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第1章 聖霊と十字架の血

あかしするものが3つあります。御霊と水と血です。この3つが1つとなるのです。ヨハネの手紙第一5:8

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私たちは、この書でイエス・キリストの血とそれが私たちの内側で成し遂げる栄光に富んだ数々の御業とその結果とを考察しようと思います。しかし、その前に、私たちの目の前にある一つの問題を克服しければなければなりません。それは、私たちがキリストの血の祝福と力を享受していないことが多いということです。これには原因があります。それは、キリストの血がもたらす利益がどのようなものであるのか、また、キリストの血がどのようにしてそれらを成し遂げるのかということを、私たちが明確に理解していないということです。ある程度は理解している場合もあるでしょう。しかし、主の十字架の血と常に生き生きと恊働していなければ、その御力を常に経験することはできないのです。

このような問題は、この血潮に関する神の御思いを私たちが覚えていないことから生じます。実に神は、この血潮を、命ある力、自動的で、そして、絶えず私たちの内側で御業を行なう実体としてあらかじめ備えてくださっているのです。神は、聖霊と十字架の血を決して分離することができない一体のものとなさっています。ですから、私たちも、聖霊の力に依り頼み、十字架の血が私たちの中で絶えず力ある働きをしてくださるよう期待しようではありませんか。

上にこの章で用いる聖書のことばを掲げておきました。これが表す思想は以下のとおりです。この手紙を書いた使徒ヨハネは、これに先立つヨハネの手紙第一第4章?第5章において、イエスにある信仰について語り、そして、読者の注意をこの信仰が依って立つべき証言へと向けさせています。使徒ヨハネは、ここでイエス・キリストを証言する3つの実体に言及します。

「水」

これは、外に向けて行われる人の行為で、神がお命じになったものです。罪から立ち帰り、洗礼において、自分自身を神に差し出した人々が守らなければならないものです。

「十字架の血潮」

これにおいて、私たちは神が現実的で生きた罪の清めをもたらすために、何をなさったかを見ます。

「聖霊」

聖霊によってこそ、これら両者の証言が確かなものとして確認されるのです。

この章で私たちが思いを集中させるのは、聖霊と十字架の血がイエス・キリストを証言するものとして1つであるということです。そして、このことこそが私たちの信仰の基盤となる真理なのです。

聖霊と十字架の血が分離されることのない一体であることを以下の2つの点に分けて考察しましょう。

1. 贖いの業において

2. 私たちの個人的な経験において

I.贖いの業における聖霊と血潮の一体性

ここで私たちが注意を向けなければならないのは、聖霊を通してのみ、十字架の血が力を持つということです。ヘブル人への手紙第9章14節に次のように記されています。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とするでしょう。」

十字架の血は、永遠の御霊によって私たちを清め、生ける神に仕えるに価するものに造り変える力を持っています。この永遠の御霊は、主イエスがその御血を注がれた時、その中におられた御方です。これは、単に聖霊が主イエスの中におられ、彼の人格とその血に神聖な価値を与えたということを意味するだけではありません。次のことも意味しているのです。すなわち、イエスの血の注ぎかけが永遠の御霊によって行われたということ、そして、その御霊が十字架の血の中に生き、働いたということです。その結果、十字架の血が注ぎ出され時、それは死んだものとして朽ち果てることはできず、むしろ、生きた現実の実体として天に上げられ、その聖なる力を天から行使するようになったのです。

この故に、御霊はここでことさら「永遠の御霊」と呼ばれているのです。「永遠」という言葉の意味は、全員が理解していると思っているかもしれません。しかし、それが持つ深淵で栄光に富む意味を理解している人はほとんどいないのです。

一般に「永遠」とは、永続的、すなわち、終わりがないものと理解されています。この説明は、否定による定義であり、「永遠」の否定が何か(すなわち、終わりがある)ということしか教えてくれないものです。このような定義は「永遠」の本質とその存在(実存)については何も教えてくれていないのです。時間の中に存在するものは、始まりがあり、増加と減少、すなわち、生起と消失の法則に従います。

しかし、永遠の存在は、始まりもなく、変化も、弱化もありません。なぜなら、永遠はそれ自体の中に時間から独立した生命(いのち)を有しているからです。永遠なるものの中には、既に過ぎ去って失われた過去も、これから起こる未来もありません。ここには、栄光に満ちた終わりのない現在だけが常に存在しているのです。

