「ルカの福音書」 連続講解説教

赦しと謙遜

ルカの福音書17章1節から10節
岩本遠億牧師
2006年8月20日

17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

謙遜こそ、私たちキリスト者にとっての信仰の出発点であり、目標であり、また信仰成長の鍵です。どんな活動をしても、口で何と言っても、この謙遜を信仰と生活、人間関係の基礎とすることなくして、私たちは豊かな信仰の実を結ぶことはありません。

イエス様はマタイの福音書の中で次のように言われました。

23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。マタイ23:11-12

「仕える」とは、自分の主人のそばで、主人の生活や活動が滞りなく行われるために忠実に命じられることを行うというのがその本来的な意味でしょう。自分の思いを実現しようとしないことが、その前提となるはずです。自分の思いを実現させることに最大の関心がある私たちの生き方と何と大きな違いがあることでしょう。私に一番欠けているのは、この仕える者の意識だと思います。

外面上謙遜を装うことは簡単です。しかし、本当の謙遜が自己卑下ではなく、自分の隣人を自分の主人とし、自らを僕として仕えることであるのなら、謙遜には深い意識の変革が必要なのです。人の前で外面上腰を低くすること以上の、私たちの存在のあり方の根本にかかわる変革が内側に行われなければならないのです。

今日取り上げる箇所は、ルカの福音書17章1節から10節です。ここには、赦すこと、信仰、僕という、一見独立した別々の教えが語られているような印象を受けるかもしれませんが、これらは、全体で一つの教えであり、赦すことが僕としての生き方という観点から教えられています。赦すことが信仰の重要な一部であり、仕えること、すなわち謙遜の非常に重要な一部であることを教えている箇所です。

5節で、弟子たちは、「私たちの信仰を増してください」とお願いしていますが、これは、今の自分の信仰ではできないことがあると彼らが感じたからでしょう。そして、彼らができないこととは、その直前でイエス様が弟子たちに語られた言葉です。

17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。

「躓き」とは、神様との関係を壊すような罪に引きずり込むことです。元の言葉はスカンダロンと言い、英語のスキャンダルになった言葉ですが、人を悪に引きずりこみ、罪を犯させることを意味します。また、人を神様の定められた道から外れて行かせるような、自分勝手な教えを教えることでもあります。そのような行為に対し、「石臼を首に結わえ付けられて、海に投げ込まれたほうがましです」とイエス様は非常に厳しい警告を発しておられます。

弟子たちに対してこのことを言われたのですから、教師に対する戒めとして語られたと理解されますが、ここで重点が置かれているのは罪の恐ろしさであり、罪から身を避けることの重要さです。罪を軽く考えてはいけないということです。その上で、イエス様は、弟子たちに、人を罪に引きずりこむ者ではなく、人を赦す者であれと言葉を続けられます。

17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

罪を犯してしまった者を戒めること、そして赦すことを教えておられます。罪を犯させる者は石臼を首に結わえ付けられて海に投げ込まれたほうがましだと言われるほど、罪は恐ろしいもので、罪に対して神様は妥協なさらない。しかし、罪を悔い改める者に対しては、大きな赦しをもって受け入れなさいと教えられます。

「あなたに対して一日に七度罪を犯しても」と言われます。個人的に損害を与えられることであったり、あるいは精神的な苦痛を与えられることかもしれません。「七」という数字は、聖書の中では完全数の一つですから、文字通り七回ということではなく、回数においても、その甚だしさにおいても、個人の限界を超える状況を意味します。

そのような人が「『悔い改めます』と言って七回あなたのところに来るなら、赦してあげなさい」と言われる。七回赦すとは、8度目は赦さなくても良いということではありません。マタイの福音書の中でイエス様は「七を七十倍するまで」と仰っています。つまり、自分に罪を犯した者を自分が裁くということ自体を放棄しなさいということを教えておられるのです。また、「『悔い改めます』と言って七回あなたのところに来るなら、赦してあげなさい」と言っておられますが、これは、謝りにきたら赦してやろうと思っていたらできることではありません。既に自分の中で赦していなければ、謝りに来たときに「赦します」と言うことはできません。

イエス様は、福音書の中で何度も「裁いてはならない」「赦しなさい」と仰っている。主の祈りの中でも、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と祈るように教えておられます。しかし、この赦すということが私たちには一番難しいのです。教会の中でも、裁かないこと、赦すことは、奉仕をすること、人の前で話をすること、多額の献金をすることに較べて何と難しいことかと思います。

