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謙遜と平和

キリストの平和教会設立礼拝説教

岩本遠億牧師

2006年8月6日

「キリストの平和教会」をスタートするに当たり、今日は、「キリストの平和」ということについてお話ししたいと思います。

聖書の一番最初に「創世記」という書があります。その初めに、天地創造と人の創造について書かれていますが、私たちが「平和」ということを考える上で、とても示唆に富む出来事が記されています。創世記を開いて見ましょう。

3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

神様は、人を創造なさったとき、ご自身の形に、神の形に作った、あるいは影のように作ったとあります。それは神様と共に歩くため、神様の姿をこの地上に表すためでした。神様が創造なさった天地と人をご覧になった時、「見よ、それは極めて良かった」とあります。ここに神様が造られた全てのものの間に調和があり、命がみなぎり、完全な平和があったのです。この平和は、争いや戦いがないという意味だけではなく、神様が全てに満ち溢れ、喜びが互いの中に満ちる関係を言います。

神様は、アダムに次のようにお命じになりました。「あなたは、園のどの木からもその実を取って食べなさい。ただし、園の中央にある、善悪の知識の木の実からは食べてはならない。それを食べる時、あなたは必ず死ぬ」と。

「善悪の知識の木の実を食べる」とは、物事の善悪を自分で決めると言うことを意味します。この木がエデンの園の中央にあったということは、善悪の決定権は、神様だけが決めることができるもので、人が自分の思い通りにして良いものではないということです。善悪を自分の都合の良いように決めてはならない。神様の領域を侵してはならない。これを行う時、お前は必ず死ぬと言われたのです。死ぬとは、神様との命の関係を失うことを意味します。

ところが、蛇がエバを誘惑します。「この木の実を食べても死んだりしませんよ。これを食べると、神様のように自分で善悪を決めることができるようになりますよ。神様のように賢くなりますよ。神様はあなた方が、自分のようになるのを恐れているだけです。大丈夫ですよ。死にませんから」と言うのです。その木の実は美しく、美味しそうに見えたとあります。自分で善悪を決めることができると言うことは、とても素晴らしいことのように思われたのです。そして彼女は善悪の知識の木の実を取って食べ、そばにいた夫アダムにも食べさせました。

すると、彼らの中に罪が入り込みました。善悪を自分で決めようとすることが罪の源泉なのです。これが高慢の極地です。しかし、これは、私たち一人一人がもっている罪ではないでしょうか。善悪を決定するのは神様一人だということを私たちは認めたがらず、自分の心の中で人を裁き、また噂し、人を批判する。

彼らは自分が裸であること、自分の罪と醜さに気づきましたが、それをどうすることもできず、イチヂクの葉で腰を覆ったとあります。しかし、そのようなもので罪が隠せるわけがありません。

そんな時、神様が人と話をするためにやってこられました。彼らは、その音を聞いて木陰に隠れます。神様と共に歩くために造られた人が、神様を逃れ、共に歩くことを嫌い、身を隠したのです。神様は彼らが罪を犯したこと、自分を避けて隠れていることをご存知でした。その上で、語りかけられます。「人よ、あなたはどこにいるのか」と。ご自分との関係を回復させるためです。

しかし、人は言います。3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

アダムの答えは明確です。「私は、悪くない。この女が悪い。いや、この女を私と共にいるようにさせた神様、あなたが悪い」と。女の答えも同様です。「私は、悪くない。蛇がだましたから食べたのです。」

善悪の知識の木の実を食べるとは、このようなことです。「自分は悪くない。人が悪いのだ。いや神様が悪いのだ。」自分が善悪を決定したい。まさに、人が犯した罪、今も犯し続ける罪の根本は高慢にあります。そして、これが神様との関係を壊し、人との関係を壊し、自分自身の良心との関係を壊すのです。

イエス様は、失われた平和をもう一度創造するために来られたのです。神様との関係、人との関係、自分自身との関係をもう一度造り上げてくださる。それがイエス様の十字架なのだと聖書は語ります。

