「マタイの福音書」連続講解説教

あなたは私のそばにいろ

マタイの福音書 20章17~28節
岩本遠億牧師
2021年1月31日

さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」”マタイの福音書 20章17~28節

この箇所を理解する鍵
イエスの飲む杯を飲む=イエスと運命を共にする

ヤコブとヨハネの母(ゼベダイの妻)の霊的な直覚力。
イエスが真の王(殺されても甦る王)となる時が来ることを聞き取った。

セベダイの子たち:ペテロと共にイエスの最側近で薫陶を受ける。ボアネルゲ(雷の子)とイエスに呼ばれる。

使徒ヤコブ:使徒たちの中で最初の殉教者 A.D.44年ごろ 
使徒ヨハネ:使徒たちの中で唯一殉教しなかった。        
      古代からの伝統によれば以下の書を残す
        「ヨハネの福音書」
        「ヨハネの手紙第一、第二、第三」
      長老のヨハネ、愛の使徒とも称される。
      キリストの本質が「愛」アガペーであること、互いに愛し合うことを伝える。

イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」

仲間に対する配慮ゼロ。
自分のことしか考えていない。
しかし、それは、イエスに自分を最大限用いてもらいたいという思いの表れでもある。
イエスは、彼らの願いと思いを、拒絶しない。むしろ、最も近くにいるように導かれる。

変貌の山でも、ゲッセマネでも、死んだ少女を甦らせた時も、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて行かれた。

イエスの薫陶=生き方、死に方によってそれを示す

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

真の王とは何か?
支配する者か? 仕える者か?
処罰する者か? 罪を赦す者か?
命を奪う者か? 命を与えるものか?

キリストの権威
仕える権威、罪を赦す権威、命を与える権威。
罪のために滅んでいく者たちに、ご自分の命を与え、永遠に生かす権威。

キリストと同じ運命を生きるとは、あなたにとってどのようなことか?

キリストが愛しておられる人を愛する。
キリストが仕えておられるおられる人に仕える。
キリストがいのちを注いでおられる人に、自分の持っているものを差し出す。その人が生きることができるように。

主様、あなたのそばにいさせてください。

マザー・テレサの祈り 「私をお使いください」

「主よ、今日一日、貧しい人や、病んでいる人々を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日、私のこの手をお使いください。
 
主よ、今日一日、友を求める人々を訪れるために、私の足をお望みでしたら、今日、私のこの足をお使いください。
 
主よ、今日一日、優しい言葉に飢えている人々と語り合うために、私の声をお望みでしたら、今日、私のこの声をお使いください。
 
主よ、今日一日、人が人であるという理由だけで、どんな人でも愛するために、私の心をお望みでしたら、今日、私のこの心をお使いください。」

ローマ人への手紙 6章3~5節
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。」

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