「マタイの福音書」連続講解説教

良い方

マタイの福音書20章1節から16節
岩本遠億牧師
2008年5月4日

20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主
人のようなものです。 20:2 彼は労務者たちと一日一デナリの約束ができる
と、彼らをぶどう園にやった。 20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、
別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。 20:4 そこで、彼はそ
の人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを
上げるから。』 20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時
ごろに出かけて行って、同じようにした。 20:6 また、五時ごろ出かけてみ
ると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事も
しないでここにいるのですか。』 20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれ
ないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労
務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、
賃金を払ってやりなさい。』 20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来
て、それぞれ一デナリずつもらった。 20:10 最初の者たちがもらいに来て、
もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつで
あった。 20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは
私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱
したのです。』 20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあ
なたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたで
はありませんか。 20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、
この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。 20:15 自分のもの
を自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が
気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』 20:16 こ
のように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

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聖書は、常に神様と私の関係を問うて来る書物です。神様と人との関係や神
様とは一体どういう方かということも大切ですが、神様と私がどういう関係
にあるかということを何よりも大切にするのです。

私は、よく質問されます。「もし神が存在するなら、なぜこの世に貧困があ
り、飢餓があり、毎日多くの人々が苦しみながら死んでいくのか。一方では
安楽に暮らしている人々がいる。神は不公平ではないか。」「もし神が愛な
のなら、なぜ自然災害があるのか。何の罪もない人たちが災害で命を失った
り、家や家族、財産を失う。神は不公平だ。」「もしキリストの十字架を信
じることによって救われるのなら、その福音を聞かずに死んだ人はどうなる
のか。たまたま聞いた人だけが救われ、聞く機会がなかった人が滅んでしま
うのなら、神は不公平だ。」

このように、「神は、不公平だ」という言葉を、私は幾度も幾度も投げかけ
られました。伝道をしているとこのように言われることは非常に多いですが、
皆さんは、この「神は不公平だ」という声にどのように答えるでしょうか。

今日の聖書の箇所も、神様に向かって「不公平だ」という人が出てくるとこ
ろですが、皆さんは、ここを読んで、どのようにお感じになったでしょうか。

このイエス様の譬え話を理解するのは、特に難しくないと思います。ぶどう
園の主人(これは神様のこと指しています)が、夜明けと共に市場に行き、
そこでその日の雇い主を捜している労働者と1日1デナリの約束をして、雇
うことにし、彼らを自分のぶどう園に送りました。デナリというのは、当時
の労働者の一日分の給与です。9時ごろにも、同じようにまだ働いていない
人たちを見つけてぶどう園に送り、12時、午後3時、午後5時にも同じよ
うにしました。最初からいた人たちは12時間近く働いていますが、最後に
来た人たちは、ほとんど働いていない。しかし、ぶどう園の主人は、最後に
来た人から始めて、全員に同じ1デナリを支払ったという話しです。

皆さん、どう思いますか。こんな話、小学生や中学生にしても、全員が「そ
れは不公平だ」と言いますね。大人だってそうです。暗算ができる人ならす
ぐに計算します。仮に1デナリを1万円とすると、最初から働いた人は、自
給で800円ぐらい。最後に来た人は1万円。それは、不公平だということ
になる。

イエス様は、何を語ろうとしておられるのでしょうか。こういうふうに解釈
する人もいます。朝から働いた人は、一日中体を動かしていた訳だから、何
もしなかった人よりも、健康的に過ごすことができた。さらに、ぶどう園の
労働者は、どれだけでも好きなだけ葡萄を摘んで食べることが許されていた
ので、彼らはその分の収入を余計にもらったのと同じである。一方、最後に
なってやっとやって来た人はその日、十分な栄養を取ることもできなかった。
また、人間は労働者として創造された。働くことが人間の本来的な喜びに結
びつく。だから、朝から働いた人は、労働の喜びが与えられたのだ。最後に
来た人には、その喜びは僅かしか与えられなかった。神様は、決して不公平
ではないと。

