「マタイの福音書」連続講解説教

自己を学ぶ

マタイの福音書第23章13〜28節
岩本遠億牧師
2021年5月2日

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。※異本に十四節として以下を加えるものもある。〔わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見栄のために長い祈りをしている。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けるのだ。〕わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。マタイの福音書 23章13~28節

偽善者←役者
言うことと、心の中で思っていることが異なる

多少自省的な人間=自分を偽善者だと認めている
         自己の中の分裂を知っている
        →罪を認め、神に立ち帰ることができる

主イエスがここで問題としている偽善者
           =自分の中の偽善、自己の中の分裂に気づいていない
        →自分の罪を認めることができない
        →神に立ち帰ることができない
        →他の人も神に立ち帰ることができないようにする

わざわいだ
原語の意味は、呪いではない。
滅んでいく者たちに対する慟哭、悲しみの声

当時のユダヤ教の指導者(律法学者、パリサイ人)
=立派な人間が多かった。信仰熱心。伝道熱心。
生臭坊主、クソ坊主ではなかった。

イエスの批判発言は、当時のユダヤ教指導者たちには当てはまらないとの指摘もある。語用論を使って理解、解釈する必要。

わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

当時の律法学者、パリサイ人たちもこのような主張はしていない。

目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。
祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。

当時の律法学者、パリサイ人たちも同様に理解していた。

イエスは、事実に反した誹謗中傷をしているのか?

語用論を使って理解、解釈する必要。

主イエスの洞察

律法学者、パリサイ人の行為↔︎その教え、言葉
お前たちが行なっていることは、神殿よりもその中の黄金を、祭壇よりもその上の捧げものにより大きな価値があると言っているのと同様である。自分の行いと言葉との間に乖離がある、矛盾がある、自分自身の中に分裂があることを気づいていない。
→お前たちは神に立ち帰ることができない。滅んでしまう。
=イエスの嘆きの叫び

目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。
祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。

捧げ物=人間が捧げる動物
     =人間の行為による
     =それ自体は聖ではない

祭壇=聖でない捧げものを聖なるものとする

律法学者、パリサイ人の生き方
=自分は聖なる生き方をしている。
  律法を完全に守っている。自分の生き方には欠けはない。
→自分には、自分を聖なるものとするお方は必要ない。
=心は完全に神様から離れている。

律法を守らなければならないと頑張る時点で、自分の存在が神様の律法から離れている。心が神様から離れている。神様とのいのちの関係が失われている。これにお前たちは気づいていない。

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」

香辛料といったわずかな量の収入であっても10分の1を捧げる=律法を完全に守る

しかし、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。
=貧しい人たちを見て見ぬふりしている。彼らを見捨てている。

一生懸命信仰生活を送っていると、自分の行いということが自分の信仰の保証となってしまうことがある。10分の1を捧げること、一生懸命伝道すること、聖書の教えを必死で守ること、また、それを教えること、奉仕すること、また、聖書を一生懸命読むこと。これらを行うことが自分の信仰の保証だと思うことがある。
→神からの乖離

これらを心を込めて行うことは大切。神を知らなかった時と同じ生活をしてはならない。しかし、これと信仰、救いの保証とは別のこと。

自分の中の偽善に気付いていない。

詩篇第14篇

1 愚か者は 心の中で「神はいない」と言う。
  彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う。
  善を行う者はいない。
2 主は 天から人の子らを見下ろされた。
  悟る者、神を求める者がいるかどうかと。
3 すべての者が離れて行き 
  だれもかれも 無用の者となった。
  善を行う者はいない。だれ一人いない。

心の中で「神はいないという」の反対は、「神様!」と叫ぶこと。

マザー・テレサの祈り「自己からの解放」

主よ。私は信じきっていました。
私の心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく、
他人の中に自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ。私は思い込んでいました。
私は与えるべきものは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、真実が分かったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ。私は信じきっていました。
自分が貧しい者であることを。
でも、胸に手を当ててみて本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみの心に
私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ。お願いいたします。
私の中で天の国と、この世の国々とが
まぜこぜになってしまうとき、
あなたの中にのみ
真の幸福と力添えを見出しますように。

『こころの輝き〜マザー・テレサの祈り』ドン・ボスコ社

関連記事