ですから、聖書が「永遠」の命、「永遠」の贖い、「永遠」の喜びと言う時、これらは、単に終わりを持たないということを意味しているのではありません。それよりもはるかに豊かな内容を意味しているのです。この言葉が私たちに教えることは、永遠の祝福に与る者の中には、終わりのない生命(いのち)の力が今現実に働いておられるということです。その中では、変化や減少による衰えなどは決して起こりません。したがって、私たちは、その中で満ち満ちた生命(いのち)をいつも喜ぶことができるのです。これが祝福を与えるということです。

聖書がこの言葉(「永遠」)を用いるのは、次のことを教えるためです。すなわち、もし私たちの信仰が永遠なるものをしっかり掴んでいるなら、それは、私たちの揺れ動く心や感覚を凌駕する力として現れるということです。それは、決して老いることのない若い命、一時も萎えることのないみずみずしさをもって現れるのです。

この聖書の言葉から、私たちは「永遠の御霊をとおしてご自身を傷のないものとして神に捧げられた」イエスの血について学ぶことができます。イエスが血を注ぎ出した行為が永遠に価値あるものであったというだけでなく、その血潮そのものが「霊」(聖霊)と「命」(永遠の命)をその中に持っているということを知ることが重要です。血潮は、永遠の命の力によって効力あるものとなるのです。この故に、ヘブル人への手紙は、キリストの御業を、ただ一度の、そして、永遠の御業であると強調しています。

ヘブル人への手紙第7章の表現に注意しましょう。「あなたは、とこしえにメルキゼデクの位に等しい祭司である」(17節)。「永遠の命の力によって」(16節)。彼は、「決して変わることのない祭司職」にあります。それ故に、「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自身によって神に近づく人々を完全に救うことができになります。キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」(24, 25節)。彼は、「永遠に聖とされた御子なのです」(28節)。

さらに、次のように書かれています。「ご自身の血によって、ただ一度、(まことの)聖所に入り、私たちのために永遠の贖いを勝ち取られました」(9章12節)。「キリストは、ただ一つの捧げ物によって、聖とされた人々を永遠に完全なものとなさいました/完成なさいました」(10章14節)。さらにヘブル人への手紙は、とこしえの契約の血についても語っています。御血は、永遠の御霊によって、生命の力を獲得したのです。この生命の力は、永遠で、常に効力があり、常にみずみずしく、他に依存せず、朽ちることのないものであります。

しかし、逆もまた真であります。御血が聖霊をとおしてその力を有しているように、聖霊もまた御血をとおしてのみ、その完全なる力と働きを、人々の間にありありと現すのです。

私たちは、御血の注ぎが聖霊の注ぎに先立ったことを知っています。そして、このことの理由も私たちは知っています。罪によって、隔ての壁が神と人を分離してしまい、「肉」が神と人とのまことの合一を不可能にする覆いとなってしまったのです。罪が贖われない限り、神は、その霊において、人の心の中に宿ることができませんでした。肉の力が砕かれ、征服されるまでは、聖霊はその権威を現すことができなかったのです。この理由によって、旧約聖書の時代においては、聖霊の注ぎそのものについては語られなかったのです。後の時代に起こるべき聖霊の注ぎに関する預言を除いては。

私たちの主イエスも、ご自身がお受けになった聖霊を弟子たちに与える立場にはありませんでした。主は彼らをご自身との親しい交わりの中に置き、彼らを深く愛し、彼らの祝福を祈っていたにもかかわらずです。

私たちの主は、ご自身が聖霊のバプテスマを与えることができるようになる前に死ななければならなかったのです。血は人の命であり、聖霊は神の命です。人は、自分の朽ちるべき命の中に、永遠の生命(いのち)をもたらす神が住んでくださることを求めます。しかし、その前に、人は自分の罪深い命を義性とし、自分の罪の罰を受け、自分自身を完全に神に明け渡さなければならないのです。しかし、[自分の命を義性にしてなお生きていることができない人間には、このことを為すことはできません。]

人が自分自身で為すことができなかったことを、人の子、私たちの主イエスが人のために為してくださいました。主イエスはその御血を注がれました。ご自分を完全に明け渡し、罪の罰の償いとして、ご自分の生命(いのち)を神のご意志の許にお捧げになったのです。それが成し遂げられた時、主イエスは父なる神から聖霊を受け、それを人に注ぎ与えることができるようになりました。御血の注ぎが聖霊の注ぎを可能にしたのです。

