を信じる私たちは何と幸いなことでしょうか。

新約聖書の4つの福音書は、どれもイエス様の復活について語ります。復活こそが私たちの信仰の基盤であり、ここにこそ全ての命と希望があるのです。私たちはヨハネの福音書を学び続けてきました。復活の記事が書かれている20章を今日学べることを嬉しく思います。

イエス様が十字架にかかって死に、墓に葬られてから三日目の日曜日の朝早く、まだ暗いうちにマグダラと呼ばれるマリヤがイエス様の墓にやって来たと言います。他の福音書では他の女性たちと一緒だったとあります。イエス様の遺体に香油を塗るためでした。宗教改革者カルバンは、福音書間の相違を矛盾と捉えるのではなく、ヨハネの福音書ではマリヤが女性たちの代表として描かれていると捉えるべきだと述べています。私もそれで良いのだと思います。

マリヤがイエス様の墓にやって来た時、墓から石が取りのけてあるのを見ました。彼女は、その時直感的に考えました。イエス様の墓が暴かれた。イエス様の敵対者たちが、イエス様の遺体が立派な新しい墓に葬られたことに憤り、イエス様の遺体に対しても憎しみを表し、それを傷つけ、冒涜し、遺棄するために、墓を暴いたとマリヤは思ったのでしょう。

彼女は、すぐにペテロとヨハネのところに走って行きました。不安で仕方がなかったのです。愛する者の遺体や遺骨があるべきところにあるということは、残された者たちに一定の安心を与えます。遺骨がなくなるということが起こると、遺族は強い不安に駆られます。遺骨を盗む者たちの憎しみと攻撃は自分にも向けられているとも感じるでしょう。

マリヤは走ってペテロとヨハネの福音書の記者とされるもう一人の弟子(ヨハネ)のところに行きました。彼らは別々のところにいたことがギリシャ語から推察されます。10節に「自分のところ」と書いてあるのが複数形だからです。

イエス様は、16章32節で「16:32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。」と仰いましたが、まさに、仲間であったペテロとヨハネは、別々のところで隠れていた。散り散りになっていたのです。

マリヤの言葉を聞いて、ペテロともう一人の弟子は合流して、一緒に墓まで走りました。何故走ったのか。復活したイエス様に一秒でも早く会うためではありません。墓が暴かれたことに不安を感じたからです。また、それはイエス様に対する愛が残っていたらからです。

もう一人の弟子が先に着き中を覗き込みましたが、中には入らず、ペテロが来るのを待ちました。ペテロは、遅れて到着し、墓の中に入ってイエス様の体を巻いていた亜麻布が置いてあり、頭に巻かれていた布が巻かれたまま、そこにあるのを見ました。もう一人の弟子も中に入って、それを見ました。

そこで聖書は何と言っているか。「このもう一人の弟子が信じた」と言っている。何を信じたのでしょうか。これは、昔から議論のあるところです。この直後の9節に「彼らはイエスが死人の中から甦らなければならないという聖書をまだ理解していなかった」とあります。もし、この弟子が信じたことがイエス様の復活なのなら、すぐ後ろの文章との間に矛盾が生じることになる。それで、アウグスチヌスなどは、「イエスの体が取り去られたというマリヤの言葉を信じた」のだと解釈しました。

それに対し、宗教改革者カルバンは、次の点から、この解釈が不可能であることを指摘しています。まず、ヨハネの福音書が「信じた」という時、それはイエス様が神様から遣わされた方であることを信じるという意味でしか使われていないということです。しかし、同時に、「信じた」人々がその直後にイエス様を殺そうとしたということも8章に記されています。完全に、十全に信じた状態にない場合でも、「信じた」という言葉が使われている。ここでも、イエス様の体や頭を巻いていた布がそこに置いてある、しかも巻かれたまま置いてあるのをみて、彼はイエス様が布に巻かれたままの状態から抜け出たということ、つまり復活なさったということを信じたのです。しかし、それは十全な信仰ではなった、それは、聖書を理解していなかったからだと言うのです。

旧約聖書の詩篇16篇に次のような言葉があります。「まことにあなたは、私のたましいを黄泉に捨て置かず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。」とあります。

旧約聖書にイエス様の復活を預言した箇所を理解していなかったから、復活を信じても、それが不十分な状態に留まった。だから、そのまま自分の家に帰って行ったのです。

ここで「自分の家」と訳されている言葉は、「自分のもの」という意味です。必ずしも「家」に限りません。「自分の考え」「自分の生き方」「自分の感じ方」「自分の世界」などとも解釈することができます。

