「ルカの福音書」 連続講解説教

あなたの尊厳を回復する神

ルカの福音書講解(88)第18章35節〜43節
岩本遠億牧師
2013年7月28日

18:35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。18:36 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。18:37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、18:38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。18:39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。18:40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。18:41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。18:42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、 18:43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。

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イエス様がエリコというオアシスの町に近づいておられた時、その道ばたに一人の人が座り、物乞いをしていました。その人は目が見えませんでした。マルコの福音書によるとその人の名はバルテマイと言います。名前が残っているところから見ると、初代教会時代によく知られた人で、教会の中でも良い働きをした人であったのではないかと思われます。

この人が生まれながらに目が見えなかったのか、それとも途中で視力を失ったのか、そのことははっきりとは分かりませんが、「目が見えるようになる」と訳されている言葉が、「再び視力を得る」という意味でもあるので、視力を失ったのではないかと考え、そのように訳してある英語の聖書もあります。

しかし、ここで最も重要なことは、この人が視力を与えられるということがどのような意味を持っていたのかということを理解することであります。現代においても、目の不自由な方々は大変な苦労をされ、様々な実生活上の不都合や、社会的な制約を経験しながら生きておられることは事実であると思います。しかし、生まれたときから目の見えない天才ピアニストの辻井伸之さんの大活躍に見られるように、その与えられた能力を最大限に生かして、人々に勇気と力を与えてくれている人たちもいます。私たちの友人にも、どこからそのエネルギーとバイタリティーが来るのかと舌を巻くほどの活動をし、いつも驚かせてくださる方がいらっしゃいます。今の社会は、まだ限定的であるとは言え、目の見えない方々が活躍できる場を備え、共に生きることを楽しむことができるようになってきていることを、共に喜びたいと思います。

しかし、当時のイスラエルではそうではありませんでした。目の見えない人々、目の不自由な人々は物乞いをしなければ生きていけませんでした。道ばたに座って、通行人が落としていく金を頼りに生きていくしかない、そのような状況に置かれていたのが目の見えない人々でありました。

しかし、彼らの苦しみはそのような社会的な抑圧だけではありませんでした。当時のイスラエルでは、目の見えない人、足の不自由な人は、神に呪われた者たち、礼拝を捧げることができない者たち、神殿に入ることができない者たちとして、不当に差別されていたのです。

律法の中には、目の見えない人や足の不自由な人は礼拝を捧げることができないという規定はありません。神様はこれらの人々も一緒に礼拝を捧げるように招いておられるのです。しかし、紀元前1000年頃、イスラエル第二代の王となったダビデが、犯した大罪によって、これらの人々は礼拝から排除され、神に呪われた者として差別されるようになったのです。事の次第は、サムエル記第二5章に記されています。

5:4 ダビデは三十歳で王となり、四十年間、王であった。5:5 ヘブロンで七年六か月、ユダを治め、エルサレムで三十三年、全イスラエルとユダを治めた。5:6 王とその部下がエルサレムに来て、その地の住民エブス人のところに行ったとき、彼らはダビデに言った。「あなたはここに来ることはできない。目の見えないものや足のなえたものでさえ、あなたを追い出せる。」彼らは、ダビデがここに来ることができない、と考えていたからであった。5:7 しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である。5:8 その日ダビデは、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む目の見えない者、足のなえた者を打て。」と言った。このため、「目の見えない者や足のなえた者は宮にはいってはならない。」と言われている。

エルサレムは難攻不落の城砦でした。エブス人はそれを過信し、目の見えない者や足の不自由な者でも、ダビデを追い払うことができると言って、ダビデを挑発しました。ダビデはそれを自分に対する侮辱と捉えました。そして、部下たちに地下にある水道を通らせて、エルサレムに侵入させた時、先ず、目の見えない人たちと足の不自由な人たちを殺させたというのです。これは、とんでもないダビデの罪です。

ダビデは、ウリヤという忠実な部下からその妻バテシェバを奪い、策略を廻らせてウリヤを殺すという姦淫と殺人の大罪を犯しました。そのことについては、よく取り上げられるので知っている方も多いと思いますが、エルサレムを攻略した時に、目の見えない人たちと足の不自由な人たちを虐殺したということはあまり知られていないかもしれません。しかし、これは、バテシェバ事件に劣らぬダビデの大罪です。しかも、ダビデは犯した罪はこれに止まりませんでした。何とこの時以来、実に1000年間にわたって、「目の見えない者や足のなえた者は宮にはいってはならない。」と言われるようになったのです。

挑発に対する一時的な激高によって、目の見えない人たち、足の不自由な人たちが虐殺され、それ以来、目の見えない人たち、足の不自由な人たちは礼拝から除外され、神様の祝福を受けることができない呪われた者としてのレッテルを貼られ、差別され、卑しめられてきたのです。それは、「18:39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめた」というところにも見ることができます。何故、人々はバルテマイを黙らせようとしたのでしょうか。それは、彼らには目の見えないバルテマイはイエス様の恵みを受けるに価しないものだ、神の祝福から切り離された者だという意識があったからです。

ここで「たしなめた」と訳されている言葉は、人々が幼子たちをイエス様のところに連れてきた時、弟子たちが叱ったと訳されている言葉と同じです。幼子たちも人格を認められていませんでした。神の国からは除外された者とされていたのです。だから弟子たちでさえ、幼子をイエス様から遠ざけようとした。しかし、イエス様は、弟子たちに対して憤られたと聖書は言います。