このことは、聖書の中で次のように明確に述べられています。「聖霊はまだ与えられていなかった。イエスがまだ栄光を受けておられなかったからである」(ヨハネ7:39)。さらに、「御使いは、また私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から流れ出ていた」(黙示録22:1)。

聖霊が川のように御座から流れ出たのは、小羊が父と共に玉座についた時だったのです。洗礼者ヨハネは、イエスについて2つのことを明言しています。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」、「この方こそ、聖霊によってパプテスマする御方である」。

私たちの大祭司にとって、ご自身の血を携えて「至聖所」に入ること、また、そこから出た後に、その御血を携えて神の御座の前に現れることが必要でした。それが成し遂げられた時に、主イエスは御座から聖霊をお与えになることができるようになったのです。そして、それは、「至聖所」における主イエスの御業が神と人との完全な和解となったことの証だったのです。御血と聖霊は分離することができません。なぜなら、御血をとおしてのみ聖霊は人の中に住むことができるからです。

贖いの御業の遂行においても、御血と聖霊の活動は強く結びつき、分離されることはありません。

このことの故に、聖書の中のある箇所では聖霊の働きとされることが、別の箇所では御血の働きとされているのです。聖化の働きは、御血と聖霊の働きとされています。生命(いのち)も両者に帰するものとされています。私たちの主は言われました。「誰でも私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を持つ」と。さらにその後で「聖霊は活かし、肉は何の役にも立たず」と付け加えられたのです(ヨハネ6:54, 63)。

同様の表現をエペソ人への手紙の中に見ることができます。パウロは、「あなたがたは、キリストの血によって近いものとされた」と言った後で、「私たちは、御霊によって父に近づくことができるのです」と言っています。ヘブル人への手紙においても、御血を嘲ることと御霊を嘲ることは同じ行為と看做されています。ここに、契約の御血を神聖ではないと考え、恵みの御霊を蔑む者についての教えを読むことができます(ヘブル10:29)。

私たちは、「血」という言葉が神によって選ばれた言葉であることに気が付いています。これは、ある思想、ある力、そしてある特徴を短く表現するためのもので、この言葉の中に、これらすべてが含まれていたし、今も含まれているのです。しかし、説教においても、また個人的な信仰の実践においても、これらの思想、力、特徴が完全な形で表現されているのを見出すのは必ずしも容易ではありません。[人が、自分の力でこれらを完全に表現しようとしても、それは不可能だからです。]

しかし、聖霊ご自身が、これをご自分の業としてお引き受けくださいました。特に信仰が御血の関わりにおいて行使される場合、完全にそれを表現してくださるのです。聖霊は、この御血という言葉の完全で、栄光に富んだ意味を説明し、それに命を吹き込みます。聖霊は、私たちに悟りを与えることによって、「十字架の血」という言葉に含まれる神の偉大な思想を私たちが明確に理解できるようにして下さるのです。しかも、私たちの頭がそれらを理解できるようになる前から、聖霊はそれらの力を私たちの魂の内側で働かせてくださるのです。

救いを求める心が遜って、敬虔にそれらがもたらす祝福を探し求めるとき、聖霊はそれらを与えてくださいます。さらに、聖霊は、御血の力を私たちの心に送ってくださるだけではなく、心の中に御血の力を力強く啓示してくださるのです。それによって、イエスが御血を流された時にイエスを鼓舞したのと同じ内的本質[内なる人]が私たちの内で目覚めるのです。次のように書いてあるとおりです。「兄弟たちは、小羊の血[...]のゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでも、自分の命を惜しまなかった」(黙示録12:11)。

聖霊の偉大な働きは、イエスの栄光を現すことです。イエスによる贖いという祝福された経験を与えることによって、人の心の中にイエスの栄光を輝かせることです。そして、御血が贖いの中心点であるがゆえに、聖霊は、私たちに御血の栄光を見させ、さらに、私たちの中でその栄光を現すのです。私たちは、この地に注がれた十字架の血については、罪の捧げものとの関連において、ある程度理解することができます。しかし、いと高き「至聖所」において、永遠の命の力をもって語り、かつ、働く御血を理解することは、私たちが生まれもった頭脳の範囲を超えています。聖霊は、その天来の命を与える力としてやって来られ、私たちに永遠の御血を正しく理解させるとともに、御血を現実の、生きた、内的な経験として与えてくださるのです。