しかし、私は、このような解釈は、全く的をはずした解釈だと思います。何
故なら、そこには、神が不公平かどうか人間のほうで裁くという姿勢が貫か
れているからです。ここには、不公平な神を裁判で訴える人間、被告席に座
らせられている神様、神様の弁護人、そして両者の言い分を聞いてそれを裁
く裁判長である人間がいるのです。人間は神様を裁く立場にあるのか。また、
神様は人間の弁護人を必要としていらっしゃるのか。そうではありません。
イエス様も、人が神様を裁判の被告席に座らせるような高慢を教えている筈
がないのです。


では、何を教えていらっしゃるのか。私たちは、先々週、先週と「富める青
年」の話を学びました。聖書では19章と20章というように分かれていま
すが、これは一続きの話であって、別々のことが語られているわけではあり
ません。どのような文脈で語られているかが分かれば、ここでイエス様が語
らっておられる譬え話の意味も分かってくるでしょう。

裕福で真面目な青年がイエス様のところにやってきて質問しました。「永遠
の命を得るためにはどんな良いことをしたら良いでしょうか。」「なぜ、良
いことについて尋ねるのか。良い方は神様お一人だ。永遠の命を得たければ、
戒めを守れ。」「どの戒めですか。」「殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証
するな。あなたの父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
「そのようなことは守っております。さらに何が足りないのでしょうか。」
イエス様は彼を慈しんで見つめて言われました。「もしあなたが完全になり
たいなら、あなたの持ち物を全部売り払って、その上で私について来なさい。」
しかし、彼は悲しんで、イエス様の前を去っていきました。多くの財産を持
っていたからです。彼は、この時イエス様に従うことができませんでした。

イエス様は、嘆かれます。「金持ちが天国に入るのは難しい。らくだが針の
穴を通るほうがはるかに簡単だ。」すると弟子たちは驚愕します。「では、
誰が救われるのでしょうか。」イエス様は、彼らを見つめて言われました。
「人にはできないが、神様にはできる。神様には救うことができるのだ。人
間が自分の力で永遠の命を手に入れるのでも、天国に入るのでもない。神様
がそうなさるのだ」と。

しかし、ペテロは言うのです。「私たちは全てを捨ててあなたに従ってきま
した。では、何を頂けるのですか」と。先週私たちは、ペテロのこの言葉は、
自分の現実をしっかり見つめようとしていない、自己陶酔的な発言であって、
ペテロたちは、自分の持ち物を置いては来たが、捨ててきたのではなかった
ということを確認しました。ペテロたちは、この時、物理的にはイエス様に
ついて行っていました。しかし、本当にはイエス様に従うことはできなかっ
た。イエス様が捕らえられた時、彼らはイエス様を見捨て、裏切って逃げて
いくのです。しかし、そんな彼らを握っていたイエス様がおられ、彼らに従
う力をお与えになった。全てを捨てさせる力を与えたのはイエス様だったと
いうことを先週学んだのです。

イエス様は、弟子たちに万物の再創造の時における最高の祝福を弟子たちに
お約束になりましたが、「先の者が後になり、後の者が先になることが多い」
と言われました。その話の続きとして、このぶどう園の譬え話が語られるの
です。ですから、ここで問題になっているのは、永遠の命です。天国に入る
ということです。またイエス様に従うということです。ついさっきまであの
裕福な青年がそこにいたということも忘れてはなりません。

つまり、ぶどう園にいくということは、イエス様に従うことです。そして1
デナリの支払いを受けるとは、永遠の命を得るということです。ですから、
ペテロが、「私たちは特別ですよね。私たちに与えられる特別なものは何で
すか」と尋ねたことに対する答えが、「最後に従うようになる人と全く同じ
永遠の命だ」ということだったのです。

イエス様は、ついさっき従うことができずに御前を去っていった裕福な青年
のことも念頭に置いて話しておられるのです。「あの青年も、いつか従うこ
とができるようになる。神様がそうなさるのだ。神様は、この世界の初めご
自分に従う人を集め始められるが、その時だけではない。世の終わりの最後
の一秒まで、自ら出かけて行き、ご自分に従う人を集められるのだ。そして
全員に同じ永遠の命を与えてくださる。あの青年にも、君と同じ永遠の命が
与えられるのだ」ということです。

