マタイによる福音書9章14節~17節
岩本遠億牧師
2007年5月20日
9:14 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。 9:15 イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。 9:16 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。 9:17 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
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「新しい酒は新しい皮袋に」という言葉は、現在の日本でも様々な場面で用いられ、それがイエス様が語られた言葉であることを知らない人も多いのではないかと思います。一般に理解されている意味は、「新しいことを行うためには、新しい受け皿、新しい仕組みが必要である」ということです。しかし、イエス様は、そのような表面的なことを仰ったのではありません。命の本質ということについて語っておられます。今日は、そのことを共に学びたいと思います。
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9節に「そのころ」と書いてありますが、元もとのギリシャ語の意味は、「それに引き続き」という意味ですから、場面としては、先週私たちが学んだマタイやその仲間の徴税請負人との食事の席での出来事と捉えるのが普通です。
ヨハネの弟子たちがイエス様に質問しました。「わたしたちとファリサイ派の人たちはよく断食するのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか。」ここで言うヨハネというのは、洗礼者ヨハネです。ヨハネはイエス様のさきがけとして、悔い改めのバプテスマを説いた人として有名ですが、イナゴと野蜜を食物とし、毛皮の衣を着ていたという、非常に禁欲的な生活をし、断食も良く行っていたようです。イエス様も最初は、ヨハネのグループに属する者と考えられており、ヨハネがヘロデ王に捕らえられた後、新たな宣教の働きをお始めになりました。ですから、ヨハネの弟子たちとは、ある意味で、イエス様にとっては親しい間柄の人たち、以前の仲間だったわけで、そのような人たちから批判を受けたということになります。
当時のファリサイ派の人たちは週に二度断食していました。これは、今もイスラム教の人たちが断食の季節にするように、太陽が昇っている間、断食するというものです。ユダヤ人の中では断食は敬虔の表れと考えられていました。断食は,それに伴う肉体的苦痛を通して,深い罪の自覚を表すものであり、恐れをもって神に近づく者の熱心な祈り、そして、悔改めの行為でありました。罪の悔い改めや人の罪の赦しを祈るとき、危急存亡の祈りなどを捧げる時に断食をしていました。ローマ帝国に支配され、神の民イスラエルが偶像礼拝者に辱められている。そのような状況の中で神の国の到来を乞い願い断食するのは正しい行為です。また、洗礼者ヨハネは、ヘロデ王の罪を指摘したため捕えられていました。彼の弟子たちは断食して祈っていたのです。そんな彼らの目から見たら、イエス様がローマ帝国のための徴税請負を行っていたマタイたちと一緒に食事をして楽しんでいる姿は我慢がならなかったのかもしれません。「今は、断食の時なのではないですか。灰をかぶり、断食し、祈る時なのではないのですか」というのが彼らの訴えだったのです。
それに対して、イエス様は何と答えておられるか。イエス様は、断食そのものを否定しておられるわけではありません。イエス様ご自身、伝道の公生涯にお入りになる前、40日40夜断食をして、悪魔の試みを受けられたと聖書は記しています。また、山上の説教の中でも、断食の時の心構えを説いておられます。人に敬虔な人だと思われるために断食をしてはならないと。ここでイエス様が仰っているのは、「今は断食の時ではない」ということです。
「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」と仰っている。「ここに婚礼の喜びがある」というのがイエス様の主張です。イエス様は花婿、花嫁は教会です。イエス様の周りには喜びが満ち溢れていました。重い皮膚病を患い、神様に呪われていると言われ、民の交わり、礼拝の祝福から切り離されていた人が、清められ、礼拝者としての実存を回復していました。神様の祝福を受けられないといわれていた外国人であるローマの百人隊長の信仰によってその僕が癒されています。また、罪による病のために中風になった人が、イエス様の一言によって赦され、立ち上がり、売国奴と呼ばれて、礼拝とは関係のない世界で生きていた徴税請負人たちが神の子の実存を回復しているのです。その他、大勢の人たちがイエス様によって癒されていました。ここに、イエス様がもたらした喜びが満ち溢れていました。健康の回復、神の子としての存在の回復、礼拝者としての実存の回復があったのです。