御血の贖いの力に頼る信仰と聖霊の性格にたよる信仰、これは信仰の二大の真理であります。地上の教会が誤った方向に向く時に、これらはどちらも否定されてしまいますが、神の真の教会によっては、これらは堅持されているのです。御血が誉め讃えられ、説教され、完全な贖いの力として信じられるところでは、満ち満ちた聖霊の祝福の道が開かれています。そして、それに比例して、聖霊は、人々の心の中に真にお働きになり、常に人々をお導きになります。小羊の血において神の栄光を現すことができるようにして下さるのです。

「見よ、御座の真中に屠られた小羊が立っているのが見えた。それには7つの目がある。そられは神の七つの御霊である」(黙示録5:6)。御血と聖霊は共に小羊から流れ出て、共に小羊についての証言を行うのであります。

II. 私たちの個人的な経験における聖霊と御血の一体性

ここで個人的な経験における聖霊と御血の一体性ということを特に強調しなければなりません。それは、この真理が含む慰めと祝福が如何に豊かなものであるかを示すためです。私たちはもう一度この真理の2つの側面に注目しなければなりません。御血はその完全な力を、聖霊をとおして働かせるということ、そして、聖霊はその完全な力を、御血をとおして現されるということです。

御血はその完全な力を、聖霊をとおして働かせられます。信者は、救われた後、信仰についての疑問を持つようになりますが、私たちは、それに対する栄光に満ちた答えも持っているのです。イエスの血の力―その御血の中に見出される豊かで完全な祝福―について書かれたものを読むことによって、次のような疑問が出て来ることでしょう。

「どうして御血は私の人生においてもっと多くの実を結ばないのでしょうか。」

「どのようにして私はその完全な力を経験することができるのでしょうか。」

「私のように弱く、ほとんど何も理解していない人間にも希望はあるのでしょうか。満ち満ちた祝福を期待することができるのでしょうか。」

心から、そして、真実に答えを求める人は耳を傾けてください。聖霊は、あなたの中に住んでおられるのです。そして小羊と小羊の血の栄光を現すことが聖霊の職務なのです。

私たちが犯す誤りは、御血がそれだけでイエスを証言すると考えることにあります。私たちは、血潮の注ぎについて考えるとき、これが1900年前に行われたこととして振り返ると共に、信仰を働かせて、これを現在の現実のものとしても述べるのです。しかし、私たちの信仰はいつも弱いので、それが当然述べられなければならいようには、述べることができないでいると感じています。この誤った考え[御血だけがイエスを証言するという考え]の結果、私たちは御血がなされる力ある経験を自分のものとすることができずにいるのです。

誠実な心を持っている人の場合、この信仰の弱さは、御血の力に関する理解が不完全であることに起因しています。もし私が、御血は不活性なもので、私が自分の信仰によってそれを活性化しなければならないと考えるなら、私の信仰は弱く苦しいものとなるでしょう。

しかし、御血自体を全能者、常に活発な永遠の力と考えるとき、私の信仰は、初めて、真の信仰となるのです。そのとき、私は、自分の弱さは御血の力を妨げることができるようなものではないということを理解するでしょう。御血の力は、一つ一つの障害物を克服します。私は、この崇高な思想をそのまま受け取り、単純に御血を誉め称えれば良いのです。御血はその御力を私の中で現してくださるでしょう。なぜなら、神の永遠の御霊は、御血と共に、そして、御血の中に働かれるからです。

イエスが死んだとき、その血が罪と死を征服する力を持ったのは、永遠の御霊をとおしてではなかったでしょうか。その結果、イエスは永遠の契約の血によって死者の中から再び引き上げられたのです(ヘブル13:20)。

御血が聖なる光と命の領域に浸透して天にまで及び、父なる神と仲保者であるイエスとの固有の関係を持ったのは永遠の御霊をとおしてではなかったでしょうか。

御血が集められた無数の人々の上にその力を現し続けているのは、永遠の御霊をとおしてではなかったでしょうか。

私を神の子とし、私の中に住んでくださっているのは、永遠の御霊なのではないでしょうか。私は、神に依り頼んで、イエスの血の栄光を私の中で輝かせてくださいと祈ることが許されているのです。そうできることを、神に感謝しましょう。私は恐れなくて良いのです。弱さを感じる私たちの心の中に聖霊はご自身の業を行われるからです。