「先に従うようになった者には永遠の命100、最後に従った者には永遠の
命1ということはない。君はそのことを不当だと言うのか。それを妬ましく
思うのか。」

「妬ましく思う」と訳してある言葉は「目が悪い」という意味で、「気前が
良い」は、だた「良い」という意味の言葉です。イエス様が裕福な青年に、
「良い方は神様ただお一人だ」とお答えになったあの「良い」という言葉と
同じです。「わたしが良いから、お前の目が悪くなるのか。お前は物事の本
質が分からなくなるのか。お前は嫉妬に狂うのか」という意味です。

神様の良さとは、何でしょうか。それは、最後にぶどう園に行った人、最後
に従った人にも同じ永遠の命を与えた神様の寛大さということだけではな
いと思います。それは、世の終わりの最後の1秒まで、ご自分について来る
人を求め、愛する者を捜し求めて止まない神様の愛です。最後の一人まで、
滅びることを欲せず、諦めずに呼びかけ続ける神様の熱心さを、神様の良さ
と仰っているのではないでしょうか。最後まで諦めずに愛し、集めようとな
さる神様の良さを知り、君も同じ心を持つようになれ。その嫉妬深い心を捨
て去り、良い者となれとイエス様は仰っているのではないでしょうか。

「あの裕福な青年が戻ってきた時には、君よりも先に、彼に永遠の命が与え
られるよ。君は、それを私と一緒に喜ぶものであれ」という意味でもあるで
しょう。

そして、最後にイエス様は付け加えられました。「このように、あとの者が
先になり、先の者があとになるものです。」この言葉は、非常に重要です。
これは、今日の説教の最初にお話した、神様と私との関係について語ってい
るからです。文字通り読めば、最後に来た人から支払いをもらい始め、最初
に来た人が最後に支払ってもらったということですが、さらに深い意味があ
ると思います。

それは、最後に来たものとは一体誰かということです。最初に従ったと思っ
ている君こそが、実は最後の者ではないのかということです。何度も申し上
げますが、ペテロたちは、物理的にはイエス様について行っていました。し
かし、イエス様が地上での伝道活動をしておられたとき、彼らは本当には従
うことはできなかった。「あなたのために全てを捨てました」という言葉も
「あなたのために命を捨てます」という言葉も虚しい言葉だった。私たちが
イエス様に従って行くことを得しめる力は、私たちにはなく、従えとお命じ
になる方にあるからです。イエス様は、ペテロに仰っているのではないでし
ょうか。「君は全てを捨てて従ったと言っている。わたしは、君がわたしに
ついて来ていること、わたしと共に生きてくれることを心から喜んでいる。
今、君は本当には従うことはできないだろう。しかし、後になったら従うよ
うになる。君は、自分こそ最後の者だということを受け止めながら生きよ」
と。

私は思います。生まれた時からクリスチャンとして育ち、高校生の時には、

主に自分の全てを捧げて生きるものでありたいと願った。しかし、その後大
学生になり信仰を失い、自分の思いでは主に自分を捧げることができないこ
とを思い知らされました。そして、イエス様との決定的な出会いを経験し、
その後、いろいろな伝道の働きを与えていただきました。しかし、私の心は
100%神様に従ってきたかというと、そうでない自分がここにいるのです。
心の中の罪があります。妬みや怒り、許せない思いに満たされることだって
あります。私は、思います。「主よ。私はいつになったらあなたに従う者に
なれるでしょうか。私こそ、最後の者です。主よ、憐れんで下さい。」

イエス様は言われました。「わたしが行くところには、今は、あなたはつい
て来ることはできません。しかし後になったらついて来ることになる」(ヨ
ハネ13:36)と。イエス様は、仰っているのではないでしょうか。「わたし
は、君をわたしについて来ることができるものにする。君が本当に従うこと
ができるようになるまで、世の終わりまで君を捜し求めている。君を諦めず、
君に同じ永遠の命を与える」と。

この神様の良さによって、私は救われたのです。あなたを待っている方がい
るのです。あなたを捜し求めている方がいる。この方の良さによって、あな
たも救われ、共に同じ永遠の命を与えられるのです。

祈りましょう。

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