「マタイの福音書」連続講解説教

見える世界と見えない世界

マタイによる福音書6章1節から18節
岩本遠億牧師
2007年1月21日

◆施しをするときには

6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。 6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

◆祈るときには

6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。 6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。 6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

◆断食するときには

6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

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マタイの福音書に戻って、イエス様の教えをご一緒に学んで行きたいと思います。この7章では、前半は信仰者が行うべき善行を行う時の心の姿勢や態度、後半は実生活における姿勢、態度について教えておられます。今日は、前半の部分の中から特に施しについてご一緒に見ていきたいと思います。「主の祈り」については、来週改めてもう一度取り上げたいと思います。今日、特に皆さんとご一緒に学びたいことは、この目に見える世界は、目に見えない霊的な実体、すなわち神様、によって支えられているのであって、目に見える世界における評価が私たちの価値を決定するのではないということです。目に見えない神様こそが、私たちに存在の価値を与え、この方が人の目に見えない私たちの良い業を評価し、報いを与えて下さるのです。次のように言われています。「(人に)見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」これには、目に見えない神様の御前にへりくだる、謙遜ということが重要な鍵となるのです。

信仰者が行うべき良い行いとして3つのことが挙げられています。貧しいものに対する施し、祈り、そして断食です。これらは、当時イスラエルの人々が信仰の表れとして当然行わなければならないこととして定められており、イエス様ご自身もそれを行うように教え、また、ご自身も実践なさいました。

問題は、それをどのように行うかということでした。少し具体的に見ていきましょう。まず、援助を必要とする人に対する施しについて。

6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

当時、会堂や街角に施しのための箱が置いてあり、それに金を投げ入れる時に、わざわざ目立つ行為をするということです。「ラッパを吹き鳴らす」という表現には3つほどの解釈があります。一つは、文字通り、ラッパをファンファーレのように吹き鳴らして人の注意を引くというもの。次に、「施し箱」には、ラッパの先の形をした、大きな漏斗のようなものがついていて、それに金を投げ入れると、音がするというもの。そして、「ラッパ」というのは、比喩的表現で、これ見よがしにお金を投げ入れるというもの。何れにせよ、人に見てもらって、「あの人は立派な人だ」と言われることに目的があります。

イエス様は、これを「偽善者」という言葉で表現なさいました。偽善者とは、元々、「役者」を表す言葉です。心の中になくても、それを行為として演じるのが役者です。困っている人を助けたいとは思っていないのに、施しをする。施しによって名声を得たいからです。「素晴らしい方だ。立派な方だ」と言われたいからです。しかも、宗教的な名声というのは、宗教の世界に生きている者にとっては、非常に大きな誘惑です

私たちは、「素晴らしいですねえ」と言われることに本当に弱いですね。しかし、イエス様は言われるのです。「素晴らしい」と言われるために行った善行は、「素晴らしい」と言われた時に、その報い、報酬を受けてしまっている。だから、その行いに対する報いを神様から受けることはできない。「もう完全に受け取り済みだ」というのです。

むしろ、施しをする時には、右手で捧げたら、左手にそのことが伝わる前に、忘れてしまうほどであれ、と仰るのです。そうすれば、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて下さる」と。神様が知って下さっている。そのことで十分なのです。目に見えず、人の目には隠れていても、「わたしは在る。わたしは存在する」と言われる方が、全てを創造し、全ての価値を創造なさる。その方が知って下さっている。そのことがあなたがたにとって最も大切なことなのだとイエス様は、教えておられるのです

人は、何故「あなたは素晴らしい」と言ってもらいたいのでしょう。そのことによって自分の価値を感じるからです。自分の価値を確認することができるからです。私たちは、全員神様によって素晴らしく造られています。ですから、「あなたは素晴らしい」とお互いに言うことは、正しいことですし、お互いを見て、「素晴らしいなあ!」と心から思えるなら本当に幸いです。祝福されています。

問題は「あなたは素晴らしい」と言ってもらいたいために、善行を行う場合で、そうなると、それは高慢によって汚された行為となってしまうのです。私たちは、自分で自分の価値を高めたいと思います。自分は良いものだと思いたい。しかし、これは善悪の判断基準を神様から盗んで自分のものにしたアダムとエバの罪そのものなのです。神様は、人を創造を終えられた時、その創造された全てのものを見られました。そしてそれは、「はなはだ良かったのです。」神様の御手の中にある時、神様の御前に謙遜である時、それは「はなはだ良い価値の高い」ものなのです。しかし、偽善者となって自分を人の前で高めようとする時、私たちは価値を失ってしまいます。

イエス様は言われます。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」と。

私たちは、決して変わることのないお方に、「お前は価値あるものだ」と言って頂きたいのです。人の評価は変わるし、移ろい行きます。こちらは変わらないつもりでも、状況や都合で自分にに対する評価が変わるということは、この社会にあって普通に行われていることです。私たちは、そのような中にあって、揺れ動く人の評価に一喜一憂して不安に慄きながら生きるのではなく、決して変わらないお方との関係の中に生きる時、決して変わることのないお方が私たちのために用意して下さっている、決して変わることのない価値を知ることができるのです。この方は言われます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43)と。