私たちは、何故人を裁くのでしょうか。何故、人を赦せないのでしょうか。それは、自分の思いが善悪の基準となっているからです。自分の思いが何にもまして、第一の基準となっている。

しかし、聖書を読むと、善悪の決定権は神様だけにあるのであって、人間にはないということが明確に書かれています。創世記の記事で、アダムとエバがエデンの園の中央にあった善悪の知識の木の実を取って食べた。これが人の罪の源泉であったとありますが、神様だけに決定権がある善悪の判断、これを自分のものにしようとしたところに、人の罪の最も根深いところ、最も解決が難しいところがあるのです。

七度赦せ、あるいは七を七十倍するまで赦せとイエス様がお命じになる。これは、人間の罪の姿を決定付けている思い、すなわち、自分が善悪を決めたいという思いを完全に放棄することをお命じになっているのです。

それに対する弟子の反応が5節です。

17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言った。

つまり、イエス様が命じておられることを行うためには、自分たちが持っている信仰を増していただくことが必要だと感じたのです。「もっと、信仰が篤くなれば。もっと信仰が大きくなれば。もっと信心深くなれば」と思ったということです。

しかし、それに対するイエス様のお答えは非常に厳しいものでした。

17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

これは、信仰が大きい、小さいという問題ではない。信仰があるかないかという問題なのだと仰っています。自らが善悪の基準となるという罪のあり方を放棄すること、つまり神様だけにそれをお任せし、自分は裁かないことが、信仰の最も基本的姿勢として求められていると言うのです。

イエス様は、ここで、「これができないお前たちは信仰がない。これができなければ救われない」と断罪しておられるのではありません。むしろ信仰の鍵となることはこのことなのだと教えておられます。謙遜ということが、どれほど信仰にとって重要なことであるのかということです。

このことを理解することができると、これに続く7節からの喩えが何を意味しているのかも分かりやすいと思います。

17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

私たちは、自分に負い目のある人を赦そうとする時、「大目に見てやる」という気持ちになることがあります。あくまでも、自分が善悪の基準であり、赦すために、その基準を下げてやろうと思うわけです。そこにあるのは、自分が上に立っているという意識です。

ところが、イエス様がここで赦すことを僕のあり方に準えて教えられる時、人を赦すという行為が何か感謝の対象になったり、賞賛の対象になったりするようなものではなく、また、神様からの報いを受けるようなことでもなく、況や人の上に立つような意識を持ってすることではないということが分かります。僕がなすべき当然のことであると教えておられるのです。むしろ、僕のあり方、謙遜な者のあり方として、赦すということは、当然なことなのだというのです。神様が言いつけられたことをするだけなのだと。

このようにイエス様は、赦すという行為を僕としての謙遜の中に位置づけることによって、私たちが自分を善悪の基準として人を裁いてはならないことを教えておられることが分かります。僕には人を裁く権限がないからです。謙遜とは、他の人を自分より身分的に高い者として、それに仕える事ですが、私たちには自分の主人を裁く権限はないのです。私たちが謙遜になり、本当に僕となるなら、人を裁く立場にないことを知ることになります。

今上に述べてきたことを頭で理解するのはさほど難しくないと思います。しかし、これを実践するとなると、私は絶望感に襲われます。「イエス様、私にはその力がありません」と言わざるを得ません。それは、自分の気持ちを善悪の基準として人を裁く思いが私の心の隅々まで行き渡って、それが私を縛っていると感じるからです。これこそがアダムの末である私の罪の実体なのです。

そんな私たちをイエス様はどのようにしてこの罪から解放して下さるでしょうか。

先ず第一に憶えたいのは、イエス様がこの教えを弟子たちにお語りになったということです。「信仰の大きさの問題ではない。信仰があるかないかの問題なのだ」と仰りながら、イエス様は弟子たちに向かって「お前たちには信仰がない」と言っておられるのではないのです。イエス様との関係の中に、しっかりと握り導いておられます。そして、十字架の死と復活を通ったイエス様は、彼らに聖霊を注いで、彼らにご自分のお心をお与えになっていきます。

私たちも、イエス様の手の中にあります。私たちもイエス様の御霊、聖霊のお取り扱いを受けていくのです。

次に憶えたいのは、イエス様こそ引き裂かれた二つのものを一つにする方だということです。

私たちは、他の人から実害を受けた時、人を赦せない思いに囚われ、本当に苦しみます。怒りに燃える心と平安を求める心に自分の心が分裂してしまいます。自分を善悪の基準とする罪、人を自分の思いによって裁きたいという罪が、私たちの心を真ん中から引き裂いてしまっているのです。