人は自分勝手な思い込みや他者に対して優越感を持ちたいという尊大な思い、その裏側にある劣等感や支配欲によって人を卑しめ、差別し、あなたは神の祝福と関係がないと言ったりします。

しかし、イエス様は違います。イエス様はこの後、エリコをとおり、エルサレムに入城なさいますが、そこで最初に行なわれたのが、神殿から商売人を追い出す宮清めという荒業でした。マタイの福音書にはこのように書かれています。

21:12 それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」21:14 また、宮の中で、目の見えない人や足のなえた人がみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。

宮清めの後、イエス様は、それまで宮に入ることができず、礼拝を捧げることができなかった目の見えない人々、足の不自由な人々を宮の中に招き入れ、彼らを癒されたのです。彼らに礼拝を捧げる喜び、礼拝者としての尊厳を回復するためです。彼らに神の子の実存を回復するためです。礼拝から排除され、神の子の尊厳をはぎ取られ、卑しめられていた者たちを回復するお方、私たちに神の子の実存をお与えになるお方、これがイエス・キリストなのであります。

このイエス様が、バルテマイの近くを通られるのです。バルテマイは、目が見えませんでした。しかし、目が見えなかったから、道を歩く人たちの言葉、道で話す人たちの声を誰よりも注意深く聞いていました。ナザレからイエスを言う人が現れた。多くの人の病を癒し、神に呪われた病と言われていた重い皮膚病を癒している。目の見えない者を癒し、足のなえた者たちを癒している。悪霊に苦しめられた人々を解放し、恵みの言葉によって貧しいもの、苦しめられている者たちを力づけている。多くの人々が喜びの中に生きている。多くの人々に食物を与え、死人さえ生き返らせている。この方こそ、来るべきイスラエルの王、イスラエルの救い主ではないか。

イスラエルの王となるお方、イスラエルの救い主は、必ずエルサレムに上られる筈だ。このエリコの近くの道を歩かれる筈だ。バルテマイは、その日を今か今かと待ち続けていたに違いありません。

するとある日、俄に大勢の群衆が近づいてきました。何事か。誰が来るのかとバルテマイは聞きます。すると、彼が待ちに待ったあのナザレのイエスが来られるというのです。あのナザレのイエスに出会える。ナザレのイエスは、必ずこの目を開き、神の子の尊厳を回復してくださるに違いない。私をもう一度礼拝者として生かし、礼拝の喜びに満たしてくださるに違いない。尊厳ある存在として私を立たせてくださるに違いない。

その時、彼の内側から卑しめられていた神の子の尊厳が叫び出したのです。「ダビデの子、イエス様!私を憐れんでください!」「ダビデの子」というのはイスラエルの救い主のことです。それは取りも直さず、「私の救い主」「私の王」「私の神」という意味です。

周りの人間が彼を黙らせようとしました。「お前は関係ない」と。しかし、彼の卑しめられていた神の子の尊厳は決して黙ることはありませんでした。何故か?この方は、必ず私の声に耳を傾けてくださる。必ず私を礼拝者として立たせてくださる。神の子の尊厳の中に生かしてくださると信じて疑わなかったからです。

イエス様は彼の言葉を聞き逃されませんでした。「イエスは、足を止められた。」
そして、彼をそばに連れて来るように言いつけられました。彼が近寄って来ると、「わたしに何をしてほしいのか。」とお尋ねになりました。何故お尋ねになったのでしょうか。彼の実存の叫びを直接聞くためです。彼の信仰を呼び覚ますためです。神の子の尊厳を引き出すためです。彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と答えました。

彼が見たかったものは何だったのでしょうか。ナザレのイエス、イスラエルの王、私の王、私の救い主、私の神を見ること、この方を全身全霊をもって礼拝すること、それがバルテマイの最大の願いだったのではないでしょうか。イエス様は、この願いをバルテマイからお引き出しになりました。

18:42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、 18:43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。

「見えるようになれ」と命じられ、バルテマイが最初に見たものは何だったでしょうか。それは、彼が最も見たいと願っていたお方、ナザレのイエス、イスラエルの王、全人類の救い主、王の王、神の神である全能のお方だったのです。

私たちの実存が最も見たいと願っているもの、それは私たちの救い主、イエス・キリストではないでしょうか。勿論、現代に生きる私たちはこの肉の目でイエス様を見ることはありません。しかし、霊の目で見ることはできる。それを私たちは願っているのではないでしょうか。私たちの実存が卑しめられた時、私たちの前に立って、私たちに声をかけてくださるお方、私たちに神の子の実存を与えてくださるお方、この方との出会いを心の底で願っているのではないでしょうか。

私たちの実存の叫びに耳を傾けてくださるお方がいます。私たちの中で、人々の中で卑しめられている神の子の実存を回復してくださる方がいるのです。あなたの実存は痛んでいるでしょうか。神の子とされていることの喜びに満たされているでしょうか。もし、自分の実存が卑しめられていると感じ、痛みの中にあるなら、叫んで良いのです。あなたの尊厳を回復し、あなたを礼拝者として立たせるお方がいるからです。

決して黙ることができない実存の叫びに耳を傾けてくださる方がいます。あなたの声に足を止めてくださる方がいるのです。この方は、あなたにお尋ねになっています。「わたしに何をしてもらいたいのか」と。あなたは何と申し上げるでしょうか。祈りましょう。

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