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律法の完成者

マタイによる福音書5章17-30

岩本遠億牧師

2006年10月29日

5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。 5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。 5:26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

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マタイの福音書を毎週学んでいます。今日は、山上の説教の続きですが、17節から30節まで読みたいと思います。山上の説教は、山の上だけでなく、イエス様がご自分に従ってくる者たちに繰り返し語っておられたことを、説教集として一つにまとめたものです。一見厳しく思えるイエス様の言葉の中に私たちはイエス様の迸る愛と恵みを見ることができると思います。

5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と仰っていますが、「律法」や「預言者」というのは旧約聖書を指します。イエス様が十字架にかけられたのは、イエス様の立場からは、全人類の罪を取り消し、父なる神様との関係を回復させるためのものでしたが、当時の宗教家たちは全く違った考えを持っていました。彼らが金科玉条のように大切にしていた、硬直的安息日主義と神殿礼拝主義をイエス様が否定したため、彼らはイエス様を十字架にかけて殺したのです。彼らは、イエス様を律法と預言者を否定し、廃止する者だと考えました。ですから、イエス様は言われたのです。「わたしは、それを廃止するためではなく、完成するために来たのだ」と。

律法とは、罪とは何かを定め、罰則によって、私たちの行動を規制し、罪を犯さないように強制するものです。しかし、律法の目的は、人を罰することにあるのではなく、人が罪を犯さなくなることにあります。ですから、人が罪を犯さなくなることによって律法は完成するのです。

「5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

イエス様の御思いは、私たちが罪を犯さなくなることです。1ヨハネ2:1「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」と書かれています。

イエス様が律法を完成なさると言われるとき、それは、私たちの行動を監視し、罰則によって私たちに恐怖を与える外なる律法ではなく、私たちの心の中に、内なる律法を与え、私たちの心を清め、罪を犯さない者になるようにするということを意味しているのです。

私たちは、何故罪を犯すのでしょうか。それは、具体的な行動の前に、私たちが心の中で悪いことを想像するからです。聖書の中に、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、 6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創世記6:5)という言葉があります。

ですから、そこに外なる罰則によって人の悪い行動を制限するということでは解決しない問題があるのです。イエス様は、人の目に見えない心の中の罪、心の中の悪こそ問題なのだとおっしゃるのです。

私たちの中には、実際に殺人の罪を犯したことがある人はほとんどいないかもしれない。姦淫の罪を犯したことがある人も多くないかもしれない。しかし、人に対して怒りを抱く内的な罪は、全ての人の罪です。人に腹を立て、愚か者という罪は全ての人のものです。それは、物事の善悪を自分で決めようとする高慢からきているからです。また、みだらな思いで他人の妻を見る罪は、全ての男の罪です。誰も言い逃れをすることはできません。

イエス様は、そのような内的な罪を犯す全ての人に向かって、「滅びるぞ。地獄の火に投げ込まれるぞ」と言っておられますが、これは脅しているのではありません。そのような内的な罪を軽く見てはいけない。その罪に対する解決が必要なのだ。全ての人に罪の解決、内的な罪の赦しと、内的な癒しと清めが必要なのだと教えておられるのです。

律法は、外側に見えることについての判断を下し、それを処理します。重罪(殺人や姦淫の罪など)を犯した場合には、死刑でした。そうでない罪を犯した場合も、動物の捧げ物によって罪を贖わなければなりませんでした。また、清めの儀式によって、罪から清められて初めて、社会での活動が許されました。しかし、全ての人にとっての問題である内的な罪の問題に関しては、それを処理する方法が律法には定められておりません。それは律法では問題とされなかったのです。

イエス様が内的な罪に対しても、罪の赦しと清めが必要だというイエス様の教えは、そのような意味で驚くべきものでした。外側を整えればよいと考える律法学者たち、パリサイ人の考えとは違う、さらに本質的な神様との関係を問題になさったからです。ですから、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言われました。

外的な罪の赦し、外的な罪の清めが必要だったように、内的な罪の赦し、内的な罪の清めが私たちには必要なのです。イエス様は、これを私たちの内に実現するために来られたのです。