高慢によって失われた平和の再創造は、謙遜によってしか行われ得ません。しかも、神の御子のまったき謙遜によってしか、これは行われ得ないのです。

神様は、イエス様を低い状態でこの世に送られました。誰も出産のための場所を提供してくれなかったと聖書は語ります。世の人々はイエス様の誕生を歓迎せず、ただ、社会の最下層で虐げられていた羊飼いと、外国人の学者だけがやってきました。生まれてまもなく命を狙われ、エジプトに逃げなければなりませんでした。

その公の生涯は、謙遜のバプテスマから始まり、まったき謙遜を悪魔の誘惑によってテストされたということを、ここ数回の聖書箇所で学びました。すべてのことについて自分の意思を行うのではなく、神様のご意思に従われました。そして、平和を再創造する神の子であることを十字架の死と復活によって明らかにされたのがイエス様でした。 

まさに十字架こそイエス様の謙遜の極致であります。イエス様は、望みさえすれば、イスラエルの王となることができました。全ての富と権力をその手に入れることもできたのです。しかし、イエス様は、私たち人間の高慢が引き起こした罪の全て、高慢と言う罪の本質、罪そのものを打ち砕くために、私たち全ての人間に代わって十字架に付けられ、殺され、地獄の底にまで落ちていかれました。

罪のないイエス様が、高慢な私たちに代わり、私たちの罪をその身に引き受けてくださった。全く低い者となって、地獄の底まで低められる者となって、私たちが受けなければならない罪の罰を受けたのです。この謙遜によって悪魔の力は打ち砕かれたのです。この謙遜が新たな平和を造りだし、神様と私たちとの関係、人と人との関係を回復させるのです。

エフェソ2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、

2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

十字架の血が平和を作り出すのです。一般的には、血が流される時、そこに敵意と争い、戦いが生まれます。人は人を赦さないからです。自分で善悪を決定し、その復讐を行おうとするからです。しかし、イエス様の十字架の血は、謙遜の血、全てを赦す血、全てを包み、全てを癒す血潮でした。私たちの存在を回復し、神様との関係、人と人との関係を回復する血だったのです。

イエス様の十字架の血によって、神様の罪に対する怒りが収められました。尊い御子の血が流されたからです。そして、今度は、イエス様が全てのものを、この十字架の血によって清め、完全なものとし、一つに集めるのです。敵意は滅ぼされ、全てが一つにされる。今すぐにこのことが実現すると言うことではありません。しかし、イエス様は、これを必ず実現なさるのです。今、私たちの目に全てが見えるわけではありません。しかし、イエス様の言葉を信じて待ちたいと思います。信じて待つ私たちの中に、イエス様の平和が満ちていくのです。私たちが平和を作るものと変えられていくのです。

私は、キリスト教伝道者の家庭に育ちました。ですから小さい時から、神様はどんな時にも愛と善意だということを聞きながら育ちました。イエス様の御名による病気の癒しや、破綻した人生の回復などの話を聞いたり、実際にそれを目撃しながら育ちましたので、イエス様は今も生きて働く神様だということが当たり前の世界に生きていたのです。高校3年生の時には、イエス様に自分自身を捧げる決心をし、同じ教団に育った友人たちと共にイエス様を伝える約束を交わしていました。

ところが、大学3年生になった頃、私は自分が持っている信仰が重荷になってきました。それには、いろいろな要因がありました。自分の育った教団内部の対立や混乱によってキリスト信仰とは一体何なのかということが分からなくなったということがあります。自分が教団を通してイエス様を見ていたので、教団の腐敗が自分の信仰の基礎を揺るがせました。しかし、それよりもなによりも、私は、自分の自分勝手な思いと行動を縛る信仰から抜け出したいと言う思いで一杯になったのです。