まさに、婚礼の喜び、飲んだり食べたりすることを止めることができないような喜びがありました。イエス様がいらっしゃるところには、このような宴席が設けられ、みんなが喜び楽しんだのです。ローマに支配されているかもしれない。洗礼者ヨハネは捕らえられているかもしれない。しかし、そのような外的な状況を跳ね飛ばすような喜びがあった。神の子イエス様がもたらした命は、そのような状況を呑み込むほどの力があったというのです。
先週、ある姉妹が、「この交わりは、私にとってのご馳走です」といっておられました。私たちの教会は、今この会場を時間で借りて礼拝をしていますので、一緒に食事会をしたりすることはできませんが、礼拝の後、短い時間でも一緒に茶菓を頂いて、交わり、楽しみたいと思っています。そのことを、「ご馳走だ」と言ってくださったこと、本当に嬉しく思いました。みんなで飲んだり食べたりしないではいられないような喜び、それはイエス様がもたらして下さった、イエス様が共にいてくださる祝福なのです。
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しかし、イエス様は仰いました。「花婿が取り去られる時が来る。その時は断食することになる」と。これは、イエス様が十字架にかけられることを意味します。弟子たちの唯一つの希望だったイエス様が捕えられ、十字架にかけられる。その時は、彼らは悲しみに満たされ、断食するでしょう。いや、食べ物が喉に通らないような苦しみを彼らは経験することになるのです。しかし、蘇ったイエス様は、また弟子たちと一緒に食事をなさいました。イエス様は、それほど弟子たち、愛する者たちと一緒に食事をすることを大切になさいました。イエス様が共におられるところ、そこに食事の喜びがあったのです。
律法の定めの中に、全焼の献げ物や罪の贖いの献げ物と共に大切な献げ物として和解の献げ物というのがありますが、献げ物として捧げた牛や羊を、神様の前でレビ人や家族と一緒に食べるという決まりです。神様との間に平和が与えられていることを喜び楽しむものです。イエス様は、癒された人々、赦された人々、清められた人々に神様との間に平和が与えられていることを、共に食事をすることによって証し、喜ばれたのでした。私たちの教会では、月に一度聖餐式を行いますが、神様の御前で罪を赦された者たち、神様との間に平和を得ている者たちが一緒に食べたり飲んだりする行為そのものが礼拝であるというのが、聖書の理解なのです。だから、イエス様はご一緒に食べることを大事になさいました。そこに赦しと平和というイエス様の喜びが満ち溢れていたのです。
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そして言われました。「新しいぶどう酒は、新しい皮袋にいれるものだ」と。新しいぶどう酒とは、収穫したぶどうを酒舟で踏んで潰したばかりの、発酵中の泡が沸き立っているぶどう酒です。古い乾いた皮袋に入れると、破れてしまいます。新しい柔軟な皮袋ですと破れることもなく、新しいぶどう酒を入れておくことができます。
イエス様がもたらして下さった、この新しいぶどう酒とはどのようなものだったでしょうか。それは病に苦しむものを癒す力、汚れた者を清め、罪を赦す十字架の贖い、死を打ち砕く復活の力、人を新しく造りかえる聖霊の注ぎです。礼拝から切り離されていた人々を礼拝者として祝福する力、罪の奴隷だった人々を神の子にする天来の命、沸き立つ力ある新しいぶどう酒でした。
この新しいぶどう酒を入れるためには、これまでの古い律法主義という皮袋ではなく、新しい皮袋が必要だとイエス様は仰いました。しかし、イエス様は、律法主義、パリサイ主義という古い皮袋しかもっていないお前たちは駄目だ。お前たちの中に入れたら、お前たちは滅んでしまうと言われたのでしょうか。あるいは、今、喜んでいるこの人たちを苦しみの信仰、悲しみの信仰で縛るな、そんなことをしたら、苦しみで張り裂けてしまう、と仰ったのでしょうか。言うまでもなく、お前たちは駄目だと仰ったのではありません。イエス様は、パリサイ人たちをも赦すため、十字架にかかられました。一方、苦しみや悲しみの信仰で縛るなと仰ったという理解は正しいものですが、イエス様はそのことだけを仰ったのではありません。
皆さん、どのように思われるでしょうか。はたして、イエス様のこの新しいぶどう酒を入れておくことができる新しい皮袋はこの地上に存在したのでしょうか?イエス様の新しいぶどう酒は、人々が新しい考え方をすれば蓄えておけるというような種類のものではなかったのではないでしょうか。天来のものと地上のものという質的な違いがありました。
私は、引き裂かれた皮袋から流れ出た発酵中の赤いぶどう酒を思い描いてみると、そこに十字架に引き裂かれたイエス様が見えてくるように思います。新しい葡萄酒とは、イエス様の血、古い皮袋とは、自分の思い、自分の意志、自分の力ではイエス様を受け入れることができなかった、この地上の人間を表しているのです。この肉を表しています。イエス様の癒し、イエス様の十字架の贖いと死を打ち砕く命をこの地上で入れておくことができる皮袋は存在せず、律法主義という皮袋の中、人々の罪という皮袋の中で、力強く発酵したイエス様の新しいぶどう酒は、それらを破り裂き、流れていった。古い皮袋に入れた新しい葡萄酒とはそれを表しているのではないでしょうか。赤いぶどう酒が古い皮袋を破って流れ出るように、イエス様の血は十字架から流れ出たのです。
