「マタイの福音書」連続講解説教

私たちを完成する愛

マタイの福音書第5章43節〜48節
岩本遠億牧師
2019年9月15日

『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。マタイの福音書 5章43~48節

意志によってコントロールできる行為と
できない行為

○食べる、歩く、走る
✕失神する、躓く、目覚める、老いる

「完全である」「敵を愛する」「迫害する者のために祈る」
は自分でコントロールできるか?

意志によってコントロールできる行為の命令形
→命令の意味

意志によってコントロールできない行為の命令形
→人の場合、願いや呪い

「雨、雨、降れ、降れ」・・・降るかどうか分からない
「明日天気にな〜れ」・・・天気になるかならないか分からない

全能の神による命令→必ず実現する
「あなたがたの天の父が完全であられるよう、あなたがたも完全であれ!」→必ず完全になる

「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。」

自分を迫害する者のために何度祈れば良いのか?
1回か?10回か?100回か?
99回は祈れたが、1回は祈れなかった人。
99回は祈れたなかったが、1回祈れた人。
どちらが神の子になれるのか?
昨日は祈れたが、今日は祈れなかった人は神の子になれるのか?         
          ↑
   根本的な前提と理解の誤り
人間の祈りという行為によっては神の子になれない

「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。」     

前提:あなたがたはこの方の子供である 

天におられるあなたがたの父は、敵を愛し、迫害する者のために祈る愛の方だ。愛そのものだ。あなたがたはこの愛に満たされ、父に似た者となる。

天の父はどのようなお方か?

「父は、ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」

父なる神の愛=良し悪しを超えた愛
           感情を超えた愛
命の根源

人間の愛・・・自分の都合によって左右される

父の本質である「この愛」に満たされ、この愛が君たちの内面を支配するようになる
→「この愛」が、君たちの中で敵を愛し、迫害する者のために祈るようになる。

主イエスは、これをご自分の生涯において実証なさった。

主イエスは、ご自分を十字架に釘付けする者たちのために祈り続けられた。主イエスの中に満ちていた「この愛」が十字架の苦しみにおいて自己を現した。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全であれ。」

自分の祈りという行為によって完全となるのではない。自分の愛の行為が自分を完全にするのでもない。

父なる神様の中に満ち満ちていた愛という実体、すなわち、父なる神様ご自身が、私たちの中に入ってきて、私たちを完全な者とする。

私たちが祈り得ない祈りを、聖霊が私たちの中で祈ってくださる。

神様ご自身がそうすると約束。

「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならない呻きを持って、とりなしてくださるのです。」ローマ8:26

初代教会時代の伝道者ステパノ
最初の殉教者、この門外で殉教

神殿礼拝主義を否定
神がお住みになるのは、人である。
人こそ神殿である。

「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」
→人々は殺到して、ステパノを石打ちにして殺した。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊を受けてください。」そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

主イエスの十字架の祈り
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。」

主イエスの御霊ご自身がステパノの中にいて、ステパノを主イエスに似た者とした。

私たちの祈り=聖霊に満たしてください。聖霊よ。私たちを満たし、私たちの内側で、私たちの祈り得ない祈りを祈ってください。

第二コリント3:17-18
「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

関連記事