マタイによる福音書9章18節から26節
岩本遠億牧師
2007年6月3日
9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」 9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。 9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。 9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。 9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。 9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、 9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。 9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。 9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。
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先週はペンテコステ礼拝だったため、ヨハネの福音書から聖霊についてのメッセージをしましたが、今日は、マタイによる福音書に戻りたいと思います。マタイは、イエス様のガリラヤでの伝道の働きを、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と述べていますが、まさに、イエス様のいらっしゃるところに、人生の回復、存在の回復、神様との関係の回復が与えられていく、そのような命が満ち溢れていました。今日、私たちが学ぶ箇所も、イエス様が与えられた癒しが記されています。
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今日の箇所は、前回学んだ場面の続きです。イエス様が徴税請負人だったマタイやその仲間たちと食事をし、発酵中のぶどう酒が泡立つような喜びが溢れているところに、ある指導者がやってきました。彼はユダヤ人の会堂の責任者だっただろうと言われますが、イエス様の前にひれ伏して懇願いたします。
「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
喜びの宴席が行われ、今は断食の時ではない、喜びの時である、婚宴の喜びがここにあるとイエス様が語っておられるところに、死のニュースを持ち運んだ人がいました。しかも、その死人に手を置いてやってくださいと懇願している。これは、当時の状況から言うと、かなり常軌を逸したことでした。なぜなら、律法によると、死は汚れたものであり、死体に触れると、死の汚れを身に受け、清められるまで礼拝できないと定められていたからです。
しかし、この人がイエス様に「手を置いてやってください。そうすれば生き返ります」と言ったところに彼の信仰があったのです。彼は、イエス様の中に死そのものよりも強い力を見ていたのです。
すると、イエス様は宴席を立たれ、すぐに彼の後をついて行かれました。イエス様は、今最も弱っている者、最も悲しみ、苦しんでいる者を癒し、力づけるために、喜びの宴席から立ち上がり、一緒に来て下さるというのです。ここに私たちの救い主の姿があります。私たちも、そういうことを経験することはないでしょうか。教会で皆が喜んでいる。みんな何か新しい計画を立てようとしている。しかし、自分は一緒に喜ぶことができない。悲しみがあり、苦しみがある。あるいは、自分だけが汚れていると思うようなこともあるかもしれない。自分だけ仲間に入れない。そんな時、喜びの席から立ち上がって、あなたと一緒に歩いてくださるイエス様がいるのです。あなたの悲しみを取り除くため、あなたの痛みを取り除くために立ち上がり、自分が汚れることを厭わず、あなたがいるところについて来て下さるイエス様がいるのです。
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イエス様が会堂の指導者のあとをついて行っていると、弟子たちも大勢イエス様とご一緒しました。すると、12年間も婦人病のために出血が止まらない女性が後ろからイエス様に近寄ってその衣の房に触れました。
当時の男性は、長い長方形の布を折って、首を通す穴を造り、手を通すところを残して両側を縫ったものを頭からかぶり、帯を締めていました。その長方形の衣の四隅に青糸で作った房を付け、その房を見るたびに律法を思い出すようにと律法に教えられており、衣の房は信仰の表れとされていました。イエス様もそのような敬虔なユダヤ教徒の姿をしておられたのです。
他の福音書によると、この女性は、治療のために財産を使い果たしたけれども、それでも状態は悪くなる一方だったと書いてあります。健康状態も限界、経済的にも破綻し、どん底に喘いでいたのです。しかも、律法によると、出血や漏出は汚れとされ、礼拝に参加することができない。そればかりではなく、汚れたものに触れたものは汚れると規定されていましたから、彼女は他の人との接触を避けなければならず、正常な社会生活からも疎外されていたのです。
