マタイの福音書 21章18~22節
岩本遠億牧師
2021年2月28日
“さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。弟子たちはこれを見て驚き、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と言った。イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」”マタイの福音書 21章18~22節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
非常に難解な箇所←私たちの常識に反している
1.空腹を満たすことができなかったからといって、生きているイチジクの木を枯らすのは良くない。
2.生きていた木がその場で枯れるなど、あり得ない。
3.信じて疑わないなら、同様のことをすることができると言われても、それもあり得ない。「どうせ私は信じてませんよ」という開き直り。
どれも、受け入れられない。
→個々の問題に対する答えではなく、マタイの福音書全体の中からこの箇所の意味を考える必要
重要な点:イエス・キリストは私たちのこのような疑問には直接的な答えをくださらない。全く別の命、地に属する者を天に移し替えるという答えをくださる。
イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。
ベタニア=最も貧しい村
ハンセン病患者たちの隔離村
イエスは、十字架にかけられるまでの数日間、ここを自分の休みの場とした。世に捨てられた人たちと一緒にいることがイエスの願いであった。
数日間、野宿、断食で十字架を迎える
(ハンセン病の人の客となることはあったが、例外的)
イエスは、空腹をおぼえられた
=「イエスは飢えていた」が原義
→前の日の夜も、この日の朝も何も食べてない
断食状態
葉だけで実のないイチジク
季節は春
初夏に熟す前の青い小さな実も食べられ、貧しい者たちが食べて飢えを凌ぐこともあったが、そのような実もついてなかった。
=実を結ばないイチジクは命を失う
→実を結ばないエルサレムに対する預言
聖書がここで示そうとしていること
イエスは命を与え、命を取る権威を持つ者である
信じて疑わないものに命を与え、命を取る力を与えさえすることができる者である。山に命じて海に移らせる権威を持つ者である。
そのイエスが、自ら十字架にかかろうとしている。
十字架を回避しようと思えば回避できる者、祭司長たち律法学者たちをねじ伏せることができるお方がそれをしないのは何故か?
“すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。”マタイの福音書 26章51~56節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエスがどうしても成し遂げなければならないこと
旧約聖書の預言の実現
人の子(キリスト)は死に支配されず、甦る。
キリストは神に背く者たちのために贖いをなす
(=いのちを与える=血を注ぐ)。
滅ぶべき罪人たちに十字架の血を注ぎ、死んで罪人と一つとなるため。死の力を打ち破って、甦り、ご自分と一つとなった者たちを甦らせるため。
イエスは、弟子たちがメシアの道を知ることを願っておられた。また一人一人が小さなメシアとなって、イエスの業を継承することを願っておられた。
「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」
何を信じるのか?
「イチジクの木が枯れる」ことを信じるのか?
NO! 神を信じるのである。
イエスの名代として
“あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。”ヨハネの福音書 16章22~27節
イエスの名によって祈る
=イエスの名代として祈る
=自分を離れキリストと一つになる祈り
=信じて疑わない祈り
→それはかなえられる。
父ご自身がかなえてくださる。