「マタイの福音書」連続講解説教

イエス様の招き

マタイの福音書4章12-22節
岩本遠億牧師
2006年8月13日

4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた
4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4:14 それは、預言者イザヤを通して言われてい たことが実現するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/ 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4:16 暗闇に住 む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4:17 その ときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、 ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御 覧になった。彼らは漁師だった。
4:19 イエスは、「わたしについて来なさ い。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4:20 二人はすぐに網を捨てて 従った。 4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしている のを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4:22 この二人もすぐに、舟と 父親とを残してイエスに従った。

+++ マタイの福音書を連続で学んでいます。イエス様は、謙遜のバプテスマを受けられ、完全な謙遜によって悪魔の試みを退けられ、溢れる聖霊の力に満た されておられました。洗礼者ヨハネがヘロデ王によって捕らえられた時、いよいよイエス様の宣教の活動が始められます。ヨハネは、イエス様の出現を 予告し、ユダの荒野で「神に立ち帰れ。天の御国が近づいたから」と言って、罪の生活を捨て、神様の御心に従った生き方をすることを人々に迫りました。洗礼者ヨハネは、国主ヘロデ王の罪を糾弾したため、捕らえられましたが、 イエス様は、それまでは、何の活動も行っておられませんでした。イエス様が通られる道を整えるという洗礼者ヨハネの活動の終了によって、ご自分の 時が到来したことをお知りになるのです。マルコによる福音書によると、イエス様は、宣教の開始を「時は満ちた」という言葉でお示しになったとあり ます。イエス様を迎える準備の時は終わり、いよいよイエス様の活動の時がやって きたのです。

+ ヨハネの活動の場所は、エルサレムに近いヨルダン川流域で、そこは、エッセネ派と呼ばれるユダヤ教の一派が根拠地とするところであったと言われま す。ヨハネの宣教は、宗教的な環境の中で行われたと言って良いと思います。ところが、イエス様は、そのようなところとは対極にあるような場所で宣教 の活動を始められました。 イエス様は、片田舎のナザレという宣教の拠点としてカペナウムという町 に移り住まわれますが、これは、北はダマスコから南はエジプトに通じる当時の主要道路の走る繁栄した町でした。ローマ軍が駐留し、収税所もありま す。そして、カペナウムによって代表されるガリラヤ地方と言うのは、当時の宗教的な中心地であったエルサレムがあるユダヤからは蔑視されていた地 域です。ガリラヤはバビロン捕囚帰還後もあまりユダヤ人は多くありませんでした が、前165年マカベヤのシモンがこの地の少数の同胞を援助、強化してユダヤ教への改宗者を保護したため、まもなくユダヤ人が圧倒的勢力を持つに 至りました。しかし、人種の混合により方言が生じ、異邦の偶像礼拝に侵食された地域でもあったのです。  イエス様の宣教は、このようなところから始められました。4:15 「ゼブル ンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、 4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に 光が射し込んだ。」預言者イザヤの預言が実現しました。 ガリラヤは、光のない場所でした。真の神様を忘れ、偶像礼拝と迷信に心 を奪われた土地、そこにイエス様はご自身を現したのです。私たちの心も、カペナウムのように、いろいろな物で満ちているでしょう。しかし、そこに 真の神様の光がないなら、イエス様は、そこにこそ、ご自分の住む場所を定め、光を照らしてくださるのです。 イエス様は、そのような中で叫ばれました。「神に立ち帰れ。天の御国が近づいたから」と。ヨハネの言葉と同じですが、その意味している内容は異 なっています。「天の御国の到来」は、ヨハネにとって神様の審判の時を意味していました。神の怒りに触れないように、正しい生き方を求め、神に 立ち帰るようにと教えました。しかし、イエス様が「天の御国の到来」とおっしゃる時、それは恵みの時を意味していたのです。イエス様ご自身が 言っておられます。マタイ11:5 「目の見えない人は見え、足の不自由な人 は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」ところが神 の国だと。私たちは、なぜ神様のところに立ち帰るのでしょうか。裁きが怖いからでし ょうか。そういうこともあるかもしれません。しかし、イエス様が「立ち帰れ!」と叫ばれたとき、そこには、あなたを癒す力、あなたの人生を回復す る力、あなたの実存を救う力がやってきた、だから立ち帰れと言われたのです。なぜなら、神様のところに立ち帰ることによってのみ、この祝福、この 喜びを受けることができるからです。繁栄した町、そこには人の欲を満たすものは溢れているでしょう。そして、 人はそれらのもので自分の満たし、それによって生きていることを実感しようとします。しかし、それらが満たされても、あるいは、満たされなくても、私たちの存在は、その本質的な部分において神様から引き裂かれた苦しみの 中で呻き苦しんでいるのです。私たちの存在を照らす真の光を求めているのです。 イエス様は、「立ち帰れ」と言われましたが、この言葉には、元々人は神様のおられるところにいる者として創造されたのだという意味が含まれています。「帰れ」と言う時、私たちの住むべき場所は神様なのだと言っているのです。主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。詩篇90:1 (新改訳聖書)私たちの家は、どんな時にも私たちを受け入れます。旅に出て、疲れたとき も、帰る家があるから私たちは安心していることができるのです。家には、私たちが眠る場所があり、病気や怪我をした時には、家が私たちを守るので す。仮に、親と喧嘩をしているような時でも、私たちは家の中に自分の場所を見るけることができる。 神様の中には、私たちの場所があるのです。あなたの場所があり、私の場所があります。だから、イエス様は帰って来いとおっしゃっているのです。こ こに私たちの存在に光を当てる神様の御顔が照り輝き、私たちの引き裂かれた存在が癒され、回復するのです。 イエス様は、今も呼びかけておられます。「友よ、帰れ」と。「私はあなたを待っている」と。

