さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。
見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
*****************
天国 ×死んでから行く極楽、理想郷
天=神の比喩 国=支配が及ぶ範囲
天国 ○悪魔と悪霊にそそのかされた人が支配するこの世の中に確立されていく神の支配
今、あなたの周囲に神の支配(=キリストの支配)はあるか?
キリスト教2000年の歴史をとおして、キリストの支配が世界中に広がってきたことは事実。もちろん反キリスト勢力による押し返しはある。キリスト教国ではない日本においても、キリストの支配は社会の大きな部分を占める。
人間の尊厳、基本的人権、男女平等、一夫一婦制などの普遍的価値
=キリストによってもたらされたもの
これらの価値観の上に生き、それを守るべきと考える者
=キリストの支配の中に生きている者。キリストの支配を守るべきと考える者
洗礼を受けたクリスチャンだけがキリストの支配の中で、そのために生きているのではない。これらの価値観を守るべきと考え生きている者たちも、すでにキリストのために生きているのである。
キリストの招き
=あなたもこの働きのための正式メンバーにならないか?
洗礼=×死んだ後キリスト教版極楽にいくための切符
○キリストが自分の王であることを告白すること。キリストが罪を赦してくださり、神の国推進の正式メンバーとしてくださったことを明らかにすること。
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け(ながら)、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」
わたしは十字架にかかって、あなたの罪を贖った。
死もわたしを支配することはできなかった。
わたしが甦ったように、あなたがたも甦る。
だから、恐るな。
あなたがたはわたしの血を受けて罪を清められ、あらゆる国の人々をキリストに従う者とせよ。彼らに洗礼を授けながら、わたしの王国の価値観の中に生きるように導け。
世の終わりまで、わたしがあなたがたと共にいる
イエスはの別名「インマヌエル」(マタイの福音書1章)
インマヌエル 神が私たちと共におられる
im 共に
anu 私たち
el 神
私たちと共に インマヌ
私と共に インマディ
「私と共に」と「私たちと共に」の違いは何か?
これを理解する鍵:
神がイスラエルに「わたしはお前たちと一緒に約束の地には行かない」と言われたこと。出エジプト33
紀元前1900年頃 イスラエルのエジプト移住
紀元前1500年頃 奴隷として使役
↓
モーセの召命:エジプトからの解放=奇跡の連続
→エジプト軍壊滅
シナイ山宿営→十戒の授与(モーセ不在40日間)
↓
イスラエルの民による神への反逆と偶像崇拝
↓
反逆に固執する者たちの滅び
↓
「わたしは、お前たちと一緒に行かない。お前たちを滅ぼしてしまわないために。」
=罪人は神の聖に触れると滅んでしまう
モーセの命がけの嘆願
↓
モーセの嘆願を聞き入れた神:「一緒に行く!」
↓
宿営の中心に幕屋(=神の臨在を表す)を建設
神が民と共におられる
=民のいるところ、その生活の只中で神と民との礼拝の交わりがもたれる
幕屋の機能
全焼の捧げ物=神様への香りの捧げ物
和解(感謝)の捧げ物=祭司と民が神の前で喜びの会食
罪の捧げ物=罪の贖い
そのほか、香やパンの捧げ物
捧げ物→神様との関係の回復
罪人が神様の聖なる臨在によって滅ぼされない
「お前たちと一緒に行く」
神が民と共におられる
=民の只中で神と民との礼拝の交わりがもたれる
復活の主イエスが世の終わりまで共にいてくださる
=この地上において、主イエスとその民との礼拝の交わりがなくなることはない
イエスが「インマヌエル」と呼ばれた理由
イエス自身が完全な捧げ物となった
→私たちを完全なものとする
ヘブル10:10
このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
10:14
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。
イエスの神の国プロジェクトの推進力
=礼拝における主イエスとその民との交わり
イエスが十字架にささげられた血が、罪ある者たちを贖い、清め、礼拝者とする。
世の終わりまで、この礼拝が終わることはない。
→世の終わりまであなたがたと共にいる。
礼拝において、イエスの血を注がて清められ、神の国の義を進めるにふさわしいものとして毎回整えられる。イエスの命を与えられ、力、希望、喜びに満たされる。