“ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」
ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。
そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」
ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。
しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」
するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。
ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。”
マタイの福音書 26章69~75節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
主イエスによるペテロの主イエスの否認の予告。その結末をクリスチャンの誰もが知っている。
大祭司カヤパの官邸までこっそりついて行ったペテロ、しかし、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒にいた」と言われると、「いや。違う」と否定し、最後には呪いをかけてイエスを否認してしまう。三度とは徹底的に行うという意味がある。
自分の弱さ、罪、いざとなった時に主を否認してしまうのではないかとの恐れをすべての人が持っている。
日本語の「信じる」と、聖書における「信じる」は意味が違う。
日本語「信じる」
=自分に言い聞かせる、思い込ませるといった意味
「夫を信じる」「子供を信じる」
・・・不安の裏返し。つまり、信じられない状況がある。だから敢えて、意志によって信じると言う。
しかし、聖書における「信じる」意志的な決心ではない。
驚くなどと同じ、無意志動詞である。言語学では主語は経験者と言われる。
信仰とは、主の真実に触れられる時に、私の真実、死んでいた私の真実が甦り、それに答えること。
主の真実に触れられる時に、私の真実が、アーメンと答えること。
意志的な信仰の決心ということはありえない。
意志的な信仰は崩れ去る。
ペテロによる主イエスの否認はこのことを明らかに表している。
ここで主イエスを否定したペテロがどのような状況に陥ったか鶏の鳴き声をもとに考える。
主イエスは、「鶏が鳴く前に」と言われたが、その後、鶏はどうしたのか?鶏はそもそも何度鳴いたのか?
鶏は、一番鶏が鳴いたら、すぐに二番鶏、また三番鶏と鳴き続け、鶏の声は夜明け前から次の日暮れまで、休むことなく続く。
鶏の鳴き声を聞くペテロの様子。ペテロがご自分を否認すると予告なさった主イエスの言葉、実際に呪いをかけて主イエスを否認した自分の言葉、それが止め度なく、襲ってくる。ペテロは気が狂いそうだったのではないか。
鶏の鳴き声を避けることができるところはなかった。漁師生活に戻るために帰って行ったガリラヤも例外ではない。鶏は、夜明け前から次の日暮れまで鳴き続ける。唯一、鶏の声を聞かなくても良かった時、それは、漁をする夜中だった。網を湖におろし、魚が入るのを待つ間、鶏の鳴き声を聞かずにすむ。夜は漁をし、昼間は眠っていれば、鶏の鳴き声を聞く時間はかなり少なくなる。そういうこともあったかもしれない。ペテロはガリラヤ湖の漁師に戻る。
魚が一匹も取れなかった朝、復活の主イエスがガリラヤ湖の岸辺に立たれた。
主イエスとペテロのガリラヤ湖畔での会話、それは、鶏の鳴き声が鳴り響く中で行われた。
お前はダメだ。お前は罪を犯した。お前はキリストを否定した。お前はもう二度とキリストに従う生き方はできない、お前は罪の中に死ぬ、という声が鳴り響く中で主イエスは、私たちに語りかけてくださる。
「ヨハネの子シモン。あなたは、これらの人が愛している以上に、わたしを愛しているか。」
「主よ。あなたは全てをご存知です。私があなたを愛していることはあなたがご存知です。」
「私の小羊を飼いなさい。」