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私たちは、自分が古い皮袋しか持っていない者、律法主義、悲しみの信仰、堅苦しい信仰しか持っていない者だと感じることがあるかもしれません。そんなことでは、イエス様の新しい喜びのぶどう酒、十字架の血を受け止めることができないのではないか。どうすれば、新しい皮袋になることができるのか。そんなことを考える人もいるかもしれません。私たちは、ここでイエス様が天に帰られた後、弟子たちの時代になってから、復活のイエス様に出会い、大伝道者となったパウロのことを考えてみたいと思うのです。
パウロは、非常に厳格なパリサイ主義者で、イエス様の十字架と復活を信じるクリスチャンたちを迫害するものでした。使徒言行録「9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。 9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
彼こそは、パリサイ主義者中のパリサイ主義者でした。エルサレムで育ち、学者ガマリエルの元でモーセの律法についての厳しい教育を受け、誰よりも熱心に律法を守らなければならないと考えていました。古く硬い皮袋だったのがパウロでした。彼は、ダマスコにいるクリスチャンたちを縛り上げエルサレムへ連行する権限を与えられて、ダマスコに向かっていましたが、ダマスコ城外で復活のイエス様が彼の前に立ちはだかりました。彼は強い光に照らされて打ち倒され、イエス様の声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」「主よ、あなたはどなたですか。」「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。」「主よ、わたしはどうしたらよいでしょうか。」「立ち上がってダマスコに行け。お前があなたがしなければならないことは、すべてそこで告げられる」と言われました。
彼は、三日間目が見えず、食事もすることができませんでした。確かに、イエス様という圧倒的な新しいぶどう酒の命に触れて、彼の皮袋は破れてしまったのです。しかし、イエス様はダマスコにいた、アナニアという弟子をパウロのところに使わされました。次のように書いてあります。
9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 9:11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。 9:12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」 9:13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 9:14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 9:19 食事をして元気を取り戻した。
パウロの皮袋は破れました。しかし、アナニアの按手によって、パウロは聖霊を注がれ、新しく生まれ変わったのでした。聖霊の宮となったのです。パウロは、この時から聖霊が自分の中に住んで下さるようになったことを経験しました。調子が良くても悪くても聖霊が住んで下さっている。イエス様の御霊、イエス様ご自身がパウロの中にすんでくださっている。パウロは、コリントにある教会に向けて次のように言いました。「3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(同6:19)。
古い皮袋だったパウロは、復活のイエス様に出会って破れてしまいました。しかし、聖霊によってパウロを新しい存在として再創造なさった方は、パウロを聖霊の宮、聖霊の神殿として下さったのです。これこそ、イエス様が造られる新しい皮袋です。
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私たちは、古い皮袋だった。いや、今もそういう部分が残っているかもしれない。しかし、それで良いのです。私たちに出会おうとしておられるイエス様がいるからです。イエス様に出会ったとき、イエス様の御霊を注がれた時、私たちの古い皮袋は破れてしまうでしょう。それまで大切に思っていた古い価値観が崩れていくようなことを経験するでしょう。あるいは、自分の中にあったパリサイ主義や、悲しみの信仰や苦しみの信仰が崩れ去ることを経験するかもしれない。しかし、イエス様の十字架の血は圧倒的な命として私たちの中に注ぎ込まれ、私たちを赦し、私たちを癒し、清め、新たにするでしょう。そして、私たちは、聖霊の宮として新しく創造され、新しい皮袋とされていくのです。どんな時にも共にいてくださるイエス様、どんな時にもこの中に住んで下さるイエス様を知るようになるのです。
イエス様が共にいてくださいます。私たちは喜びに満たされていくでしょう。イエス様が与えられた赦しが私たちにも与えられるのです。イエス様の癒し、イエス様の清めが私たちの中で現実のこととして経験されていく。共に喜ぶことができなかった者にも、イエス様の喜びが満ちていくでしょう。イエス様の十字架の血潮が私たちの中に満ち溢れるからです。
祈りましょう。