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小さな者として生きる

マタイの福音書18章1節から11節

岩本遠億牧師

2008年3月9日

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」 18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、 18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。 18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。 18:7 つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。

18:8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。 18:11 〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕

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マタイの福音書を連続で学んでいますが、その中から語りかけるイエス様の御声、その御思いを今日も聞きたいと願っています。18章は、イエス様が十字架にかけられるためにエルサレムに向かう前、伝道の根拠地としていたカペナウムで弟子たちに天国とは何かを教えられるところです。

今日の箇所の最初に弟子たちは、次のように質問しました。「18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」この質問は奇妙だとは思いませんか。「天の御国では誰が一番偉いのでしょうか。」そのような質問には子供でも答えられます。「天国で一番偉いのは誰ですか?」「神様です」という答えにならないでしょうか。一般論としては、答えは決まりきっています。ですから、これは一般的な質問ではなく、非常に個別的な質問だったと考えられるのです。「天の御国」とは、神様の支配という意味ですが、これからイエス様がエルサレムに行くと、そこでローマを打ち破ってイスラエル王国を再建なさるに違いない。神様の支配、天の御国がやってくる。「その時、私たち弟子の中では誰が一番偉くなるのでしょう」という質問です。

明け透けというか、あまりにもダイレクトな質問です。「あなたが王として即位なさったとき、私たちの中では、誰が総理大臣になるのでしょうか」というような質問です。彼らは、イエス様がエルサレムに行って、十字架にかけられて殺される、しかし、3日目に甦ると仰ったことが全く心に残っていないのです。

弟子たちの中には、ペテロに対する嫉妬心があったかもしれません。この直前に、イエス様はペテロに魚釣りをさせ、その魚の口の中にある銀貨でイエス様とペテロ二人の分の宮の納入金を支払いなさいと仰っています。他の弟子たちには、このことは面白くなかったと思います。ペテロだけ特別扱いされている。そのような嫉妬心から、このような質問が出たのかもしれません。

そのような質問に対し、イエス様は、小さな子供を呼び寄せて、彼らの真中に立たせて言われます。「18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」

皆さんに質問したいと思います。「子供のようにならなければ」と仰っていますが、「子供のようになる」とはどのようなことでしょうか。
子供は決して無邪気ではないし、罪もあります。基本的に自分が良ければよいと思っています。子供同士の遊びでも、おもちゃの取り合いやお菓子の取り合いは当たり前のことですし、子供だって嘘をつきます。悪いこともする。子供を躾けなければならないのは、そのままでは悪いからです。

イエス様も、子供の性格のことを言っているのではありません。子供の社会的な立場ということをおっしゃっている。子供は労働力になりません。金を稼ぐこともできない。社会的な地位は低くかったのです。イエス様は、子供のように低い立場のものとならなければ、天の御国に入れないと仰っている。天の御国で誰が一番偉いかどころの話ではない。そもそも天の御国に入れないのだ。天の御国に入る絶対の条件が、自分を低くすることだと仰っているのです。

では、子供のように自分を低くするとはどういうことか。幾つか考えられますが、まず、自分の存在が親に依存しているということを認めることです。子供は、親に食べさせてもらうことを当たり前のこととしています。

「あなたはいつ自分が大人になったと感じましたか」という質問に対して、「自分で食べていくことができるようになった時」と答えた人をテレビで見たことがあります。私は、「自分が大人になったなあ」と一番感じた時は、親と一緒に食事に行って、私が食事代を支払った時でした。人は、自分の存在が親に依存したところから自立したところに移った時、大人になり、子供であったことを忘れるのです。

しかし、イエス様は言われました。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」「悔い改めて」と訳してある言葉は、下の注にもあるように、「向きを変えて」という意味です。自分の存在が神様に依存した存在なのだ。自分は自分の力で存在することもできないものなのだ。神様が私を支えてくださっているから、私は存在しているのだということを告白するということです。

