「マタイの福音書」連続講解説教

あなたは生きよ

マタイの福音書第26章26節〜35節
岩本遠億牧師
2021年7月11日

 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。
 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
 すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。
                 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

当時の一般的メシア理解=政治的・軍事的メシア(ローマの支配を打ち倒し、ダビデ王朝を復興する)

イエス・キリスト(イエス、すなわちメシア)の本質
=ご自分の血によって全人類の罪の贖い(罪を覆い尽くす、一人一人に血を注ぎかけることによって、罪から清め、永遠の命を与える)
=十字架の死によって悪魔の力を打ち砕く
→三日目に甦り、神の民と永遠に共に生き、導く

聖餐の制定
=十字架の本質を理解させ、イエスと一体とされることを体験させる。

最後の晩餐の席での弟子たちの心理状態
=自分が師であるイエスを引き渡すのではないか。イエスを否定するのではないか。
=政治的・軍事的メシアとしてのイエスの革命は失敗するとの思い(実際彼らが持っていた武器は、剣一振りだけだった)。

→彼らはこの時点で絶望していた

「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。

政治的・軍事的メシアとしての革命が成功するとの希望を持っていたら、このような発言はしない。
→絶望が人を死へと駆り立てる(革命的ロマンチシズム)

イエスは、ペテロを始めとする弟子たちの離反を予告

「あなたがたは私につまずく」
=あなたがたは、政治的・軍事的メシアとしてはあまりにも弱いわたしに失望する

「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。」

しかし、君たちが臆病だからではない。これは神の計画である。
→この世的メシア理解から狂気の死へと向かおうとする弟子たちを押し止め、ただ一人で十字架に向かうイエス。
=イエスにしか成し遂げることができない十字架の業
→ただ一人で悪魔との戦いに向かい、ただ一人で罪の贖いを成し遂げる全人類の王、永遠の大祭司

しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

君たちは、わたしに躓き、わたしの十字架に絶望して、ガリラヤに帰り、わたしと出会う前の生活に戻るだろう。しかし、わたしは甦った後、君たちより先にガリラヤに行き、そこで君たちを待っている。もう一度会おう。

ヨハネの福音書 21章1~23節

“その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。

夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。
こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。

イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。

イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」

イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。

ルカの福音書第5章1節〜11節
“さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。

話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。”

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