自分を善悪の基準とする罪は、人と人との間を裂くだけでなく、私たち自身の心を引き裂いている。

そんな時、罪の赦しを受けなければならないのは、私たち自身であり、私たちの引き裂かれた心はイエス様の御霊によって癒され、もう一度一つとなることが必要なのです。

詩篇の作者は次のように祈っています。

86:11 主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。

イエス様は、引き裂かれた者たちがもう一度一つになるように十字架を前にして祈って下さっています。

ヨハネによる福音書

17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。 17:22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

☆イエス様の御霊のご臨在によって

イエス様は、私たちを赦す者、裁かない者とするために、ご自身の御霊を私たちに注いで下さいます。

わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。ヨハネ12:47

「わたしは裁かない」とおっしゃったイエス様は、ご自分が十字架にかかって、人を裁き、断罪する私たちの罪を負ってくださった。人を赦さない私たちを裁かない、私はあなたを救うために来たとおっしゃって下さっているのです。私を裁かない方がいる。私を救ってくださる方がいるのです。あなたを裁かない方がおられます。あなたを救う方がおられるのです。「裁かない」とは、自分を判断の基準としないということ、イエス様ご自身が全く低い僕となって下さり、敵意によって引き裂かれたものがもう一度一つにされたのです。

「わたしは裁かない。わたしは救うために来た」と仰るイエス様の御霊が私たちの心の中に注がれる時、引き裂かれた人間関係と、引き裂かれた私たち自身の心が癒され、イエス様にあって一つに回復され、自分を基準とする罪から解放されていくのです。

私にはできなくても、イエス様の御霊が臨む時、私の中にあった怒りが解決されて行くでしょう。その時、「赦してやった」という思いではなく、「赦すことができるようにしてくださり、感謝します。赦すことができて救われたのは、私です。」「私はあなたの僕です。あなたのお心を私の心として生きることができるよう、私を導いて下さい」という思いが私たちの中に与えられていくでしょう。

イエス様は、「裁くな」と言われましたが、これを律法として与えるのではなく、自分を善悪の基準とする罪の根源から私たちを解放し、引き裂かれた二つのものを一つにするため、それを本気で私たちの内側に実現するために十字架にかかり復活なさったのです。ご自分を釘付けするものたちのために祈られました。「父よ。彼らを赦し給え。彼らは何をしているか自分で分からないのです」と。全く自分を無にして、祈って下さった。そのイエス様が今聖霊として親しく働きかけて下さるのです。

イエス様の全存在を賭けた祈りと預言が自分自身の中で実現していくために、私たちも本気になって、イエス様の御霊を呼び求め、イエス様の御霊に満たされたい。私にはできなくても、「私は裁かない」と仰ったイエス様の御霊が、私の内でご自身の御業を行い、私を真に謙遜な者として作り変えていって下さるでしょう。

祈りましょう。

天のお父様。今もあなたは、聖書の言葉を通して、私たちに真に大切なものは何かを教えて下さっていることを心から感謝します。

今日は赦しと謙遜ということを学びました。私は、このことを真剣に、本気で考えれば考えるほど、道は遠く、自分に失望してしまいます。しかし、「私は裁かない」と言われ、ご自分を十字架に釘付けする者たちのために祈られたあなたの御霊が私たちに注がれ、私たちを潤し、満たして下さるなら、私たちの思いではなく、あなたの御思いが私たちの内に実現していくでしょう。そして、自分の思いを義とすることによって引き裂かれた人間関係と真っ二つに引き裂かれた私たちの心が、あなたの十字架によってもう一度癒され、一つとされていくでしょう。

私たちにはできません。しかし、あなたにはお出来になります。どうぞ、私たちをあなたの御霊によって満たして下さい。自分を忘れるまでに、あなたの御霊が満たして下さり、あなたの赦しと喜びが私たちの内から外に溢れて流れて行きますように。

今日も私たちの中に引き裂かれた人間関係と心をもって苦しみの中におられる方がおられると思います。主イエス様、あなたの御霊が直にその方に、私たち一人一人に触れてくださり、私たちを罪の鎖から解放して下さいますよう、心からお願いいたします。

どうぞ、私たちをあなたご自身によっていつもいつも満たして下さい。心から感謝します。イエス様の御名によって祈ります。

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