さらに、自分を低くするとは、身分的に低い者として生きるということです。今の日本は能力主義の社会ですが、当時のイスラエルは身分社会です。自分を低くするという言葉の意味は、非常に明確でした。「他の人の僕として、奴隷のようになって」という意味です。ピリピ人への手紙の中で、パウロは、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」2:3と教えていますが、「自分より優れた者」というのも、自分より身分の高い者、自分の主人としてという意味です。

先日、日本人のバイオリニストで初めて世界的に認められた江藤俊哉という方が亡くなりました。この方は、今の皇太子が小さい時のバイオリンの先生をしたこともあったのですが、そのレッスンの様子をテレビで見たことがあります。皇太子が結婚なさった時、その成長の記録をテレビで放映したものです。その中で、この江藤先生が、小さな幼稚園生ぐらいの皇太子の前で腰を屈めながらバイオリンのレッスンをしているのです。

聖書の教える謙遜ということを学び始めた時、この時のテレビの様子が思い出され、自分を低くするとは、こういうことだと教えられました。

私たちは、子供から大人になるにつれて、いろいろな知識や技能、能力を身につけます。そのことは尊いことです。また生きていくうえで必要なことです。しかし、それで人より偉くなった、自分はすごい人間だと思うようになるところに高慢があるのです。

江藤先生は、バイオリニストとしては日本一の人でした。世界的に認められた人です。しかし、それは皇太子の前では自分を誇ることにはならないのです。むしろ、自分の得た能力を用いて、小さな皇太子に仕える僕となるのです。もし私たちが、自分を身分的に低いものとし、互いを自分よりも身分の高い者として接するようになるなら、ここに謙遜によって互いを生かす麗しい神の国が実現するでしょう。

「8:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」というのも、この観点から読むと分かりやすいです。身分が低く、蔑まれている者を、自分の主人として、これに仕える者は、イエス様を受け入れるのだ。この小さな者、この世からいてもいなくても良いと思われるような者、この小さなイエス様を信じる者を自分の主人として受け入れる者は、イエス様を受け入れるのだ。それが天国に入ることなのだということです。

「18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。 18:7 つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。

18:8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」

ここでイエス様は、「子供」という言葉から「小さい者」という言葉に変えておられます。「小さい」という言葉は「大きい」の反意語ですが、先ほど、弟子たちが「誰が一番偉いのですか」と質問した「偉い」と訳されている言葉の本来の意味が「大きい」なのです。つまり、「一番大きいのは誰か」という質問に対し、自分を低くする者、つまり小さくなる者と答えられた。小さくなること、自分を偉大なものだと思わない者、自分の罪深さを知る者、イエス様を信じる者、このような者が天国の住民なのだと言われたのです。

そして、6節から始まる新しい段落では、イエス様を信じる私たち小さい者たちに対する溢れる愛をイエス様は語ってくださっています。

「つまずき」という言葉は、これまでに何度も出てきていますが、スカンドロンという言葉で、罪を犯させるという意味です。信仰を失わせると言い換えても良いかもしれません。イエス様は、イエス様の子供となった者たちに躓きを与えるようなこの世の悪の力に対して、非常な憤りを持っておられる。6節から始まるイエス様の言葉は、罪の誘惑や攻撃によって罪を犯させたり、信仰を失わせようとする暗闇の力に対する強い警告でありますが、もう一方で、「わたしは、わたしの子供となったこの小さい者の味方である。これを守るぞ。これに指一本触れさせないぞ」という非常に強い宣言の言葉なのです。

 躓きとは、神様と関係のない生き方に引きずり込むということです。イエス様のことが分からなくなるようにするということです。一方では富や欲望の誘惑ということがあります。また、神様なしにやって行けると思わせるような、高慢を推奨するようなものもあります。さらに、「お前は、神様の祝福を受けるにふさわしいものではない」と囁く暗闇の声があるのです。酷い言葉や仕打ちによって、祈ったり賛美したりすることができない程、心に重傷を負わせるような悪魔の攻撃もあります。