聖書の言葉を理解していない時、自分の考え、自分の感じ方、自分の生き方にそれぞれが戻ってしまう。イエス様が復活したということを信じても、自分の世界に戻ってしまった。ペテロやヨハネでもそうだったというのです。

この後、イエス様はペテロやヨハネに直接復活したご自身を現わされますが、21章を見ると、それでも彼らはガリラヤの自分の生活に戻って行ったと書いてあります。イエス様が復活なさったと言う事実だけでは、自分の世界、絶望と恐れという自分の世界、自分の思いに戻ってしまった彼らの信仰を完全にすることはできなかったのです。

イエス様の十字架を前にイエス様を否定した、イエス様を裏切ったという事実は、彼らにとってどうすることもできない心の鎖であったからです。イエス様の十字架は、それほどの絶望を彼らに与えたのでした。

イエス様は復活なさったのだろう。あれだけの力を持った方だ。生前仰っていたように三日目に甦ったとしても不思議はない。イエス様は甦ったに違いない。しかし、俺には関係ない。俺は俺の道を行くしかない。

皆さんの中にもそのような方がいらっしゃるかもしれません。イエス様は神の子、殺されても甦るということはあったのだろう。イエス様は生きているのだろう。復活したのだろう。しかし、自分とは関係ないと。

私も、大学生の時同じような思いの中に生きていました。

イエス様の復活を事実として受け入れるということと、復活なさったイエス様との個人的な関係に生きるということとの間には大きな溝がある。それを埋めるのが聖書のことばなのだということをヨハネの福音書は伝えているのです。

聖書を理解することによって、復活したイエス様との個人的な関係を与えられ、復活したイエス様が自分の殻、自分の世界に閉じこもっている私たちをもう一度集めてくださるということを経験するようになって行くのです。

復活なさったイエス様は、自分の殻に閉じこもっていた弟子たちの心を開くために、ご自分から近づき、聖書を解き明かされたということがルカの福音書に記されています。

24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。

イエス様復活のニュースを聞いても、自分の村エマオに帰って行こうとしていたクレオパとその妻。もう関係ないと思ったのです。自分の村に戻って、イエス様に従って歩んだ日々をなかったことにして、もう一度昔の生活に戻ろうとしていた。

そこにイエス様が現れ、二人に聖書を解き明かして行かれる。聖書の中でご自身について書かれているところを説明して行かれる。その時、彼らの心を燃え上がったのです。イエス様が語ってくださる時に心が燃えて仕方がなかった。その炎がもう一度彼らの中で燃え上がった。

エマオの自宅に着いた時、イエス様に泊まってくれと頼んだ。食事の時、イエス様がパンを祝福して裂いて、彼らに与えられた時、彼らの目が開いて復活のイエス様が自分と共にいてくださることが分かった。イエス様が聖書の言葉を語ってくださる時に、心が燃えて仕方がなかった。そこに復活のイエス様がいてくださったことを知ったのです。

すると、彼らはもう夜遅くなっていたのに、エルサレムに戻るのです。自分の家、自分の殻、自分の世界から、イエス様の世界に戻ることができた。イエス様がもう一度集められたからです。

聖書は本当に不思議な書物です。元気の出る聖書の言葉を書き始めて10年近くになりましたが、何故続けることができたのか。なぜ今も続けているのか。三日坊主で意志薄弱な私が、これを続けていることは、本当に奇跡なのです。それは、聖書の言葉を開くたびに、抑えることのできない深い感動が炎のように内側から燃え上がるからです。そして、燃え上がる感動の中に主にお出会いすることができる。主は生きている。主は復活なさったということを、確信をもって告白することができるのです。

その感動を言葉にして書き綴り皆さんにお送りしている。読んでくださるお一人お一人が、聖書のことばの中から語りかける復活したイエス様の声を聞いているのです。そして、復活の主に生かされている。

信仰を失いかけていた人たち、罪に倒れた人たち、自分の世界の中で閉じこもっていた人たちが、もう一度集められるようになった。復活の主イエス様が働いているからです。

皆さんの中にも、イエス様は復活したのだろうけれども自分とは関係ない、自分の世界とは遠いところで起こったことだと感じていらっしゃる方がいるかもしれません。しかし、イエス様のほうから近づいてくださるのです。聖書の言葉を聞く時に、そこにイエス様が語ってくださる。いつか心が燃えて仕方がないと感じる時が来るでしょう。心の中に湧きあがる感動を抑えることができなくなる時が来るでしょう。あなたも復活の主に出会うことができるのです。

主が、あなたをその閉じたあなたという世界からイエス様の永遠の命の世界、光の世界に引き寄せてくださる。散り散りになった者たちを集めてくださるのです。

祈りましょう。

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