「マタイの福音書」連続講解説教

真実の王

マタイの福音書27章27節から56節
岩本遠億牧師
2008年11月23日

27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。 27:28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。 27:29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」 27:30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。 27:31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。 27:32 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。

27:33 ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、 27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。 27:35 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、 27:36 そこにすわって、イエスの見張りをした。

27:37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。 27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。 27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」 27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。 27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。 27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」 27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。 27:47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。 27:48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。 27:49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。 27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。

27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。 27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。 27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。 27:54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。 27:55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。27:56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。

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今から数年前にメル・ギブソンが作った「パッション」という映画が評判になり、多くのクリスチャンたちも見に行きましたし、伝道集会などでDVDを上映したところも多かったようです。それを見て感動なさった方も多いようでしたが、メルマガの読者の数名の方々からご相談を受けました。「私は、あの暴力シーンを最後まで見ることができませんでしたし、二度と見たいとは思いません。あれを最後まで見て感謝することができなければイエス様の十字架を信じていることにならないのでしょうか。私はクリスチャンとして失格なのでしょうか」と。

私は、そのような方々に「暴力シーンを直視できることがイエス様を信じることではないので安心して下さい」とご返事を書きました。イエス様は、むしろ私たちがあのような暴力シーンを見ることがない世界の実現を願っておられると私は信じます。

私自身は、別の意味でパッションという映画に違和感を覚えていました。それは、聖書がイエス様の受けた肉体的な苦しみということに触れていないという事実です。はっきりしていることは、イエス様が受けた肉体的な苦しみによって私たちが救われたのではないということです。しかし、あの映画では、肉体の苦しみに焦点が置かれているため、聖書が言っていることとの間にずれがあるのではないかと思っていたのです。

また、映像を見てしまうと、聖書を読んだ時に受ける内的な印象が上書きされ、打ち消されてしまうため、パッションを見てしまうと、イエス様の十字架というとあのシーンが目に浮かんでしまう。それだと、聖書が語るイエス様の十字架の意味を自分のイメージとして、また言葉として理解することを阻害してしまうのではないかと思いました。その思いは今でも変わっていません。

先ほども言いましたように、聖書はイエス様の肉体的な苦しみについては語りません。むしろ、全てに否定され、低められ、弱くなった王の死を語るのです。ピラトはイエス様に「あなたはユダヤ人の王であるか」と尋問しました。またローマの兵士たちは、イエス様を愚弄し、「ユダヤ人の王さま万歳」と言って嘲弄しました。十字架に架けられたイエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれ、ユダヤ人の指導者たちも「イスラエルの王なら、今すぐ降りて来い」と言って嘲るのです。

ここで問題とされているのは、「ユダヤ人の王」「イスラエルの王」とは一体何かということであります。クリスマスのシーズンとなりましたが、東方の賢者たちが不思議な星に導かれてエルサレムにやって来た時、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と質問したとマタイの福音書は語っています。まさに、この福音書は、「ユダヤ人の王」「イスラエルの王」とは一体何か、それは一体誰なのかということを語り続けるのです。

一般に王とは何でしょうか。王とは、古代社会においては絶対権力者です。剣をもって支配するものです。人を自分の前に跪かせるものです。現代の社会において絶対権力者としての王はほとんど姿を消しました。しかし、いろいろな形で社会や組織の頂点に立ち、人を思い通りに動かそうとする欲望は人の中から消え去ったわけではありません。

しかし、この方は、そのような意味において、全く人の思い描く王のようではなかった。彼は、イスラエルの王として生まれたのに、彼は剣の道を捨て、誰も自分の思うようには支配せず、誰も屈服させず、むしろ、徹底的に人に仕え、自分を無にして僕となられたのです。