それらは外からやってくることがあり、また内側からそういう思いが湧きあがることがある。6節7節は外からの躓き、8節9節は内からの躓きです。

イエス様は、お優しい方です。しかし、ご自分を信じるこの小さな者たちを躓かせる外から、内からの悪の働きに対しては、烈火の如く怒られる激しい方です。この激しさが、イエス様を十字架に向かわせたのです。自らを低くする者、小さい者として生きる者については、命を捨てて、これを守り、包み、背負ってくださる。しかし、自らを高めようとする者、人を躓かせる者、躓きを与える悪の働きに対しては、敢然と立ち向かわれるのです。だから、私たちは救われたのです。

このイエス様の小さい者たちへの思いが、10節に凝縮されています。「18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」

皆さん、このイエス様の言葉をどのように思いますか。イエス様を信じる小さな私たち一人一人に天の御使いたちが付いてくれているというのです。御伽噺のように感じますか。しかし、聖書には、旧約聖書と新約聖書を合わせて、実に264回も御使いについての言及があるのです。御使いは霊的な存在ですから、私たちには見えません。しかし、実在する者として、私たちを援助するために天から遣わされているのです。

イスラエルの祖先となったヤコブは、兄と父を騙して、家督と祝福を横取りして、命を狙われ、伯父のラバンを頼って逃げ出しました。盗賊の出没するような場所で、世を過ごさなければなりませんでしたが、彼は不思議な夢を見ました。天から地上に向けられた梯子を、主の御使いたちが上り下りしているという夢でした。ヤコブを助けるために、天と地を行ったり来たりしている。その天の御使いたちの助けによって、ヤコブは多くの困難と人の意地悪、また自分の家庭の中にある問題を潜り抜け、祝福を受けることができたのでした。

イエス様は、言われるのです。この小さい私たち一人一人に天の御使いたちが遣わされていると。その御使いたちは、天の父の顔をいつも見ているのだと。天の父の最善の御心が私たち一人一人に行われるように、いつもスタンバイして、神様のご指示を受けていると。

また、御使いとは、神様と信じる者との関係の印として遣わされる者であるとの解釈もあります。ある神学者が次のように語っています。私たちは、イエス様を信じるようになった。しかし、いつも天の神様を見上げているかと言えば、決してそうではない。神様を見上げることができないような状況に陥ることがある。しかし、私たちが神様を見上げることができない時、私たちに遣わされている御使いが私たちに代わって神様をいつも見上げてくれていると。

私たちは、クリスチャンとして、イエス様の子供としていつも喜びに満たされて、神様の御顔を仰ぎ見ていたい。いつも祈る者でありたい。しかし、祈ることさえできないような心の傷を受けることがある。毎週教会に来て礼拝を捧げたい。しかし、教会に来ることができないような苦しみの中に喘ぐ時があるのです。私たちの愛する仲間の中にも、そのような状況に陥っている人たちがいるのです。

そんな時、私たちは、そのような人たちにどのような態度を取るでしょうか。一生懸命信仰していないと裁くでしょうか。信仰の薄い人と言って見下げるでしょうか。

イエス様は、言われるのです。「この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです」と。天の神様の御使いが、今、苦しみの中にあってうつむいている神の子供たちに代わって、礼拝しているのです。賛美しているのです。祈っているのです。

今、共に礼拝を捧げることができない人たちも、また、祈ることができない人たちも、何時か必ず、もう一度祈りの喜びを回復し、礼拝の喜びに生かされるようになっていくのです。彼らの天の御使いたちがいつも天のお父様の御顔を見上げているからです。彼らのための時が備えられているのです。

私たちも、今日、ここに来られなかったお一人お一人に代わって礼拝し、賛美し、祈ろうではありませんか。お一人お一人を生かそう、支えようとして、必死で天の神様の御顔を仰いでいる天の使いたちと共に、私たちも御使の働きをしようではありませんか。

これこそ、自らを低くする者の姿です。高ぶらずに自らを低くして僕となって仕える者の姿です。イエス様は、これを私たちに求めておられるのです。私たち、一人一人にこのような御使いが遣わされ、側にいることが分かるようになると、お互いを尊ぶことができるようになるのです。私たちも御使いの働きをすることができるようになるのです。

イエス様は言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」マタイの福音書20:26-28

祈りましょう。


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