ですから、彼女が群集の中に紛れ込んだということ自体が禁止されている行為であり、人に分からないようにイエス様に背後から近寄ったのです。イエス様の信仰の表れである御衣の房に触れることさえできれば、治ると信じて手を伸ばしました。彼女は誰にも見られたくなかった。大勢の人がイエス様を取り囲み、押し迫るようにしていました。そして、誰にも分からないように触れました。ルカの福音書によると、その時、血が止まったのが分かったと書いてあります。イエス様は振り向き、誰が自分に触ったか探されました。彼女は、叱られるかもしれないと思いましたが、恐る恐る事の次第を全て申し上げたところ、イエス様から次のような言葉を頂きました。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
この女性を救ったものは何だったでしょうか。それはイエス様の中に満ちていた命です。イエス様の命が彼女を癒したのです。しかし、イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救った」と。彼女はイエス様が大勢の人々を癒しているという噂を聞きました。イエス様なら癒すことができると信じたのです。イエス様に声をかけてもらわなくても、手を置いてもらわなくても、ただ、御衣の房に触れるだけで自分を癒すことができる力をイエス様は持っている。そのことを信じたのです。自分が出入りを禁じられている身であることを隠して近づきました。
人はどう思うでしょうか。汚れた人に触れると自分も汚れると言われていた社会です。多くの人が、この女性のそばにいて、自分も汚れてしまったに違いないと思っていたはずです。この人に対して怒りを覚えた人もいたに違いない。そのことを、この女性も恐れていた筈です。しかし、イエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その信仰を賞賛されました。社会的に差別され、礼拝から切り離されていたこの人に、「あなたの信仰が」と言われた。この言葉は、どんなにこの人の体だけでなく、12年間の間苦しみの中にあったこの人の心を癒したことでしょう。そして、この人に対して批判的な思いを抱いた人たちの口を封じたのです。
癒さしてくださるのはイエス様です。しかし、恐れる私たち、不安になる私たちに「あなたの信仰が」と言って下さるイエス様がいるのです。
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イエス様は、会堂の指導者の家に行かれました。すると、そこに笛を吹く者や騒いでいる群衆がいたとあります。これは、葬儀の時に悲しみを盛り上げる「泣き女」といわれる人たちのことです。イエス様は、彼らを追い出して言われました。「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と。すると群集は嘲笑ったと書いてあります。
私たちも、死ぬことを永眠とか言ったりしますが、それは、比喩的な意味で言っているのであって、本気で眠っていると言っている訳ではありません。もし、誰かが本気で「眠っているんだ」と言ったら、失笑するか、あるいは、怒ると思います。しかしイエス様は、本気だったのです。イエス様は、死んだ少女を起こすためにやってきたからです。
そして、家の中に入って彼女の手をお取りになった。すると、彼女は生き返ったとあります。死体に触れるものは汚れる。これが律法の教えです。しかし、イエス様は汚れをご自分の身に受け、そして、命から隔絶されていた者に、命を与えられたのです。
ヨハネ11:25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
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12年間長血を患っていた女性、そしてこの死んだ少女、彼らには共通点があります。それは、命の喪失と、汚れという神様との関係の隔絶です。イエス様は、当時ユダヤ人たちが恐れた穢れというものを自分の身に引き受け、神様との命の関係を失った者たちに、命と実存の回復をお与えになったのです。預言者イザヤは、次のようにイエス様について預言しました。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
イエス様が癒されるとき、イエス様が命を与えられる時というのは、ご自分の命との引き換えに癒され、命を与えられたのです。自分は穢れを引き受け、他の人に清さを与えられる。これがイエス様の方法だった。それが、もっとも明確に表されたのが十字架だったのです。全ての汚れと呪い、罪と絶望を引き受け、信じるものたちに清さと祝福、義と希望を与えたのがイエス様の十字架です。
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私たちは、今日のこの箇所を読んで、イエス様の癒しということについて、さらに理解を深めたいと思います。それは、この女性も、生き返った少女もやがて死んだという事実と、この時に与えられたイエス様の癒しをどのように理解するかということです。ある人は思うかもしれません。この少女もやがて死んだ。もしそうなら、この時、生き返らせる必要はなかったのではないか。病も、癒されてもやがて人は死ぬ。癒すことの意味はどこにあるのかと。また、祈って病気が癒されるときと、癒されないときがある。癒されないとき、神様は私たちを見捨てたことになるのか。