援助を必要とする人は、私たちの高慢な思いを満たすために存在しているのではありません。彼らは、神様の素晴らしさを映す鏡として存在しているのです。何か理由があって今苦しい状況に置かれている人々に手を差し出すのは、彼らの中にこそ、私たちが仕えるべき、イエス様がおられるからだとマザー・テレサは言っています。

マザーが残した祈りに次のようなものがあります。

「最愛の主よ。病んでいる人は、あなたの大切な人。今日も、いつも、病人ひとりひとりのうちに、あなたを見ることができますように。看病しながら、あなたに仕えることができますように。

イライラと短気な人、気難しい人、理屈に合わないことを言う人、人の目には好ましく思えないこうした人の中にもおられるあなたを見分けて、こう言えますように。『わが患者イエス、あなたに仕えることはとても嬉しい。』

主よ、このように見る信仰を与えてください。そうしたら、仕事は少しも単調ではなくなるでしょう。貧しく苦しんでいる人々の気まぐれを、温かくユーモアのうちに受け止め、その人々の願い事を満たすことに絶え間ない喜びを見出す者となるでしょう。

愛する病人さん、あなたがキリストを現しているとなれば、あなたは、二重に親愛な方となります。あなたをお世話することが許されるのは、わたしにとって特別な恩恵です。・・

神であるお方よ、あなたはイエス。わたしのお世話する患者のなかにおられます。どうかわたしに対しても、ひとりひとりの患者イエスが忍耐深いイエスとなって、わたしの数々の落ち度は大目に忍び、あなたの大切な一人一人の病人のうちにおられるあなたを愛し、あなたに仕えようとしているこの志だけを見取ってくださるようにしてください。主よ、今もいつも、わたしの信仰を強め、深めてください。わたしの努力と仕事を祝してください。」(『マザー・テレサのことば』半田基子訳、女子パウロ会より)

もし私たちが人を援助しようと考える時に、マザーのように、その方の中に愛に痛んだイエス様の姿を見ることができるなら、私たちは、高慢な思いから解放されて、真に仕える者として、謙遜であることができるでしょう。その方々に仕えていること自体、その方々のために自分の持てる物を差し出すこと自体が、私たちの存在を輝かせるからです。そこにイエス様がおられ、イエス様の光が私たちを照らすからです。

イエス様は、「隠れたことを見ておられるあなたの天の父が報いて下さる」と仰っています。どのような報いか分かりませんが、それを頂けることを楽しみにしたいですね。しかし、わたしは、イエス様が私を見て頷いて下さったら、それで十分です。それ以上、何を求めることが必要でしょうか。イエス様が知って下さっている。私の全て、良いところも、悪いところも全部知って下さっている方が、私を見て頷いて下さったら、それで十分です。この方が私の全てを満たして下さるからです。ここに目に見えない私たちの天のお父様が与えて下さる豊かな霊の世界があるのです 。

私たちは人に誉められたいという思いと同時に、人の目を恐れるということもあります。これは同じコインの表と裏で、私たちの心が目に見えるものに縛られているということに原因があります。でも、聖書は言うのです。目に見えないところにこそ、確実な世界があるのだと。

2コリント4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

ある人が大学の教師をしていました。彼は熱烈なクリスチャンでしたが、そこに学生が訪ねて来て言いました。「先生、先生は神は存在すると言いますが、存在するならその神を示して下さい。」先生は答えます。「じゃあ、君に質問するが、君を見せてくれ。」学生は「私ですか?」と言いながら胸をたたきました。すると先生は言います。「それは君の胸だ。君自身を見たいのだ。」彼は、次に頭を指したり、体全体を指したりしますが、それも、彼の頭であり、体でしかありませんでした。先生は言いました。「君自身は、君の胸よりも、頭よりも、体全体よりもさらに尊いものだ。目に見える形で人に見せることはできない。しかし、その尊い存在は、確かに生きていて、今ここに見える君の体を支えているのだ」と。

私たちは、目に見えるものにものの本質があるように感じます。しかし目に見えないところにこそ、目に見えるものを支える本質的な力があるのです。「光あれ」と神様が言われると、そこに光があったと聖書は言います。光の存在は、神様のこの言葉に依存しているのです。

だから、仮に私たちを取り囲む状況が必ずしも理想的とは言えなくても、私たちを内側から支える見えない神様の世界がある。神様が支えて下さる。神様が、「わたしは、決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言って下さる。外側からの苦しみはやってくるでしょう。しかし、その苦しみは、私たちの価値を低めることはできません。目には見えないけれど、確実な方、全てを創造し、これを支えておられる方が、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語って下さる。

私たちは、この方に私たちの心の目、私たちの霊の目を向けて生きて行きたいのです。隠れたところにおられる方、隠れたことを見ておられる方との関係を最も大切なこととして生きて行きたいのです。その時、私たちは、人に見られるために善行を行う高慢の罪から救われるでしょう。そして、目には見えないけれども確実な神様に支えられ守られる、溢れるように豊かな祝福の世界に生かされていくのです。祈りましょう。

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