小羊の血の力を経験するために、その御前に自分自身をすっかり明け渡しましょう。それが子供のような心です。その中に、聖霊はご自身の業を行ってくださるのです。私たちは、聖霊が御血の全能の力を働かせ、私たちの中にそれを現してくださることを期待し、このお方に頼ろうではありませんか。

しかし、困難点がもう一つあります。私たちは、血潮がその効力において全能であることを一度認識したとしても、私たち自身がイエスの血と生きた共同作業を行っている間だけ、その効力が継続されると考える傾向があります。あなたは、自分が御血について考え、自分の信仰が御血と意識的に関わっている間だけ、御血はあなたの中でその力を現される、と考えてはいないでしょうか。

あなたは、人生の非常に多くの時間をこの世の仕事のために費やさなければなりません。あなたはこれらの時においてさえ、御血がその生き生きとした働きを全く妨げられずに続けておられるということを信じているでしょうか。しかし、御血は、あなたの状態に拘らず、あなたの中で生き生きとした活動を続けておられるのです。

あなたに必要な信仰とは何でしょうか。それは、あなたが御血について思いを巡らせることができない時も、自分自身を御血の聖化の力に確かに委ねるということです。あなたは、自分の魂が妨げられることなく、御血の祝福された活動のもとに置かれ続けていることを確信することができるでしょう。これが、「永遠」とか、御血によって買い取られた「永遠の贖い」という言葉によって私たちが述べてきたことの意味であり、慰めなのです。

永遠とは、「不滅の命の力」が瞬間瞬間に絶え間なく働くことを意味します。永遠の御霊をとおして、この尊い血は、絶え間なく効力のある永遠の命の力を有しています。私たちの魂は、更に大きな確信をもって、仕事に従事している時も、あるいは、慌ただしく、あくせくしている時も、自分自身を御血にゆだねてよいのです。なぜなら、御血の活動は妨げられることなく、その働きを継続しておられるからです。

豊富な水脈に繋がる泉は、昼夜を問わず、水を湧き出し、私たちを洗い、渇きを潤します。それと同じように、この祝福された命の泉の流れは、自分の主に思い切って期待する魂に押し寄せ、これを包み、これを満たすのです。

実に、聖霊は、全能で永遠の流れの命の源泉であります。そして、その流れとは、御血の祝福された力なのです。それゆえ、私たちを整えるのは聖霊ご自身であり、私たちが信仰によってこの命の流れを認識し受け取ることができるようにしてくださるのも聖霊ご自身なのです。

霊的なことがらは、霊的に識別されなければなりません。私たちの人間的な考えでは、天における「至聖所」(最も聖なる御方)の奥義を把握することはできないのです。これは、特に天における御血の語ることのできない栄光に関して真理です。ですから、私たちは深い恭順をもって聖霊についての教えに自分自身を委ねようではありませんか。聖霊が御血と共に、御血について証言してくださることができるよう、揺らぐことなく、畏れをもって聖霊を待とうではありませんか。

私たちは、しばしば御血の聖なる力を求めて熱心に祈りますが、肩の力を抜いて心を開き、聖霊に感化されるための時間を同じぐらい取ってはどうでしょうか。聖霊と御血は共に互いに対する証言を行ってくださるからです。永遠の御霊によって御血の完全な力が私たちの内側で行使されるようになるでしょう。

この真理にはもう一つ栄光に富んだ側面があります。すなわち、聖霊は御血をとおして、その完全な力を私たちの内側で獲得なさるのです。聖霊の注ぎが御血の注ぎかけとその天への翻訳[イエスがその血を天に持って昇ったということ]の後に行われたように、私たちの心にもこの原則が当てはまります。すなわち、御血が私たちの心の一カ所を獲得し、そこでどれだけ尊ばれているかという割合に従って、聖霊も自由にご自身の働きをなさるのです。

イースターの時、私たちは主の受難と復活を覚え、ペンテコステと祈りの日々に心を向けます。この時、私たちは主の御霊に満たされるために主を待つのです。(英語訳の翻訳者注:南アフリカのオランダ改革は教会では、長年にわたって昇天日とペンテコステの間の10日間を、絶え間ない祈りのために捧げることを守っていました。)

