「マタイの福音書」連続講解説教

自分の真の尊さを知るとき

マタイの福音書第10章16節〜23節
岩本遠億牧師
2020年5月3日

「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。」マタイの福音書 10章16~23節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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イエス・キリストは、私たち一人ひとりに、自分が何故存在しているのか、何のために存在しているのか、そして、自分自身とは一体誰か、死んだらどうなるのか、という人間の根本問題に解決を与える方です。しかし、オウム真理教以降、日本社会の中には「宗教は危ない」「宗教は怖い」という風潮が蔓延し、大学の学生たちは宗教という言葉そのものに拒絶反応を示したりします。


オウム真理教は、多くの若者をマインドコントロールで縛り、彼らを殺人者へと引き摺り込み、猛毒のサリンによって多くの人の命を奪い、また、生涯消えることのない重い障害と苦しみを多くの人々に与えました。しかし、その悪魔的働きは、それに止まりません。新興宗教だけでなく、キリスト教や仏教のような高等宗教も含め、全ての宗教に対する恐怖感を人々の心の中に植え付け、それが若者たちからキリストとの出会いの機会を奪ったというところにまさに悪魔的働きをしたのです。


今日の聖書の箇所を聞いて、どのようにお感じなったでしょうか。この箇所だけを切り取って読んだら、キリスト教は怖い宗教かもしれない。キリスト教を信じたら、迫害されるのか、また、キリスト教は家族や社会を分断するものなのか。そのようなものには近づかない方が良い。そのように感じる人もいるだろうと思います。しかし、聖書全体を読み、その思想と歴史を理解した上で、この箇所を読むと、イエス・キリストの言葉の意味が分かってきます。


まず、分断された家族を一つにすることを神様が願っていらしゃる、そのためにキリストは来たという聖書の箇所を確認します。旧約聖書の最後に収められているマラキ書の最後に次のような言葉があります。


「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」マラキ書 4章5~6節


人間社会は滅ぼされなければならないほど悪に満ちていているが、それは、父と子によって表される基本的な人間関係が壊れていることが問題の元凶であると言っています。父と子が断絶している。それが社会悪の根源にあると。ですから、父と子の関係を回復する、愛の関係を家庭の中にもたらすことによって、社会悪をこの地から取り除き、滅びから救う のが神様の意志だというのです。そのために預言者エリヤ(バプテスマのヨハネとして実現)を遣わすと。そして、この預言者エリヤの働きを完成するのがイエス・キリストなのであります。

また、キリストは、自分の父母の生活を支えるよりも、神への献金を優先することを教えていたパリサイ派律法学者たちを厳しく非難しておられます。


「モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。」マルコの福音書 7章10~12節


ですから、キリストは、家族の中での対立や親子、兄弟の中での分断を引き起こしたいと思っているわけでも、それを意図しているわけでもない、むしろ、その回復を願っていらっしゃるということは、聖書を読むと明らかです。そのことは、先ず知っておかなければなりません。


このようにキリストは、現実として存在している親子の心の分断や社会の分断を癒すことを願っていらっしゃるのですが、しかし、なぜ、そもそも親と子の心に分断が起きるのでしょうか。社会が分裂してしまうのでしょうか。互いを本当に尊び、愛し、信頼することができないのでしょうか。


それは、自分が何故存在しているのか、何のために存在しているのか、そして、自分自身とは一体誰か、ということが分からないからです。自分自身の中に、自分の存在についての深い安心がないところで、どうして、人を真に愛することができるでしょうか。愛という名で自分の思いを押し付けたり、自分の気持ちが受け入れられ、満足することが愛であるというような、自己中心的な気持ちの充足を愛と勘違いしているのが、人間の現実なのではないでしょうか。


私たちは、自分中心、自己愛という罪に陥りました。しかし、自分中心に生きるときに、私たちは自分を見失うのです。自分の真の尊さを見失います。すぐそばにいる人の真の尊さを知ることもできないのです。聖書はそれを罪と言います。それこそが、人間の存在の危機です。


しかし、私たちをご自分の姿に似せて創造した神様のところに帰るときに、私たちは自分の真の尊さを知る。自分が何者なのか、自分が何のために存在しているのかが分かるようになる。そのとき、私たちは、自己愛の延長で家族や隣人を愛するのではなく、神の愛で愛するものに変えられていくのです。

