マルコの福音書第11章27節~33節
岩本遠億牧師
2017年9月3日
11:27 彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。
11:28 そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
11:29 そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。
11:30 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
11:31 すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。
11:32 だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」――彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
11:33 そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません。」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。
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自由と責任:社会一般における行動規範
自由と権威:聖霊が与える人間の尊厳
宮清め→祭司長、律法学者によるイエス殺害計画
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11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、 11:16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
11:17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
11:18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。
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祭司長、律法学者たちの殺意の中、自由に神殿やエルサレムの中を歩き、教え続けるイエス
イエスの自由の源は何か?
祭司長、律法学者たちの質問=×質問 ○抗議
祭司長、律法学者の意識
神殿業務=律法に基づく
=神からの権威によって行っている
イエスは、神殿管理者の許可を受けずに、自分勝手に神殿業務を妨害し、有害な教えを教えている
イエスは質問に対して質問で応じる
=ユダヤの伝統的議論の方法
イエスの質問→祭司長、律法学者たちの表面的意識の背後に隠れた不真実を明らかにする
祭司長、律法学者たちの判断の基準=自分の立場、群衆の目
本当はどう考えていたのか?
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マタイの福音書
3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。 3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
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パリサイ人=律法学者
サドカイ人=祭司たち
ヨハネの働きを神からのものと受け止めた。しかし、神への立ち帰りにふさわしい実を結ばなかった。
自分の立場、人の目を基準にするから。自分を、自分の正しさを基準にするから。
主イエスの自由は何処から来ていたのか?
二日後には捕えられることが分かっている状況の中で何故イエスは自由に歩き、自由に語ることができたのか?
自由に歩き、自由に語ったから捕えられ、殺された。
イエスの権威の源⇔この世の権威の源
主イエスの自由の根源=父なる神の真実、内なる聖霊
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ヨハネの福音書5:19
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」
ヨハネの福音書
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。8:32 そして、あなたがたは真理(神の真実)を知り、真理(神の真実)はあなたがたを自由にします。」
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ローマ人への手紙
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
コリント人への手紙第二
4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
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「主は、御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」コリント人への手紙第二第3章17節~18節