人々は嘲弄しました。「もしイスラエルの王なら、十字架から降りて来い」「もし、神の子なのなら、神に助けてもらえ。そうしたら信じよう。」これは、イエス様が伝道をお始めになる時にサタンがイエス様を試みた時の言葉と同じように聞こえます。「もしあなたが神の子なのなら、自分の思うように自分の苦しみを解消し、奇跡を起こして自分が神の子であることを証明すればよいではないか。」しかし、イエス様はサタンの試みを一つ一つ退けて行かれました。

今、もしここでイエス様が奇跡を起こし、十字架から降りて来られたら、彼らは信じたでしょうか。彼らは恐れたでしょう。彼らは跪いたでしょう。しかし、イエス様はそうなさらなかった。イエス様はご自分の力で人を押さえつけること、人を屈服させることによって人を支配することを完全に放棄しておられます。神の子の尊厳も、イスラエルの王としての権威も全てを失って、もう自分の力で動くこともできない、低められ、卑しめられたどん底の状態から、彼らのために祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているか分からないでいるのです」と。

イスラエルの王とは何か。全人類の王とは何か。またこの方を信じる、この方を自分の王とするとはどういうことなのでしょうか。イエス様は言われました。「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人の贖いのため、自分の命を差し出すためです」と。

人の罪の根源は何でしょうか。それは高慢です。神様だけが持っておられた善悪の決定権を自分のものにしようとしたのがアダムとエバの罪だったのです。善悪を自分の都合に合わせて、自分の気分で決めようとする。これが人の罪の根源なのです。そこからあらゆる具体的な罪が生じ、人間を地獄に縛りつける。これを打ち破る力を持った方、この方だけが真の王、真実の王であります。

しかし、この高慢という根源的な罪を打ち破るために、イエス様は徹底的に低くならねばなりませんでした。あらゆる侮辱と辱め、嘲弄と愚弄、嘲りを受けて低められた。そして、全人類の罪の刑罰を受けるために、ついに父なる神様から見捨てられるという低さにまで落ちて行かれたのがイエス様だったのです。イエス様は詩篇22篇の冒頭の言葉を叫ばれました。「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。最愛の父なる神様に見捨てられ、打たれるほど低くならなければ、人類に救いは来なかった。わたしに救いは来なかった。マタイの福音書はこのことを語っています。

まさに、全人類の罪をその身に受け、父なる神様との関係をも失って、地獄の底にまで落ちていく。最も低い、最も卑しめられた状態の中から私たちの罪の赦しのために祈られた方、この方が私たちの王です。全人類の王です。この方の謙遜、この方の十字架の血潮が私たちの罪を赦し、私たちを生かしたのです。この方が、地獄の底にひれ伏して祈られたからです。この方の死、この方の真実が罪の力を打ち滅ぼし、私たちを神の子としました。父なる神様は、この方を地獄の底から引き起こし、蘇らせ、ご自分の右の座につかせられました。

私たちがこの方を自分の王とするとはどういうことでしょうか。それは、この方が人を屈服させなかったように、私たちも力によって人を押さえつけないことです。自分が正しいと思うことはあります。相手が間違っていると分かる時もあります。しかし、そんな時、自分の持っている力で相手をねじ伏せない。ただ、彼らのために自ら低くなり、自分の心を注ぎだして祈ること、これが私たちの王が私たちに願っておられることなのです。

子供のこと父のこと

クリスマスが近づいていますが、イスラエルの王としてやって来られた方は、私たちが王に期待するようなものは何も持っていらっしゃいませんでした。貧しい両親の家に生れました。取り上げてくれる助産婦もなく、家畜の餌箱におかれたのが私たちの王です。その人生の最後は、愛する弟子たちに裏切られ、見捨てられ、同胞のイスラエル人から売られ、異邦人によって十字架に殺されました。しかし、彼は、自分を打った者たち、自分を捨てた者たちを生かす者であった。彼らに永遠の命、神の子の立場と尊厳を与える方だったのです。この方の真実が私たちを救いました。

この方こそ、私たちの王、私たちの主です。祈りましょう。

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