ここでイエス様は、内的な高慢や汚れを持っている私たちに向かって、「怒りを抱かない者、心の清い者にならなければ、お前たちは地獄行きだ。わたしの弟子となり、天国行きの切符を手に入れるためには、怒りを捨てなければならない。清い心になるために克己せよ。己に打ち勝て。頑張らなければ滅びるぞ」とおっしゃっているのではないのです。

このイエス様の言葉を、自分の力で実現しようとすることは無理です。歴史上、そのように頑張った人々がいました。「戦争と平和」を書いたトルストイは、このイエス様の言葉を自分の力で実現しようとして、最後に絶望し、家族を捨てて死にました。またトルストイの影響を受けた白樺派の有島武郎は、イエス様の言葉を実行しようと頑張りますが、それができず、反対にイエス様の言葉そのものを否定し、自殺したのです。

イエス様は、「克己せよ。頑張れ。これができなければ地獄行きだ」などということを意味しておられたのではありません。厳しい、ある意味で強烈な言葉を使って、私たちが問題とも思っていなかったことに心を向けさせ、神様との内的な関係の回復と癒し、救いを、全ての人にもたらそうとなさったのです。

人に対して怒りを持っている時、みだらな思いにふけっている時、そこに神様がいないじゃないか。本当は、そこにこそ、神様の解決、神様の赦し、神様の癒しが必要なのではないか。人に対して怒り、赦せない思いで満たされているとき、あなたは心の中に平和を失っているよ。人の悪は、それはそれとして、あなた自身と神様との平和、人との平和、自分自身との平和の回復が必要なのではないか。また、みだらな思いにふけっている時、自分自身を汚し、神の子の尊厳を失っているのではないかと。あなたの尊厳の回復が必要なのだよと。

外的な罪を犯さない人でも、全ての人に救いが必要なのだよ。あなたにも救いが必要なのだ。その問題に救いを与える方がいるのだということをおっしゃっているのです。そのように内的に巣を作って固まってしまっている問題にこそ、聖霊による解決が必要なのです。

神様は、この内的な問題に対して次のような解決を与えてくださいます。

一つは、イエス様の十字架による罪の赦しです。私たちは、目に見える罪を犯していなくても、心の罪に対する赦しを必要としています。心の罪によって断絶してしまった神様との関係をもう一度回復するために、この罪を永遠にキャンセルするためにイエス様は十字架にかかって地を流し、ご自分が持っておられた神の子の立場を捨てて地獄に下り、それを私たちに与えてくださったのです。

「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」2コリント5:20-21

ですから、心の罪に苦しんでいる方々、もう苦しまなくて良いのです。イエス様が十字架に死んで、あなたの罪を赦してくださったからです。あなたの尊厳を回復してくださる方がおられるからです。

もう一つは、十字架の血による、心の清めです。聖霊と火によるバプテスマです。

ヘブル9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、 9:14 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

1ヨハネ1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちも光の中を歩むなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます。(新改訳)

光の中を歩むとは、イエス様の十字架の血をほめたたえながら歩むということです。私たちがイエス様の十字架の血をほめたたえながら、歩んでいくとき、イエス様の十字架の血、聖霊が、私たちの内面に働きかけ、私たちを清めるのです。イエス様の十字架の血を経験しているとき、私たちは内的な罪から守られ、罪を犯さない状態になっているのです。

そして、そこに癒しがあります。安心して祈ることができるようになり。神様との間の平和を楽しむことができるようになるのです。

「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」ヘブル10:22

聖書は、「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」(1ペテロ1:15)と教えていますが、これは、イエス様の十字架の血によってのみ行われるのです。私たちがイエス様の十字架の血をほめたたえながら歩くとき、あらゆる点で聖であられたイエス様が私たちの中に満ちてくださり、汚れと悪から守ってくださるでしょう。神の子の尊厳に満ちた歩みをすることができるでしょう。神様と私たちの間に、私たちと周囲の間に、そして私たち自身の中に平和があるでしょう。イエス様が語られた「律法の完成」が私たち自身の中に実現されていくのです。

祈りましょう。


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