そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」
安息日論争の最後の部分
この日の出来事の流れ
1 安息日の礼拝に行く途中で麦畑を通る
空腹だった弟子たちが麦の穂を摘んで食べた。
パリサイ人たちからの非難。
イエスの答え。「安息日は人が命を回復する時。
人の子(イエス)は、真の安息を人に与える」
2 会堂で片手の萎えた人を癒す。
3 パリサイ人たちのイエスに対する殺意
4 会堂を出る。多くの人々を癒す。
5 パリサイ人たち、イエスの癒しの業をベルゼブル(悪霊の頭)によるものと誹謗中傷。
6 神の国をもたらしている聖霊に良い逆らう者は、永遠に赦されることはないとのイエスの宣言。
7 天からの徴を見せよ←お前がベルゼブルによって癒しを行なっていないのなら、その証拠(天からの徴し)を見せよ。←癒しは証拠にはならないとの主張。
悪い姦淫の時代(神に対する姦淫、不節操)
当時のパリサイ人たち:自分たちは神に対して忠実
自分の神学的立場を第一とし、苦しむ者たちに対する神の憐れみと、彼らに対する回復の業を悪魔の業と言うこと
=神に対する姦淫である
=神以外ものを神としている
=自分の思いを神としている
この時代にはしるしは与えられない。
聖霊が行なっておられる神の国があなたがたに与えられているしるしだ。これを否定するものに与えられるしるしはない。
ただ、ヨナのしるしは別だ。
預言者ヨナ:
イスラエル南北王国分裂期の北イスラエルの預言者
アッシリア帝国(紀元前8〜7世紀)に遣わされる
ヨナ書1章
主からヨナへの言葉「アッシリア帝国の都ニネベに行き、その悪のために滅ぼされると告げよ。」
↓
主のみ顔を避け、タルシシュ行きの船に乗り込む
↓
暴風により、船は難波しそうになる
↓
誰のせいかクジを引く
↓
ヨナに当たり、自分が主の御顔を逃れているからだと告白
↓
海に投げ込まれる
↓
大魚に呑み込まれる(三日三晩)
↓
死の底から神に祈る
↓
陸地に吐き出され、ニネベへ
↓
滅びの宣告
↓
アッシリア王の悔い改め→全国民の悔い改め
↓
ニネベの救い
↓
納得がいかないヨナ
(「初めから赦すつもりだったんでしょう。分かってましたよ。だから私は、あなたから逃げたのです。」)
↓
ヨナの心の奥に語りかけ、神の憐れみ深い心を知らせる
ヨナのしるしに勝るもの
=十字架と復活のしるし
=イエスが天から来たことのしるし
このしるしを見て、悟れ!
このしるしを見て、神に立ち返れ!
このしるしを見て神に立ち返らなければ、滅んでしまう。
空き家状態のイスラエル
=捕囚から帰還後のユダヤ教確立時代
〜イエスの時代
=律法の研究とその遵守を徹底
=綺麗に掃除された状態
しかし、神を迎え入れていない。
キリストがやってきたのに、迎えいれない。
→前の状態よりも悪くなる。
→ローマに滅ぼされる。
十字架と復活のしるしを見て、神に立ち帰れ!
しかし、お前たちはそれを見ても信じないだろう。
マタイの福音書 27章39~43節
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
キリストを信じることは神の奇跡
ヨハネの福音書 10章27~28節
わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。”
ヨハネの福音書 3章13~17節
「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネの黙示録 3章20~22節
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」