自分が好むことを自分の好きなようにしたい。信仰を持っていたら、そんな自分勝手な行動が許されるわけはありません。しかし、そもそもこの信仰は、親が伝道をしていたから自動的に自分の中に与えられたもので、自分が人生の壁にぶち当たり、自分で神を求めて得たものではない。自分が探し、自分が手に入れた神でなければ、自分の助けにならないなどと、非常に高慢な思いを持つようになりました。そして、私は、イエス様を否定して生きることにしたのです。まさに、善悪を自分で決めたいと思い、罪を犯したアダムとエバは、私自身だったのです。

私は、自由を手に入れたはずでした。信仰によって縛られていた自分の行動が自由になったと思いました。私を愛し、私のために祈ってくれている人を傷つけ、否定して、悲しみの中に陥れても、それが自分の選び取った正しい自分の生き方だとして、自己欺瞞に浸っていたのです。

しかし、その頃から私は毎晩のように悪夢を見るようになりました。大きく真っ暗な闇の中に自分が吸い込まれていって、自分の存在がなくなってしまうという夢でした。毎晩のように同じ夢を見ます。私は眠ることを恐れ、酒を飲んで夜の長い時間をやり過ごすようになりました。

私は、次第しだいに病んでいきました。私が手に入れたはずの自由は、私を解き放つどころか、私を罪の中に縛りました。私は生きている意味、存在している意味を失いました。1980年から1981年の冬にかけて、私は長い間高熱に見舞われ、立ち上がることができなくなります。当時東京で独り暮らしをしていましたが、40度ほどの熱が出て、お医者さんに行く、薬を処方してもらって少し落ち着く、するとまたすぐに熱が出るという状況が数ヶ月続きました。高校受験を控えたお子さんの家庭教師をしていましたが、一番大切なときに、続けることができなくなり、その子を見捨ててしまいました。実際、人のことを考えることなどできない自分だったのです。大学の春の健康診断で、胸に二つの影がああると診断されました。

精神的にもバランスを崩し、道を歩いていても車が近づくと気を失いそうになり、そちらに倒れていきそうになります。自分で自分を救える、自分で自分を立たせることができると思った私は、倒れ、絶望の中に落ちていったのです。

そんな時、大学でクリスチャンの友人に会いました。自分の具合の悪さなどを話して分かれましたが、すぐに手紙をくれました。

「あなたには、人が持っていないような知識があるかもしれない。能力があるかもしれない。でも、どうしてあなたは自分の能力や知識で生きようとするのですか。しかし、もし神が愛なのなら、どうして神の愛に信頼して生きて行こうとしないのですか。あなたのために祈っています」と書いてありました。

「もし神が愛なのなら、どうして神の愛に信頼して生きて行こうとしないのですか」という言葉が私を貫きました。「私は、神様のところに帰らなければならない。」

私は、以前集っていた礼拝に戻りました。しかし、礼拝には戻っても、どうしたら神様のところに帰れるか分かりませんでした。相変わらず悪夢は見続けています。体の具合も、心の具合も悪い。私は、思いました。「一度与えられていた信仰を自分で捨ててしまった者はもう赦されないのか。もう信仰の回復はないのか。」私は、ここでもう一度絶望しました。

丁度その頃、私が以前いた教団の夏の大会が水上温泉あるとの知らせがありました。私は、別に何かを期待していたわけでもありませんが、時間もあるし、久しぶりに行ってみようと思って参加を申し込みました。前日からまた熱が出て、熱ざましを飲みながら、やっとの思いで電車に乗っていきました。

ところが、この水上温泉での集会こそ、イエス様と出会う時、神様のところに帰る時となったのです。当時東京で伝道しておられたT先生が、ハワイのモロカイ島でハンセン病患者のために自分の生涯を捧げたダミエン神父の話をなさいました。私は、中学生の時からダミエン神父の生涯に憧れていました。当時は忘れていましたが、ダミエンの話を聞いて思い出し、そして願い、祈りました。「神様、私は言語学を勉強しています。いずれ言語学の知識と力をもって南の島に行き、そこであなたを伝えさせてください」と。不思議な感動が私を包み始めました。

