「ルカの福音書」 連続講解説教

悪魔に勝利する生涯

ルカの福音書第2章1節〜20節
岩本遠億牧師
2021年11月7日

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 ルカの福音書 2章1~20節

ローマ時代の住民登録
1.ローマ市民を対象とするもの=軍役につくことができる者を把握するため
2.被支配民を対象とするもの =財産状況を把握し、搾取するため

ここで言われているものは、被支配民を対象としたキレニウスによる財産調査
=ユダヤ人にとってはローマ帝国による奴隷の扱い
→ユダヤ人の中に強い反発、反乱の勃発

ヨセフス 『ユダヤ古代誌』
ガウラニティス人のユダースとパリサイ人のサドーコスによる反抗運動
→党派間闘争、同胞市民間の殺戮合戦
→最終的にローマによる制圧(エルサレム神殿崩壊)

ヨセフとマリアが住んでいたナザレ
=ガリラヤの州都ツィポリ(ローマ式都市)の近郊、ツィポリ建設のために労働力を供給
→ヨセフも幼い頃のイエスもツィポリで大工として働いていたことは確実
→ヨセフは反ローマ抵抗運動の戦士としてイエスを育てるようなことはなかった。

住民登録の時も、ヨセフは抵抗運動に参加するようなことはなく、むしろマリア懐妊とイエス出生の秘密をナザレ の人々から隠すため、その機会を利用し、早々にナザレ を出て、ベツレヘムで数年を過ごした。養父ヨセフは、決して理想的ではない社会状況の中で現実的な判断をし、イエスを育てた。

ナザレ から数キロメートルに建設されたガリラヤの州都ツィポリの復元模型
ツィポリ ナザレから数キロのガリラヤ州都。石畳の広い道路とモザイクの道。ヘロデ・アンティパスによって紀元前6年ごろから建造。
ツィポリ 住居の石壁の跡。道はモザイクで埋め尽くされている
ユダヤ教(聖書の宗教)ではあり得ない偶像神(ヴィーナス)の精巧なモザイクもツィポリにはあった。
バッカスのモザイク。イエスはこのようなローマの宗教色が強い環境の中で育った。
ツィポリ 半円形劇場

当時、神の民イスラエルの救いについての一般的理解

イスラエルは神の選民=アブラハムの子孫
=アブラハムの祝福を受け継いでいる
・イスラエルの救いは外国の支配からの救い
・罪からの救いという概念はない

罪=神様との関係が失われている状態
=悪魔の支配下にある状態

罪からの救い=悪魔の支配からの救い

イエスの誕生
=反乱の噂が囁かれる不安定な社会で、誰にも知られない、隠された誕生。

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

受肉の意味

神が人となる=肉体の限界、痛み、苦しみを知る。
       心に悪魔(サタン)の誘惑を受ける。
       悲しみ、苦しみ、喜び、楽しむ。
       死の苦しみを味わう。死ぬ。

神が人となったからこそ、人を罪から救うことができる。
      =人の弱さ、悲しみ、痛み、死を体験する。
      →悪魔の支配とは何かを体験的に知った上で悪魔に勝利する

飼い葉桶=家畜の餌箱
   →人に受け入れられたい、認められたいという人の欲望(サタンの誘惑)に勝利する戦いを生まれた時から始めた。
    

羊飼いたち=社会の最も下層の人たち。家族を持つことも、裁判を受ける権利もなかった。城壁のある街に住む豊かな人々が所有する羊たちを育てる。人に受け入れられる、認められるということと無縁の卑しめられた人々。

救い主の誕生はこの羊飼いたちに知らされた。
人となった神が最も低められた人々と共に悪魔に対する勝利を喜び歌うため。 

イエス・キリストの勝利を歌う

悪魔に対するイエス・キリストの勝利

  イエス・キリストの十字架の血によって実現
       神と人との間の平和の実現
          人が神の栄光を表す
           ↓
「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
           ↑
  十字架の血による神と人との間に平和の実現

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

羊飼いたちの生活は変わらなかった。しかし、彼らは神を誉めたたえて生きる者となった。

人に認められること、受け入れられること(=欲望の実現)が私たちの救いではない。

Just to Be is a Blessing!
Just to be is Holy!   アブラハム ヘシェル

何がなければ幸せでない。あれがなければ幸せでない、という悪魔の囁きを打ち砕かれた。人はパンのみによって生きるのではなく、神の口から出る全てのもので生きる。イエスは生まれた時から、これによって悪魔に勝利しておられた。

悪魔を打ち倒した神の子イエス・キリストの存在に触れられることが私たちの救いなのである。

言うまでもなく、私たちは社会的に抑圧され、困窮している人を無視してはならない。彼らの尊厳を守るために自分の持てる物を差し出し、共に生きなければならない。イエスも抑圧され、卑しめられていた人々を生かし、彼らと共に生き抜かれた。

私たちは、自分自身が認められたい、受け入れられたいという思いを人の中に吹き込む悪魔を打ち倒したイエス・キリストと共に私たちも飼馬桶に共に横たわろう。十字架によって悪魔を打ち倒した十字架のイエス・キリストに私たち自身を横たえよう。

“それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。”
             ヘブル人への手紙 13章12~13節

関連記事