+ 4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧 になった。彼らは漁師だった。 4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。 人間をとる漁師にしよう」と言われた。 4:20 二人はすぐに網を捨てて従っ た。 4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを 御覧になると、彼らをお呼びになった。 4:22 この二人もすぐに、舟と父親 とを残してイエスに従った。 イエス様は、そのような中で、最初の4人の弟子をお選びになりました。他の福音書を見ると、この時初めて出会ったわけではないということが分かり ます。彼らは、イエス様が「神に立ち帰れ。天の御国が近づいたから」と叫び、宣教の働きを始めておられるのを知っていました。それだけでなく、お 互いに知っていたのです。イエス様と出会った時と、従って行くようになる時まで、時間的な差があります。 ここに私は希望を見出します。またイエス様の優しさ、忍耐と寛容を見ます。イエス様に出会って、すぐに従う場合もあるでしょう。しかし、そうでない 場合もある。私たちの心の中に、イエス様に従っていくための準備の期間が必要なことがあるのです。イエス様は、それをご存知です。そしてイエス様 ご自身が、私たちの心の中にその準備をなして行ってくださるのです。この4人は漁師でしたが、ルカの福音書によると、次のように書いてありま す。 4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅ うとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。 4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐ に起き上がって一同をもてなした。 5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしな さい」と言われた。 5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しま したが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。 4章38節39節を見ると、イエス様がシモンの家に入られたとありますから、少なくとも、シモンがイエス様に従うようになる前に、イエス様とシモ ンの出会いがあったことが分かります。ところが、シモンはイエス様になかなか心を開かなかったようです。自分の姑が熱病で苦しんでいても、イエス 様に癒してくださいとは願いませんでした。その場にいた他の人々が願っています。また、姑を癒していただいても、イエス様の話を聞きに行こうとは していません。何か心に引っかかるものがあったのだと思います。イエス様がガリラヤ湖の湖畔に立たれると、多くの人々がその恵みの言葉を 聞こうとやってきました。しかし、シモンとその仲間たちは、それを遠巻きに見ながら、網を洗っていました。彼らは夜通し働きましたが、魚は一匹も 取れず、疲れ、苛立っていたことでしょう。そんなシモン・ペトロの舟に、こともあろうに、イエス様がずかずかと乗り 込んできました。そして言います。「群集に話ができるように少し沖に出してくれませんか。」シモン・ペトロは、内心穏やかではなかったと思いますが、嫌とも言えず、イエス様の言うとおり、少し沖に出して、イエス様が群集に 語り掛けることができるようにしました。話が終わると、イエス様は、深みに漕ぎ出して漁をしなさいとおっしゃる。 さすがにシモンも癇に障りました。「俺は、魚釣りのプロだ。この俺が夜通し働いても取れなかったのだ。しかも網を仕掛けるのは夜。