その直後、男性だけの会合で、私はT先生に「祈ってください」とお願いしました。自分は自分でと思っていた私でしたが、祈っていただきたいと思ったのです。先生は、私の上に手を置いて、一言このように祈ってくださいました。「天のお父様、この兄弟を、どうぞその名前のように・・・。」その時、圧倒的なイエス様の臨在が私を包みました。溢れる聖霊が注がれたのです。そして、引き裂かれていた自分が一つにされると言う経験をしました。神様が創造の時から私のために備えてくださっていた神の子の実存とこの私が一つになったのです。私のお腹の底から、実存の根底から、溢れる喜びが湧き上がり、私を包みました。私の心は叫びました。「私はエノクです。旧約のエノクがあなたと共に歩いたように、どんな時でも、どんなところでも、私もあなたと共に歩くものでありたい。」その時、「神の子イエスの血は全ての罪から我らを清める」という聖書の言葉が私の内で大鐘の響きのように響き渡りました。私の内に平和と平安が満ち溢れました。

そして、この死んだような体にも、目には見えないけれど、イエス様の血が注がれ、細胞の一つ一つが生き返っていくのが判りました。胸にあった二つの病気が消えてなくなったのが分かったのです。

イエス様の血は、高慢によって引き裂かれていた神様と私との関係、自分自身との関係を回復するものだったのです。イエス様の血は今も私たちに注がれ、壊れた神様と私たちの関係を回復させ、分裂した私たちの実存を回復させ、平和と平安を満たされるのです。

その後、いろいろなことがありました。多くの失敗をし、人を傷つけました。厳しい状況におかれたこともあります。しかし、イエス様は私を見捨てず、見放さず、この平安、この平和を与え続けてくださいました。この平安を私から取ることができるものはなかったのです。

イエス様は、十字架にかけられるために捕らえられる前に、次のように弟子たちに言われました。

ヨハネ14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

イエス様は、「わたしはあなた方に平安を残す。私の平和を与える」と言っておられます。しかし、イエス様を取り囲む状況は、決して平和とは言えない状況でした。まもなく人々が自分を捕らえ、打ち叩き、十字架につけるためにやって来る。そのような中にあっても、イエス様は、弟子たちに「お前たちに、わたしの平和を与える」とおっしゃっているのです。十字架の血による平和を与えるのだ。だから、心を騒がせるな。恐れるなと。

周囲の状況に左右されない内なる平和があるとおっしゃっている。十字架の血による平和、イエス様の平和は、外に見える状況を貫いて、私たちの内に与えられるのです。私たちは状況の奴隷となるために創造されたのではありません。罪の奴隷となるために造られたのでもないのです。確かに、状況には厳しいものはあるでしょう。しかし、それらの中にあっても私たちに平和を与え、私たちの中に平和を造り続けるイエス様がおられるのです。

この平安、この平和を私たちから取り去ることができるものはありません。

イエス様が謙遜によって流された十字架の血、イエス様が十字架の血によって造られた平和これを私たちが受ける時、イエス様の中に満ちていた平和と喜び、希望と確信が私たちを包むでしょう。私たちも謙遜な者とされ、イエス様のお心自分の心としていく者とされる。イエス様の謙遜が私たちの中に形づくられていく、イエス様の謙遜が創ったイエス様の平和を喜ぶもの、イエス様の平和に満たされる者とされていくのです。イエス様の謙遜によって形づくられ、私たちに与えられる平和は、どのような時にも、どんな時にも決して私たちから取り去られることはありません。イエス様が私たちと共におられるからです。イエス様は、決して私たちを見放さず、見捨てないからです。

祈りましょう。

聖霊の親しい交わりが、一同の者と共に、とこしえにありますように。アーメン


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