イエス・キリストは、罪を犯し、存在の危機に陥った人を救うためにやって来られました。私たちを創造なさった神が人としてやって来られたのです。私たちをご自分のところに立ち帰らせ、私たちが自分の本当の尊さを知り、自分の隣人の本当の尊さを知るようになるためです。

この方が、自ら十字架にかかって血を流し、存在の危機に陥った私たちにその尊い血を注いでくださった。その血を受けるときに、私たちは罪が清められ、自分の本当の尊さを知るのです。自分が何のために存在しているのかが分かる。神の愛に生きるために存在していることが分かるようになる。このことによってキリストは、世界を神の国にしようとしておられるのです。


このキリストが全人類の王です。この方は、十字架に架けられ、殺されたけれども、三日目に甦って、今も生き、今も世界を導く全人類の王なのです。


この方に出会った時、このことが本当に分かる。そして、この方との関係が他の誰との関係にも増して第一となる。ですから、私たちは、誰にも相談せずに、この方についていく道を歩み始めるのです。誰かに説得されて、あるいは支配されて言うことを聞くようになるのではない。一人一人が「私についてこい」と言うこの方の呼びかけを聞くようになる。このお方の呼びかけに、私たち全身全霊で答え、この方についていく人生を歩み始めるのです。


ですから、私たちは、この方についていくと言うことに関しては、親の言うことを聞かなくなる。親が反対してもこの方を否定することができないからです。しかし、このことについて親の言うことを聞かなくても、むしろ、親を真実に愛することができるようになるのです。親のために祈るのようになる。また、夫や妻に反対されても、むしろ、夫や妻のために祈るようになる。真実に愛することを知るようになるのです。


しかし、キリストに出会った人たちのこのような内的な変化は、家族や社会の人たちには分かりませんから、親に対する孝、君主に対する忠よりも、創造主である神に対する信仰を第一にするのは、社会的には問題行動だとされ、迫害を受けるようになるのです。


江戸時代18世紀初頭に日本への最後のキリシタン宣教師としてローマ教皇庁から遣わされたシドッチの遺骨が2014年に小石川切支丹屋敷跡で発見され、ニュースでも大々的に報じられました。シドッチ司祭は、当時江戸幕府の中枢にいた儒学者新井白石から2度の尋問を受けるのですが、白石は、キリスト教の教えを「創造主である天主に対する信仰を、親に対する孝、君主に対する忠よりも優先させるところに道徳上の問題がある」と言う趣旨のことを書き残しました。キリスト教は既存の社会制度を転覆させる危険性があるものとして、全く評価しなかったと言うことですが、「創造主である天主に対する信仰を、親に対する孝、君主に対する忠よりも優先させる」と言う理解は正しいものでした。


これは、白石に止まらず、江戸時代にキリシタンを禁止した幕府の中では何度も取り上げられた考えであったと言います。それが江戸時代におけるキリスト教迫害の理由であったのです。


キリストとの関係を絶対的なものとするために、他との関係が相対化する。キリストを絶対的な方とするために、他の全てが相対化される。この世で人を支配しようとする者たちにとって、キリスト教は自分の立場を危うくするものであり、そこに迫害が始まるのです。


イエス・キリストがこの地上での働きをしておられるとき、伝道に遣わされた弟子たちが迫害されることはありませんでした。キリストが十字架の死から復活し天に帰られた後、弟子たちに聖霊が注がれた時から、迫害が始まったのです。


イエスは世の権力者に殺されたけれども、甦った。この方こそ、全人類の王であると、語り続けたからです。どんなに語るなと言われても黙っていることができなかったからです。真の精神の自由が与えられたからです。自分が何のために存在し、何のために生きているのかが分かった。真に愛することができなかった者が真実の愛を注がれ、真実の愛を知り、それに生きるようにされた。その自由の喜びのゆえに黙ることができなかったのです。

キリストは言っておられます。
「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。・・・兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。」


もちろん、私たちはこのようなことにはなりたくありません。自ら進んで社会から敵視されるような行動をすべきではありません。しかし、キリストの真実の愛を知る。キリストこそ全世界の王、全人類の王であると私たちが告白するときに、それを黙らせようとする者たちが出てくるのも事実なのです。


しかし、彼らは、キリストが言われるように、羊のような存在でした。自分で自分を守ることができない存在です。世の権力者の前でどうしたら良いか分からなくなるような弱い者たちだったのです。


