「マタイの福音書」連続講解説教

岩なるキリスト

マタイによる福音書7章13~28
岩本遠億牧師
2007年3月18日

◆狭い門

7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

◆実によって木を知る

7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

◆あなたたちのことは知らない

7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

◆家と土台

7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

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今日学ぶ箇所は、イエス様の山上の説教の結論とも言うべきところです。「幸いなるかな!霊の貧しき者。天の御国はその人たちのものだ」という祝福の言葉で始まった山上の説教ですが、イエス様は、この結論の中で私たちにどのような祝福を語っておられるのでしょうか。

ここには、対となる言葉がいくつか挙げられています。「狭い門と広い門」「良い実と悪い実」「天の父の御心を行うものと行わないもの」そして「岩の上に建てた家と砂の上に建てた家」。これらは、別々のことを言っているのではなく、全て一つのことを言っています。それは、「私たちの希望は、ただイエス様だけにある」ということです。「謙遜」と言う言葉によって表される、私たちとイエス様との関係です。

イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と仰っています。この「狭い門」という言葉に、皆さんは、どのようなイメージを持つでしょうか。一般に「狭い門」というのは、一流大学の入試や司法試験など合格するのが難しいものを指します。人よりも一生懸命勉強し、努力した者に与えられるものです。しかし、イエス様は、人よりも頑張った者が祝福されると仰っているのでしょうか。22節、23節を見ると、イエス様の御名によって行われた努力や業さえも、人を救う力はないということを仰っています。

「狭い門」は、潜り抜けるのが大変な門という意味です。つまり、身を屈め、あるいは、ひれ伏さなければ通り抜けることができないような門を意味します。人の目線よりもずっと低いところにある。だから、見出す者が少ないと言われているのです。一方、「広い門」とは背の高くて大きな門です、皆が立って、堂々と歩いて通る門です。

では、一体ひれ伏さなければ通ることができない門とは何でしょう。これを理解する鍵が、21節~23節です。

7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

天の国に入る条件が教えられています。私たちは、自分が行った行為によって天国に入れると思いやすい。イエス様の御名によって預言する。イエス様の御名によって悪霊を追い出す。イエス様の御名によって奇跡を起こす。こういうことは素晴らしいことです。しかし、これによっては天国の門は開かないというのです。イエス様に向かって、「私はあなたの御名によって預言しました。だから天国に入れてください」と言っても、イエス様は、「あなたとわたしは何の関係もない。あなたのことは知らない。不法を働く者、離れ去れ」と言われるというのです。

もう少し私たちの感覚で分かるような例ですと、教会で奉仕をする、献金をする、熱心に伝道する、また弱っている人を助ける、そのような行いは立派ですし、素晴らしいです。しかし、そのような行為が天国の門を開く鍵となるかというと、そうではないと言うのです。そのように、自分の行為で天国に入ろうとする人が多い。それを「広い門」、立って堂々と歩いて入る門だと言うのです。しかし、それは滅びに至る門だと。命に至る門は、自分の行いに頼らず、ただひれ伏し、「私を憐れんで下さい」と祈る者だけが通る門なのです。

イエス様は、ここで、「7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と仰っていますが、「わたしの天の父の御心を行う者」とは一体どういう人でしょう。また「わたしの天の父の御心を行う」とはどういうことでしょう。ヨハネによる福音書に次のような人々とイエス様との問答があります。

6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

「神がお遣わしになった者、すなわちイエス様を信じることが神の業だ」と仰っている。天の国に入るためのただ一つの方法がイエス様を信じることだと聖書は言うのです。

ところが、天国に入るためには、これこれの行為をしなければならないと教える偽預言者たちがいます。預言者とは、必ずしも未来のことを告げる人間ということではなく、神様の言葉を預かり、それを告げる、あるいは、教える者ということですから、偽預言者とは、神様の教えではないものを、あたかも神様の教えであるかのように教えるものという意味です。イエス様は、このように仰っています。

7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

ここでイエス様が仰っている偽預言者とは、「救われるためには、教会の奉仕をしなければなりません。一生懸命伝道しなければなりません。多額の献金をしなければ救われません」と教える者たちのことを意味します。ある意味で非常に分かりやすい。「1ヶ月間、毎日1時間祈ったらあなたは救われます。」「このプログラムに参加して、それを終了したら、あなたは救われます。」「財産を売ってそれを献金したら救われます。」このように言われると、「じゃあ、そうしよう」と思いやすい。自分の行為は自分で確認できますから、自分で確認できる行為によって救いが与えられることを多くの人は求めるわけです。あるいは、「救いの基礎はイエス様の十字架と復活にありますが、それを完成させるのはあなたの信仰です。一生懸命宣教活動をし、奉仕し、献金することによってあなたの救いは完成します」とか言われると、人は、そのように思い込みやすい。しかし、このような教えは、宣教活動、献金、奉仕に対する誓いを救いと交換条件とすることによって、人の心を縛り、マインドコントロールするものとなるのです。このような偽預言者がいる。彼らは、信仰深そうな言葉を使いますが、その内側は、強欲な狼で、人を食い物にしているのです。彼らが偽預言者であることは、必ず実によって明らかにされていきます。イエス様は、このことに警告を発しておられる。