そのような訳で、毎年、私たちは思い出させて頂きますが、主の弟子たちが聖霊に満たされることが「聖霊によってバプテスマする御方」の御心であるのです。

「聖霊に満たされる」と聖書が言うとき、それは、特定の時、あるいは、特定の人々に与えられた特権ではありませんでした。むしろ、これは、イエスのために完全に生き、イエスとの交わりに生きるために、自分自身をイエスに明け渡す全ての信者に与えられる恩恵/特権として語られているのです。

ペンテコステは、単に、過去に起こり過ぎ去った出来事を思い出す時ではありません。永遠に流れる泉の開闢(泉が開かれたこと)を喜び祝うことなのです。これこそ、常に正しい方の約束であり、主に属する者たちの特徴です。私たちは聖霊に満たされるべきであり、満たされなければならないのです。

神の言葉が私たちに教えてくださった教訓は、聖霊のバプテスマのために必要な準備とは何かを示しています。最初の弟子たちにとって、これは主イエスにとっても同様でしたが、ペンテコステへの道はゴルゴタから続いていました。聖霊の注ぎはそれ以前に行われた血の注ぎと分ち難く結びついているのです。これは、私たちにとっても、ペンテコステの完全な祝福へと導くもので、御血が成し遂げることができる新しくて深い経験です。

もしあなたがこの祝福を得たいと願うなら、私はあなたに懇願します、この祝福が宿る、動くことのない基盤について思いを巡らせて頂きたいのです。ヨハネの第一の手紙の次の言葉に注目してください。「御子イエスの血は全ての罪から私たちを清めます」(Iヨハネ1:7)。清められた器は、満たすことができるのです。

自分が気付いている全ての罪を小羊の前に持ってきて、その御血によって清めてくださいと祈りましょう。この言葉を完全な信仰によって受け取りなさい。全ての感覚と経験を喜ぶ信仰[=全ての感覚と経験を超越した信仰]によって―「このことは私のために行われたのだ」と。信仰は、それ自身が感じることのないものを手に入れようとするのです。すなわち、信仰は、聖霊にあって、後になってから魂と体に実現することがらをどのように手に入れるかを知っているのです。

光の中を歩いているとき、あなたは全く自由に次のように言う権利を持っています。「イエス・キリストの血は私を全ての罪から清める」と。あなたの偉大なる大祭司に頼りなさい。この方は、聖霊によって、あなたの心にも天来の不思議な御力を現してくださるでしょう。これは、この大祭司の血が「至聖所」において清めのために用いられたものなのです。

罪の権威とその効力を打ち倒された小羊の血に頼りなさい。この方は、あなたの心の中でも同じように力をもって働いてくださるでしょう。そして、「私をその御血によって清めてくださった御方に栄光と力がありますように」という歌を、あなたの信仰による喜びの歌とし、聖霊の完全な満たしを頼りにしなさい。

聖霊によってこそ、御血は捧げられたのです。聖霊によってこそ、御血はその力を持ち、そしてあなたの心の中に実を結ばせるのです。聖霊によってこそ、あなたの心は、御血をとおして、神の宮とされたのです。

この御方をとおして、御血によって清められた心は神の宮として備えられ、神の栄光に満たされるのです。このことを、完全に保証された信仰によって信じなさい。聖霊の完全な満たしが自分の受ける分なのだと期待しなさい。

嗚呼、御血によって清められ、聖霊に満たされた心は何と祝福されていることでしょう。喜びに満たされ、愛に満たされ、信仰に満たされ、賛美に満たされ、熱情に満たされ、力に満たされる―主の働きのために。小羊の血と御霊によって、その心は神の宮であります。その恵みの御座に神ご自身がおつきになります。そこでは、ご自身が光であり、神ご自身の御心が律法であり、神の栄光が全ての全てであるのです。

嗚呼、神の子供たちよ、御座近くにやって来なさい。そして、あなた自身を委ねて、尊い御血にあなたを整えて頂き、神の御霊に満たして頂きなさい。そうすれば、あなたのために屠られた神の小羊はその労苦―血によって証印された労苦―の報いを受けることができるでしょう。そして、小羊なるイエスとあなたは共にその愛の中に充足することができるでしょう。

>> 第2章 十字架の血潮

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