一体自分を何様だ と思っているのか。」これがシモンの偽らざる思いではなかったでしょうか。しかし、嫌々でしたが、シモンはイエス様の言葉に従います。従わざるを得 ない権威と確信がイエス様の中にあったからです。すると、舟が沈みそうになるほど、魚が取れた。イエス様は、夜通し働いて も魚の取れなかったシモンに、舟を貸してくれた代金をお支払いになったのです。シモン・ペトロは驚愕します。驚愕すると共に恐れます。全てを知っ ている方の前に自分がいる。自分の苛々や不信感、そのようなものを全てこの方は知っている。そして言います。 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 またしても、ペトロはイエス様から離れようとするのです。自分からイエス様との関係を求めなかったのがペトロです。言えなかったのです。誰も、自分からはイエス様について行く、従って行くことはできないのです。 イエス様は、言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。イエス様は、ペトロの恐れを取り除かれました。イエス様に対して持ってい た反感などを全て赦してくださったのです。そして言われました。「私についてきなさい。一緒に生きて行こう。今から後、あなたは人間をとる漁師にな る」と。頑ななペトロの心を溶かしたのは何だったでしょうか。従うこと、ついてい くことを躊躇させるのは、高慢と恐れです。「私は誰にも従いたくない。自分は自分で生きていく。」ペトロは高慢な人間でした。しかし、その高慢を打ち砕かれるような圧倒的なイエス様の前に立った時、立っていることができず、ひれ伏しました。しかし、それだけでは従うことはできなかったのです。彼 の中に恐れがあったからです。それは罪深さを知られるという恐れでした。この罪深さは赦されないという恐れでした。 しかしイエス様のペトロに対する愛が、その恐れを溶かしました。「怖がらなくて良い。一緒に生きて行こう。わたしはあなたの未来に期待しています。」罪深い者、イエス様に反感を抱く者をさえ、赦し、全てを包み込むイエス様 がおられました。この愛に包まれ、ペトロは全てを捨ててイエス様に従うことができるようになったのです。 「私に従ってきなさい。ついて来なさい」とおっしゃる方は、魚を思いのままに集めることができるお方です。イエス様が私たちの生涯の全て、存在の 全てに責任を取ってくださると言っているのです。ついて来るものたちのためにご自分の命をお捨てになる方がいる。生かしてくださる方がおられるの です。

+ 私たちは、自分の決心や自分の思いでイエス様に従うことはできません。そこに高慢と恐れがあるからです。しかし、イエス様が私たちに従うことを求 めておられるなら、イエス様は、時間をかけて、溢れる愛と温かさで包み、私たちの高慢と恐れを取り除いてくださるでしょう。そして、「ついて来なさい」という言葉に素直に「はい」と答えることができるようにして下さる時 が来るでしょう。今、従うことが難しいと感じることがあるなら、無理をせずに、「帰ってきなさい。わたしの所には、あなたがいる場所がある。あなたの休み場所がある」と言われるイエス様の言葉に耳を傾けましょう。そして、「私が本来いるべきところに帰りたいです」と申し上げることができますように。イエス様のと ころに帰ることができますように。また、もし「私についてきなさい」とイエス様が招いてくださっていると感じるなら、「イエス様、あなたについていきます」と申し上げることができますように。 イエス様は包んで下さいます。イエス様は待ってくださっています。イエス様の方こそ、私たちと共に生き、私たちと共に歩いてくださるのです。 共に祈りましょう。

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