しかし、キリストは約束してくださいました。
「また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。」


この約束、預言は使徒パウロの伝道において実現します。パウロは、若い時、キリストの弟子たちを迫害し、伝道者ステパノの殺害に関わるほど、キリストの道に反対する人でした。しかし、外国まで迫害の手を伸ばそうとした時、復活のキリストに出会いました。キリストが迫害者パウロの前に立ちはだかったのです。パウロは復活のキリストに出会い、自分の人生の目的を知ります。そして、それ以降、キリストが復活したこと、そして、キリストに連なるものたちは、キリストが復活なさったように復活することを語ってやみませんでした。迫害されても黙ることができなかった。ついに彼は捕らえられ、2年間牢獄に入れられたあと、アグリッパ王とローマ総督フェストの前に引き出され、裁判を受けることになりました。彼は、手に鎖をつけられたままの姿で王と総督の前で語ります。

「キリストは復活なさった。キリストの反対者だった私にもキリストは現れた。私が、神に願っているのは、あなたがただけでなく、今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、皆私のようになってくださることです」と。どんなに卑しめられ、鎖に繋がれていても、甦ったキリストを語らずにいられない。それは、甦ったキリストの霊、聖霊がパウロの中にいて、パウロの内側から語っていたからです。無実の罪のため、2年間も暗い牢獄の中に入れられ、鎖を手につけられて引き出される。普通だったら、自分をそのような状況、状態に陥れたものに対する怒りが出てくるのが自然だと思います。しかし、パウロから出てきたのは、自分を縛り付けていたものたちへの愛だったのです。


先週、私たちは、キリストが弟子たちを無銭徒歩伝道に遣わした時のことを学びました。キリストは弟子たちを伝道に遣わす時、履き物を履かずに行けとおっしゃいました。履き物を履くと言うことは名誉の回復を意味し、履き物を脱がせるとは名誉の剥奪を意味していました。もっとも低められ、卑しめられたものと一つになるため、履き物を脱ぎ、社会的地位も、名誉もかなぐり捨てて、福音を語れとおっしゃったのです。しかし、キリストは、弟子たちとの別れをなさった最後の晩餐の席で、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで丁寧に拭かれます。主人や客の足を洗うのは奴隷、僕の仕事でした。キリストは僕となり、裸足になった弟子たちの足を洗って行かれました。ペテロは、キリストが自分の足を洗うのを思いとどまらせようとして言います。「決して私の足を洗わないでください」と。しかし、キリストはペテロに言われました。「私があなたの足を洗わなければ、あなたは私と何の関係もなくなる」と。

ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、キリストが復活なさった後、教会の指導者となり、キリストの復活を語って止まなかったため、祭司長たちに捕らえられ、牢獄に入れられたり、鞭で打たれるような迫害を受けました。その時、彼らは履き物を脱がされていたはずです。捕虜や囚人たちは履き物を取られていたからです。


しかし、その時、彼らは思い出さなかったでしょうか。主イエスが彼らに裸足で伝道に行け、と命じられたこと、そして、最後の晩餐の時に、主イエスが一人一人の足を丁寧に洗ってくださったことを。


履き物を脱がされて歩かされるとき、彼らは今も彼らの足を洗ってくださる主イエスの温かい手を思い出していたに違いありません。主イエスが、十字架に釘で打ち抜かれた手で、卑しめられ、裸足で歩かされる弟子たちの足を洗ってくださる。この方が全人類の王です。この方が、私たちの足を洗ってくださる私たちの王なのです。


私たちは、今現実的に迫害を受けることのない現代の日本の中に生きています。ですから、迫害されることのない現実の中で、自分や他の人の信仰を生ぬるいとか思う必要はありません。自分から迫害を引き寄せるようなことをする必要もありません。ただ、私たち一人一人の存在に意味と目的を与えてくださる、このキリストとの関係を深めていきたいのです。どんな状況に置かれても、この方への決して揺らぐことのない信頼と安心に満たされて生きることを求めたいのです。キリストは、どんな状況にあっても、内側から真実の愛が湧き上がる者、イエス・キリストの御霊がこの中に住んでくださる者へと私たちを導き、作り変えてくださる方です。


このお方が、この朽ちるべきこの体、この心の中に住んでくださっている。何者もこれを奪うことはできない。


だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。『あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。』しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ人への手紙8:33-39


祈りましょう。

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