多くの人たちが、行いによって救いを得ようとしている。それは広い大きな門です。しかし、天国に至る門は、ただ信じることによってのみ、ただひれ伏すことによってのみ開かれるのです。「主よ、わたしを憐れんでください」と言う者の前にのみ開かれるのです。

イエス様は、このようにひれ伏すことによって建てられる信仰を岩の上に建てられた家、行為の上に建てられる信仰を砂の上に建てられた家に擬えられました。

7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

「砂上の楼閣」というのは、聖書のこの箇所からできた言葉です。「砂」というのは揺れ動くものを意味します。今日はここにあっても、明日は別のところに動いていくものです。これは、自分の行為の上に建てられた信仰ということを意味します。なぜなら、私たちの行為というのは、揺れ動くからです。

もし、毎月これこれの金額を献金したら救われると言われて、そう信じて献金するとする。仕事がうまく行っているときはそれができるから救われている気がする。しかし、仕事がうまく行かなくなったりすると、そのように献金できなくなり、自分は救われないと思うことになるのです。これは、奉仕や祈りなどでも同じです。毎日1時間聖書を読んで祈れば救われると言われるとする。時間が十分にある時はできるでしょう。しかし、生活が変わって時間が取れなくなることもある。あるいは、心に酷い傷を受けて祈りたくても祈れなくなるときがある。もし、祈るという私たちの行為が救いの条件なのなら、祈れなくなる時、私たちの救いは崩れていくのです。

砂の上に建てられた家とは、このようなものを指します。揺れ動く私たち自身の行為の上に建てられた信仰は、人生に洪水が起こったとき、必ず倒れていく。だから、誰も自分の行いによっては救われないのです。

これに対して、岩の上に建てられた家とは何でしょう?岩とは聖書ではキリストのことを指します。揺れ動かないものです。私たちの救いは、イエス様を信じることだけにあるのです。何故か?イエス様は動かないからです。イエス様は決して変わらないからです。私たちがたくさん祈れるときも、祈れないときも、たくさん奉仕できる時も、できない時も、一生懸命伝道できるときもできない時も、変わらないのです。たとい、私たちが失敗し、罪の中に倒れたとしても、イエス様の愛は変わらない。イエス様は、私たちを握って下さっている。だから、私たちは救われるのです。

ローマ3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

イエス様が私たちの罪と失敗の全てを背負って十字架にかかり、罪をキャンセルし、蘇って下さった。この方を信じる私たちは救われているのです。天国に入れるのです。

賛美歌271に「いさおなき我を」という賛美がありますが、これを作詞したのはシャーロット・エリオットというご婦人です。彼女は、イエス様を信じていましたが、30歳で病気になり、教会にも行くことができないようになりました。教会で友人が礼拝を捧げている。教会の活動資金を集めるためのバザーをしている。そういうことを聞くけれども、彼女は、そのどれにも参加できない。自分で自分の世話をすることもできない。自分をどうすることもできず、落ち込みや苛立ちが襲ってくることもある。しかし、何もできない自分を愛し受け入れ、救って下さっているイエス様がいる。彼女は、このことを詩に書きました。Just as I amという詩です。7連にわたる詩ですが、その中の3つをご紹介します。

1.このままの私、何も申し開きすることもなく/ただ、あなたの血が私のために流されたから/あなたが私に来なさいと命じて下さっているから/神の小羊イエスよ、御許に参ります

2.このままの私を、あなたは受け入れ/歓迎し、赦し、清め/救って下さる/ただ、あなたの約束を信じただけでしたのに/神の小羊イエスよ、御許に参ります

3.このままの私、あなたの愛は、知らぬ間に/全ての壁を打ち壊してくださった/今、私はあなたのもの/そう、あなただけのもの/神の小羊イエスよ、御許に参ります

彼女は、この詩を含めて幾つかの詩を詩集として、匿名で出版しました。ある日、教会の牧師が、彼女に「良い信仰の詩集があるから」と、一冊の本をプレゼントしてくれました。それが自分が出版した詩集でした。ベッドの上で何もできず、ただ、イエス様に対する信仰を告白していたその信仰が、多くの人の慰めとなり、信仰の指針となっていたのです。

私たちの行いが私たちを救うのではありません。私たちの祈りが私たちを救うのでもない。ただ、イエス様の十字架の血、わたしたちのために注がれたイエス様の命が私たちを救うのです。これだけが、天国の門を開く鍵となるのです。

イエス様は、「わたしは、門である」と言われました。また、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われました。ただ、イエス様を通って、イエス様の十字架の血をほめたたえることによってのみ、天国の門はわたしたちの前に開くのです。

イエス様の前に謙遜になって、「主よ、よろしくお願いします」と言うのは誰でしょう?

祈りましょう。

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