何度がお話しましたが、パプア・ニューギニアに伝道に言った時、マーティンという死ぬばかりの人のために祈りました。彼は、最初の出会いでイエス様を信じ、そして死ぬばかりの体だったのに、イエス様の御名によって立ち上がり、周りにいた人々に、「イエス様は生きている。あなたたちもイエス様を信じたら救われる」と語りました。しかし、彼は、その数日後に天に帰って行きました。ある人たちは言いました。祈って立ち上がっても、その後死んでしまえば意味がないではないかと。
しかし、本当にそうなんでしょうか。私は、イエス様に出会ったときのマーティンの喜び、その輝きを見ました。そして、死の病に侵されながらも、家族に最後までイエス様を伝えようとし、最後まで自分の足で立とうとしたマーティンの中に、それまでとは全く違った天の命が宿っていたのを見ました。マーティンが何度も言った言葉、「大きな喜び。大きな喜び」、私は、その言葉と、それを語るマーティンの輝きを忘れることができません。肉体の死は、マーティンの喜びを消すことはできませんでした。マーティンの中に与えられた永遠の命の火を消すことはできなかった。彼の希望を消すことはできなかったのです。マーティンはイエス様に出会う前、霊的に既に死んでいたのです。しかし、イエス様に出会って、マーティンは蘇った。イエス様がマーティンを生き返らせたのです。そして、イエス様がマーティンに与えた命は、肉体が朽ちても、死ぬことはなかった。彼は今、イエス様と共に永遠に生きているのです。
私たちも、同様です。イエス様に出会う前、私たちは、肉体は生きていても、その霊は神様との関係を失い、暗闇の中に死んでいたのではなかったでしょうか。しかし、イエス様に出会ったとき、私たちは生きたのです。イエス様の命が私たちを生き返らせ、永遠の命の中に生かしてくださるようになった。何れ、私たちは肉体を脱いで、天に帰るでしょう。しかし、この命は、永遠に失われることはないのです。
1コリント15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
また、私自身、神様から大きな癒しを与えられた者です。しかし、やがて私はまた病気になるでしょう。そして最後にはその病は癒されず、私は天に帰ることになる。しかし、私は、神様は私を癒してくださらなかったと言うことになるのでしょうか。決してそうではないと思います。また、私の存じ上げているクリスチャンの方々の中にも肉体の病を抱えながら、イエス様は私の癒し主ですと告白して生きている方々が大勢います。
私たちの存在の中に圧倒的な光と命を注がれる方が私たちの存在の中に切り込んできて下さることがある。その時、私たちはイエス様を信じるようになります。私たちは、全員それを経験するのです。肉体の癒しだけではありません。存在の中にあった大きな裂け目が癒される経験をするのです。そしてイエス様の本質を知る時、この方が私たちの存在を永遠に握って下さる方であることを知ります。この地上の生涯が全てではない。これはイエス様との永遠の絆の中に生かされる私たちにとっては、ごく小さな一部分なのです。それが分からない時は、病気が全てであるかのように思い、癒されないことを恨みに思うようなことになりかねない。病気が自分の尊厳を汚していると思うからです。
確かに、律法の世界では、病気によって神様との関係を持つことができませんでした。病気によって汚れてしまうことは、神様との関係の喪失という重大な結果をもたらしたのです。しかし、イエス様は、十字架によって、全ての穢れを身に受けて下さった。全ての罪を身に受けて下さった。もう私たちは、病気や汚れによって神様との関係を失うことはないのです。病気のまま、礼拝に来ることが許されている。そして癒されていくのです。
今や、イエス様に出会った者の尊厳を汚すことができるものはありません。イエス様があなたの尊厳を守られるからです。病気や人生の苦しみは、神の子としてのあなたの輝きを曇らせることはできないのです。病気は苦しい。困難も辛い。しかし、それらは、私たちの存在の中で一番重要なことではなくなるのです。この朽ち行く身の中に永遠のイエス様が生きてくださる。これが私たちにとって最も重要なこととなる。これが私たちにとっての救いであり、癒しなのです。
その時、私たちはイエス様に向かって大胆に祈れるようになる。私の愛する者を癒してくださいと。私たちは主の癒しを経験していくでしょう。主が私たちをどんなに愛して下さっているかを知るようになっていくのです。
伝道者パウロほど、逆説的な生涯を歩いた人はいないかもしれません。彼は、イエス様の福音を伝えるための伝道旅行に行くのに、盗賊に遭う、船は破船する、迫害にあって投獄されるという苦難を与えられます。また、自分はイエス様の御名によって多くの人の病気を癒すという働きを与えられるのに、自分自身の病気は癒されない。彼は、3度徹底的に自分の病気の癒しについて祈りますが、聞き入れられませんでした。イエス様に言われます。「わたしの恵みはお前には十分である。わたしの力は、弱さの中に完全に現れるからだ」と。彼は、自分の病気という弱さを通して現れてくださるイエス様の圧倒的な臨在を経験しながら、他の人を祈りによって癒し、癒し主としてのイエス様を明らかにしていくのです。ここに彼の強さがあったのです。
だから、わたしたちは大胆に祈りたいと思うのです。わたしたちの祈りがすぐに答えられる場合もあるし、そうでない場合もある。しかし、私たちが願ったようにすぐに癒しが与えられなくても、そのことで、私たちは自分の信仰を責める必要もないし、神様の名誉が傷つくのではないかと恐れる必要もないのです。イエス様が癒し主であることは永遠に変わらないからです。イエス様は、わたしたちの全てを見てくださり、わたしたちの全てを知って下さっているからです。イエス様は、私たちの全てを癒してくださるからです。